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はじまりの岸  作者: インフィ
集団生活編

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第36話 重なった手



翌朝、直人は再び森へ向かう支度をしていた。

昨日一日、拠点へ残っただけだったが、森へ持っていく縄や道具を手にすると、妙に久しぶりな感じがした。


戸田のそばには、朝のうちに削り直した作動部分が置かれている。

高瀬がその様子を見て、口元を緩めた。



「今日は通訳付きか」



直人が振り返る。



「誰が通訳だよ」


「お前だろ」



高瀬は相希を見る。



「昨日は大変だったんだよ。作業が思うように進まなくてな。みんな余裕がなくなって、途中からうまく噛み合わなくなった」



相希は、昨日一緒に森へ入った男へ目を向けた。



「最初は説明が足りなかった。今日は打ち込む前に、位置も角度も全員で確認しよう」



男は少し意外そうな顔をしたあと、うなずいた。



「分かった。俺も、分からなかったら先に聞く」


「ほら。もう通訳いらないじゃん」


「お前は普通に働け」



戸田が吹き出した。

直人も笑う。



「いや、最初からそのつもりだからね?」


「余計なことを言わなければな」



今度は黒田まで笑った。

相希は納得していないような顔のまま、少しだけ口元を緩めた。


森へ入ると、空気はすぐに変わった。

昨日までに見つけた候補地へ向かいながら、高瀬が足元を確認する。

同行した者たちも、以前より慎重に歩くようになっていた。


柔らかい土を避ける。

踏まれた葉があれば、すぐには近づかずに高瀬を呼ぶ。

数日前なら、そのたびに何が新しくて何が古いのか聞いていた者も、今は自分だけで結論を出さなくなっていた。


候補地へ着くと、最初に高瀬が足を止めた。



「あるな」



低い藪の手前。

柔らかくなった土に、いくつかの足跡が残っている。

一人がしゃがみ込みかけ、途中で止まった。



「近づいていい?」



高瀬がうなずく。



「横からなら大丈夫だ」



全員が少し距離を取り、足跡を踏まないように回り込んだ。

高瀬は輪郭と土の湿り方を確かめる。

相希は足跡の向きを追い、以前置いた枝や石を見た。

何本かは、わずかに位置が変わっている。



「これ、通ってるよな?」



同行していた男が尋ねる。

相希はすぐに答えず、高瀬を見た。



「足跡は新しい?」


「昨日の雨よりあとだと思う」



相希はうなずき、枝の位置をもう一度確かめた。



「枝も前より動いてる。少なくとも、この辺りを使った可能性は高いと思う」



男の顔が明るくなる。



「じゃあ、うまく寄ってきてる?」


「一度だけじゃ判断できない。でも、昨日より条件は良くなってると思う」



直人が横からのぞき込んだ。



「ちゃんと前には進んでるってことね」


「そういうこと」



その答えに、男もうなずいた。


戸田は、朝のうちに削り直した作動部分を地面へ置いた。

仕組みそのものは、すでに形になっている。

今日やるのは、それをこの場所に合わせて組み、実際に動くかを確かめることだった。



「まずは仮に組もう」



戸田が支点となる枝を置く。

高瀬は獣道側から踏み込む位置を見て、相希は木まで伸びる縄の角度を確かめた。

直人は道具を運び、誰かの手が足りなくなれば、近くにいる者へ声を掛ける。


一度通した縄が、途中の枝へ触れた。



「ここ、擦らない?」



直人が指すと、戸田が縄を張った。

相希もその位置へしゃがみ込む。



「確かに、力が掛かると内側へ寄りそうだな」


「支点を動かすか?」



戸田が尋ねる。



「俺は少し手前へ出した方がいいと思う。高瀬さん、そこまで動かしても踏む位置は外れない?」



高瀬は獣道側から支点と縄を見比べた。



