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はじまりの岸  作者: インフィ
集団生活編

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第35話 見えない役割



翌朝、直人は森へ向かう者たちを見送った。

相希、高瀬、戸田、黒田。それに、罠づくりを覚えるための二人。

紗良も荷物の確認を手伝ったあと、拠点側へ戻った。



「本当に行かなくていいの?」



紗良が尋ねる。



「相希がいるから、罠の方は大丈夫だろ」


「罠の方はね」



紗良の言い方に、直人が首を傾げた。



「ほかに何かある?」


「別に」



紗良はそれ以上言わず、水を入れる容器を持ち上げた。



「じゃあ行こう。数を数えられるところ、見せてもらわないと」


「まだ疑ってるだろ」



二人が水場へ向かう頃、森では相希が罠の作動部分を組み直していた。


前の場所よりも、支点に使える太い木が獣道から遠い。

その分だけ縄を長く取れば、途中で力が逃げる。

枝で獣の通り道を少し寄せても、前と同じ形のままでは届かなかった。


戸田が支点となる枝を地面へ軽く打ち込み、高瀬はその脇で獣道の幅を測っていた。

黒田は少し離れた場所で、作動部分に使えそうな枝を選んでいる。

戸田と一緒に枝を押さえていた男へ、相希が声を掛けた。



「その枝、もう少し右へずらしてほしい」


「どれくらいだ?」



相希は男のそばまで歩き、地面の一点を指した。



「ここから、手のひら一つ分くらい」



男は枝を引き抜き、示された場所へ動かした。



「ここか?」



相希は獣道と枝の位置を見比べる。



「位置はそこで合ってる。角度をもう少し獣道側へ寝かせてほしい」



男の顔がわずかに険しくなった。



「それも先に言ってくれ。これ、何度も抜き差しするの結構きついんだ」



相希は固く締まった土と、枝を握る男の赤くなった手を見た。



「悪い。説明が足りなかった」



高瀬が枝のそばへしゃがみ込む。



「次からは、打ち込む前に位置と角度を全員で確認しよう。その方がやり直しも減る」



相希はうなずいた。



「そうしよう」



男も短く息を吐き、枝を置き直した。


今度は打ち込む前に、相希と戸田が位置と傾きを確かめる。

高瀬も獣道側から縄の通る向きを見た。



「そこなら大丈夫そうだ」



高瀬が言うと、男は枝を打ち始めた。

枝を叩く音が、森の中へ響く。


作業そのものは進んでいた。

位置を測り、縄の長さを変え、何度も作動を試す。

うまくいかなければ原因を探し、一つずつ修正していく。


相希の判断は正確だった。

聞き返されれば理由を説明し、伝わっていなければ別の言葉で言い直した。

自分の説明が足りなければ謝り、誰かの意見に理由があれば取り入れた。


それでも、やり直しが重なるたび、全員の口数は少しずつ減っていった。

失敗した者は謝り、周囲は大丈夫だと答える。

そのやり取りに、間違いはない。


だが、一度張った空気は、そのまま次の作業へ持ち越された。


拠点では、直人が水場から戻ってきたところだった。

両手に容器を抱え、肩でもう一つを支えている。



「ほら。ちゃんと三つ持ってきた」



後ろから歩いてきた紗良が答える。



「途中で二回休んだけどね」


「回数は関係ないだろ。全部届けば同じだよ」


「私が一つ持とうかって言ったのに、意地張るから」


「人を結衣みたいに言うなよ」



少し離れた場所で縄を編んでいた結衣が顔を上げた。



「何でそこで私が出てくるの?」


「意地張る代表」


「直人に言われたくない」


「俺は意地なんて張らないよ」


「じゃあ、その肩のやつ紗良に渡せばよかったでしょ」


「これは修行だから」


「後から理由を作らないで」



近くにいた者たちが笑った。


直人は容器を下ろすと、薪を運んでいる者のところへ向かった。

何も言わずに束の半分を受け取り、火のそばまで運ぶ。

縄を編んでいる者たちのところでは、一人の男が結び目を間違えて手を止めていた。


直人は、その手元をのぞき込む。



「俺も分かんない」


「分からないのに来たのかよ」


「一人で怒られるより、一緒に怒られた方が気が楽だろ」



縄の編み方を教えていた女性が、呆れたように笑った。



「二人とも、そこが逆」


「ほら。怒られた」


「怒ってないよ」



女性は二人の間へ座り、間違えた部分を一度ほどいた。

先日からその女性と一緒に作業することが多かった男も、向かい側で手を動かし始める。



「直人って、こういうの苦手そうだよな」


「そう見える?」


「細かい作業、すぐ飽きそう」


「失礼だな。昔はちゃんと働いてたよ」


「昔はって、今は働いてないみたいじゃん」



女性が笑う。

直人は真剣な顔を作った。



「じゃあ聞くけど、みんな元の世界では何してたの?」



その一言から、話題が少しずつ広がった。


誰かが以前の仕事を話す。

別の者が、仕事へ行く朝が嫌いだったと言う。

結衣は、休みの日でも職場から連絡が来ていたと愚痴をこぼした。


先ほどの男は、現代では一人暮らしをしていたと話した。



「料理とかしてたの?」



女性が尋ねる。



「一応。外で食べる金もなかったし」


「何作ってた?」


「炒飯とか、焼きそばとか。簡単なやつ」


「炒飯作れるんだ」


「何でそんなに意外そうなんだよ」


「もっと、全部コンビニで済ませてそう」


「ひどいな。餃子だって作ったことあるぞ」


「皮から?」


「そこまではやらない」


「じゃあ普通じゃん」



女性は楽しそうに笑った。



「でも餃子いいな。戻れたら食べたい」


「俺は焼くの上手いよ」


「自分で言う人、信用できない」


「じゃあ戻ったら作ってやるよ」


「本当に?」


「焦げても文句言うなよ」


「上手いんじゃなかったの?」



二人のやり取りに、直人が割って入る。



「俺の分も頼む」


「直人は金払え」


「元の世界へ戻って、最初にする会話がそれ?」



また笑いが起こった。


会話は、それだけでは終わらなかった。

どこで暮らしていたのか。

休みの日は何をしていたのか。

家族とは、どれくらい会っていたのか。

女性が男へ尋ね、男も同じことを女性へ聞いた。


それまでも二人は、同じ場所で何度も作業をしていた。

だが、交わしていたのは仕事に必要な言葉がほとんどだった。


今日は違った。

女性は男の話を聞き、気になったところがあれば続きを尋ねた。

男が以前話した小さなことも覚えていた。


男にとって、その時間は本当に楽しかった。

女性が笑ったことも、もっと話を聞こうとしたことも嘘ではない。

女性にとっても、男は以前より親しい仲間になっていた。

二人の間にあった距離は、確かに縮まっていた。


昼を過ぎても、拠点の空気は穏やかだった。


仕事が減ったわけではない。

水を運び、薪を集め、縄を編み、残っている肉の状態を確かめる。

森へ向かう者が増えた分、一人あたりの負担も軽くはなかった。


直人は一つの作業へ留まらず、手が足りていない場所を見つけるたびに移っていった。

水の容器を並べ、薪の山が崩れれば積み直し、縄を編む手が止まっていれば隣へ座る。


特別な技術を教えたわけではない。

誰かへ命令したわけでもない。


それでも誰かが失敗すれば、直人が先に笑い話へ変えた。

からかわれれば言い返し、自分も一緒に笑った。


疲れて黙り込んだ者へは、関係のない話を振った。

一人が答えると、その言葉を別の者へ渡した。


気がつけば、昨日まで別々に作業していた者たちの間にも会話が生まれていた。


紗良は昼の支度をしながら、その様子を見ていた。

昨日まで、この場所には小さな硬さがあった。


森へ行けなかった者。

森へ行った者の分まで、仕事を増やされた者。

自分の役割を重要だと思えなくなっていた者。


直人は、その不満を一人ずつ聞いたわけではない。

誰が正しいのかを決めたわけでもなかった。


ただ、誰かが言葉を間違えても、直人が一度受け取り、別の言葉で輪の中へ戻す。

そのため、言葉を間違えた者だけが、その場の外へ残されることがなかった。


紗良は、向かいに座る直人を見る。

直人は縄を編みながら、完全に違う結び方をしていた。



「それ、さっき教えてもらったのと違うよ」