「手のひら半分くらいなら大丈夫だと思う。それ以上は寄せない方がいい」


「じゃあ、その幅で一度張ってみよう」



戸田は支点を仮の位置へ動かした。

枝を深く打ち込む前に、全員でもう一度、位置と角度を確認する。

同行していた一人が、束ねていた縄を差し出した。



「これ使う?」



戸田が受け取り、太さと結び目を確かめる。



「これなら使える」



男が少し得意そうに笑った。



「それ、俺が昨日編んだやつ」


「お前が?」


「途中で何回かやり直したけど」



戸田は縄を両手で引いた。



「ちゃんとできてるじゃん」


「そりゃ、こっちだって仕事してるからな」



昨日なら、少し棘を含んだ言葉になったかもしれない。

今日は戸田も笑って返した。



「助かるよ」



別の者が削った枝も、支点を固定するために使われた。

拠点へ残った者たちが準備した材料が、森の中で一つずつ役割を持っていく。

誰かが水を運んでいる間。

誰かが薪を集めている間。

誰かが食事を作っている間。

森へ来なかった者の手も、罠の中へ混ざっていた。


午前のうちに、一度目の形ができた。

戸田が縄を確認し、相希が支点の位置を見る。



「一回、動かすぞ」



少し離れた場所へ全員が下がる。


戸田が留め具を外した。

しならせた枝が勢いよく跳ね上がる。

縄が地面を滑り、鋭い音を立てて締まった。


その瞬間、直人の指が止まった。


土を削る脚。

縄に締め上げられながら暴れる身体。

低く漏れた声。

手の中に残った、刃を押し込んだ時の感触。


ほんの一瞬だった。

目の前には、誰も掛かっていない罠しかない。

直人は息を吐き、握っていた枝を持ち直した。



「直人?」



黒田が声を掛ける。



「ん?」


「大丈夫か」


「大丈夫。ちょっと音にびっくりしただけ」



直人は笑った。

黒田はそれ以上聞かなかった。

戸田も罠の方へ戻っていく。


相希だけが、その場に少し残った。

直人の手元を見る。

指先が、ほんの少しだけ強く枝を握っていた。


相希は何も言わなかった。

直人も、気づかないふりをした。


作動試験には、まだ問題があった。

縄の一部が、先ほど確認した枝へ擦れている。

支点の位置も少し高かった。



「仮に張った時より、内側へ寄ってるな」



戸田が縄を持ち上げる。



「またやり直しか」



昨日も一緒だった男が、地面へ目を落とした。

相希は罠だけではなく、男の顔と、戸田や高瀬の様子を順に見た。


「大きく変える必要はないと思う。先に一度休んで、そのあと支点だけ調整しよう」



男が顔を上げる。



「今日は早いな」


「昨日が遅かったから」



黒田が小さく笑った。



「じゃあ休もう。その方がいい」



全員が木陰へ移り、水を回した。

短い休憩を終えると、戸田が支点を少し下げ、相希と高瀬が両側から位置を確認した。


もう一度縄を張り、作動させる。

今度は途中の枝へ触れず、輪は狙った位置まで締まった。



「ここまで寄ってくればいける」



高瀬が獣道側から言う。



「昨日の跡なら、その辺りは通ってる」



相希が答えたあと、少し考えて付け加える。



「ただ、毎回同じ位置を踏むとは限らない」


「そりゃそうだ」



高瀬は笑う。



「森に相希の設計図を読ませるわけにはいかないからな」


「読んでくれるなら、こっちも楽なんだけどな」



直人が吹き出した。



「今の冗談?」


「半分本気」



今度は同行していた者まで笑った。

相希も、それ以上は否定しなかった。


昼を過ぎる頃には、ようやく設置できる形になった。

縄を土の下へ浅く隠す。

葉を戻す。

人が触った跡が目立たないように、周囲も少しずつ整える。


高瀬は全員を一度遠ざけ、自分だけで獣道側から罠を見た。



「悪くない」



戸田も支点と留め具を確認する。



「仕掛けとしては、これで大丈夫だと思う」



相希は最後に縄の角度を見た。