「これにはこれの良さがある」


「ほどけるっていう良さ?」


「簡単にほどけた方が、再利用できるだろ」


「ただの失敗でしょ」



直人は笑って、また縄をほどいた。


森では、相希たちが二度目の作動試験を行っていた。

戸田が留め具を外す。

枝がしなり、縄が跳ね上がる。

だが途中で別の枝へ擦れ、輪は狙った位置まで締まらなかった。



「さっき仮に通した時は、当たってなかったよな」



同行した男が相希を見る。



「うん。力が掛かると、縄が内側へ寄るみたいだ」


「またやり直しか」


「この枝を落とすか、支点を少しずらせば直せると思う」



男は地面へ腰を下ろした。



「これで何回目だよ」


「三回目」



相希は答えたあと、男の表情を見る。



「……でも、回数を聞きたいわけじゃないよな」



男は何も言わなかった。


相希は周囲を見た。

戸田は腕を何度も伸ばし、高瀬も額の汗を拭っている。

黒田の呼吸も、朝より少し深くなっていた。



「一度休もう」



黒田がうなずく。



「そうしよう。その方がいい」



全員が木陰へ移動し、地面へ腰を下ろした。

相希は水の入った容器を男へ差し出す。



「先に気づけなくて悪かった」


「相希だけが疲れてないように見えたんだよ」


「俺も疲れてる。ただ、考えてる時は顔に出にくいらしい」


「らしいって何だよ」


「直人によく言われる」



男がわずかに息を漏らした。

笑ったのか、呆れただけなのかは分からなかった。

それでも、先ほどより表情は少し緩んでいた。


休憩を終えると、相希は問題の枝と支点を全員へ示した。



「枝を落とすと、獣から見える形も変わる。俺は支点をずらした方がいいと思う。どう思う?」



高瀬が獣道側から枝を見る。



「この枝は残した方がいい。急に切れば警戒されるかもしれない」



戸田も縄を引きながら答える。



「支点を少し手前に出せば、擦れずに通せると思う」


「じゃあ、それで試してみよう」



今度は枝を深く打ち込む前に、縄を仮に張った。

一人が引き、もう一人が擦れる場所を確認する。


相希だけで決めるのではなく、全員で位置を確かめてから作業を進めた。

誰かが間違っているわけではなかった。

相希がいなければ、原因を一つずつ切り分け、ここまで形にするのは難しかった。


それでも、何度もやり直した疲れまでは消えない。

作業が進むにつれ、必要な言葉だけが交わされるようになった。

日が傾き始めた頃、罠の形はようやく整った。


完全な設置ではない。

拠点へ戻り、作動部分を少し削り直す必要がある。

それでも翌日には、候補地へ仕掛けられる見通しが立った。


森を出る者たちの足取りは重かった。

拠点へ戻ると、火の近くから笑い声が聞こえた。


直人が、まとめようとした縄を腕と身体へ絡ませたまま立っている。



「だから、それじゃ獣より先に直人が捕まるって」



紗良が言う。



「これ、俺が悪いの?」


「自分で輪の中に入ったでしょ」


「罠の強度を試してるんだよ」


「その縄、干し肉を吊るすやつだよ」



周囲の者たちが笑っている。


水は汲み終わっていた。

薪も積まれている。

食事の支度も進んでいた。


拠点に残った者たちも、一日中働いていた。


それでも、張りつめた空気の中で何度も罠を作り直してきた者たちには、目の前の笑い声が必要以上に軽く見えた。



「随分、楽しそうだな」



森へ同行した男が言った。

直人が顔を上げる。



「おかえり。そっちはどうだった?」



男は持っていた枝を地面へ置いた。



「大変だったよ。朝から何回やり直したと思ってるんだ」



笑っていた者たちが、少しずつ口を閉じる。

拠点で水を運んでいた男が答えた。



「こっちも遊んでたわけじゃない。水も薪も全部終わらせてるよ」


「何もしてないとは言ってない。戻ってきたら、遊んでるように見えただけだよ」


「それはこっちだって同じだろ」



空気が張りかける。

直人は身体へ絡まった縄を外しながら、森側へ近づいた。



「悪かった。遊んでたように見えたよな」


「直人が謝ることじゃない」


「でも、笑ってたのは本当だし」