「俺も作動には問題ないと思う」



その時、同行していた男が尋ねた。



「これで、いける?」



誰へ聞いたのかは、はっきりしなかった。

それでも、周囲の視線は自然と直人と相希へ向いた。


直人はすぐには答えなかった。

戸田を見る。



「戸田さん、仕掛けとしては?」


「大丈夫だと思う」



次に高瀬を見る。



「場所は?」


「悪くない。少なくとも前よりはいい」



最後に相希を見る。



「相希は?」



相希は罠をもう一度確認した。



「試してみる条件は揃ってると思う」



直人はうなずいた。



「じゃあ、やってみよう」



誰かが小さく息を吐いた。


別の誰かが笑った。

罠そのものは、誰か一人が作ったものではなかった。


森へ来た者。

拠点へ残った者。

材料を作った者。

場所を探した者。

何度も失敗した者。


その全部が重なって、ようやく一つの罠になった。


帰り道では、昨日までより会話が多かった。



「本当に掛かるかな」


「掛かってくれなきゃ困る」


「困るって言っても、獣には関係ないだろ」



高瀬が言う。



「またでかいやつだったらどうする?」


「今度は最初から人数いるし、前より楽じゃない?」



誰かが口にした。


高瀬はすぐには答えなかった。

直人も、少しだけ考える。

前回の獣を捕らえるまでに、どれだけ時間が掛かったか。


罠が作動しなかったこと。

場所を変えたこと。


そして、捕まったあとに何が起きたか。

知っている者ほど、簡単には答えられなかった。

拠点へ戻ると、待っていた者たちがすぐに集まってきた。



「できた?」


「置いてきたよ」



直人が答えると、何人かの顔が一気に明るくなった。



「ちゃんと罠になった?」



縄を編んだ男が聞く。

戸田が持っていた余りの縄を見せた。



「ちゃんと使えた。結構しっかりしてたよ」


「本当?」


「助かった」



男は照れたように笑った。

枝を削った者も、自分の作ったものが使われたと聞き、何度も場所を尋ねた。

森へ行かなかった者たちの仕事が、初めて具体的な形になって返ってきた。


昨日まであった小さな引っ掛かりが、少しだけ薄くなる。

火の近くでは、あの女性も報告を聞いていた。

昨日、長く話していた男の方を見て笑う。



「よかったね」


「俺の縄じゃないけどな」


「でも昨日ずっと手伝ってたでしょ」


「まあね」



それだけの会話だった。


男は少し嬉しそうに笑い、すぐにほかの者の話へ加わった。

夕方になる頃には、話題のほとんどが罠のことになっていた。



「明日の朝には掛かってるかな」


「そんな都合よくいくか」



高瀬が笑う。



「でも前は掛かったんだろ?」


「掛かるまでに何日掛かったと思ってる」


「今度は前より上手く作ったんじゃないの?」



戸田が首を振る。



「上手く作ったから掛かるってものでもない」



それでも、誰かが言った。



「次も鹿みたいなやつかな」


「同じくらいの大きさなら、しばらく持つよな」


「今度は最初からもっと干した方がいいんじゃない?」


「骨も前みたいに使えるかな」



まだ何も捕まっていない。

森の中では、罠が一つ置かれているだけだった。

それなのに、人々の会話の中では、すでに獲物が横たわり、肉が切り分けられ、保存方法まで話し合われていた。



「ちょっと待って」



直人が笑う。



「まだ何も掛かってないからね?」


「分かってるよ」


「絶対分かってない顔してるだろ」



笑いが広がった。

直人も一緒に笑った。

けれど、火の向こうで吊るされた肉は、確実に少なくなっていた。


罠が完成したその日から。

獲物はまだ森のどこにも姿を見せていないのに、人々の中では少しずつ、次の肉になり始めていた。



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