直人は地面に置かれた枝を拾った。



「こっちも結構大変だったんだけどさ。俺が水をこぼして、紗良にずっと馬鹿にされてる」


「一回じゃないよ」



紗良が訂正する。



「そこは黙ってて」



小さな笑いが起こりかけた。

しかし、森から戻った男の表情はまだ硬い。

直人は男の顔を見て、声を少し落とした。



「罠の方、うまくいかなかった?」


「形にはなった。明日には置けると思う」



戸田が答える。



「じゃあ、進んだんだな」


「何度もやり直した」



別の男が言う。

直人は持っていた枝を火のそばへ置いた。



「そっか。お疲れさま」



直人は火のそばに並べられた容器を見る。



「とりあえず、水飲もう。今日は多めに汲んだから」


「途中で二回休んだけどね」



紗良が付け加える。



「それは言わなくていいだろ」



小さな笑いが起こった。

先ほどまで言い合っていた拠点側の男が、水の入った容器を差し出す。



「ほら。まだ残ってるよ」



森から戻った男は少し迷ってから、それを受け取った。



「ありがとう」



一人が腰を下ろすと、ほかの者も続いた。

疲れが消えたわけではない。

互いの負担を、すべて理解できたわけでもなかった。

それでも、張っていた空気は少しずつ緩んでいった。


水を飲み、一息ついたところで、相希が口を開いた。



「作動部分を少し削り直す必要はある。でも、何度かやり直した分、前より仕組みは整理できたと思う」



森へ同行した男が、相希を見る。



「さっきは悪かった。疲れてた」


「いや。俺も完成させることに意識が寄りすぎた。次はもう少し早く休憩を入れた方がいいと思う」



黒田が二人を見る。



「続きは明日だ。今日はもう休もう」



誰も反対しなかった。


相希は、森から戻った者と拠点に残っていた者が、同じ火の近くへ座る様子を見ていた。

森で相希が整えていたのは、罠の仕組みと作業の順序だった。


直人が拠点で整えていたものには、形がない。

誰が正しいのかを決める前に、互いがもう一度言葉を出せる場所を作る。

間違いや不満が、誰か一人へ残り続けないようにする。


相希が森で担っていた役割とは、違うものだった。

どちらか一方で足りるものでもなかった。


相希は、身体から縄を外し終えた直人を見る。

直人はもう、自分が何をしたのかなど忘れたように、森から戻った者たちへ食事を渡していた。


その少し向こうで、紗良も相希を見ていた。

二人の視線が、一瞬だけ重なる。


紗良は何も言わなかった。

だが相希には、紗良も同じものへ気づいているように見えた。


食事が始まる頃、昼間に女性と話していた男は、彼女の近くへ座った。

女性もそれを気にせず、男へ器を渡す。



「はい。餃子の人」



男は笑った。



「何だよ、その呼び方」


「戻ったら作ってくれるんでしょ」


「覚えてたのか」


「自分で言ったじゃん」



男は器を受け取った。

女性が覚えていたことが、嬉しかった。

昼間の会話は、その場だけのものではなかった。

彼女も同じ時間を覚えている。

そう思った。


その時、女性が森側の奥へ目を向けた。

黒田がまだ食事の輪へ来ていなかった。

森から持ち帰った縄を、戸田と一緒に確認している。



「黒田さん、まだ食べないのかな」



女性が小さく言った。



「あとで来るだろ」



男が答える。



「冷めちゃうから、取っておこうかな」



女性は鍋へ近づき、黒田の分を別の器へよそった。


男は、その手元を黙って見ていた。

黒田だけを特別に扱っているようにも見える。

だが、黒田は森の仕事をまとめていた。

戻ってからも、まだ作業を続けている。

彼女が気に掛けるのは、当然かもしれない。


女性は黒田の器を火の近くへ置くと、男の隣へ戻った。



「どうしたの?」


「別に」


「疲れた?」


「俺は一日ここにいただけだよ」


「ここにいたって疲れるでしょ」



女性はそう言って、自分の器から肉を一切れ取り、男の器へ入れた。



「水汲みも手伝ってたし」


「いいよ。自分で食べろよ」


「今日は私の方が多いから」



それは、同じ場所で働いた仲間への自然な気遣いだった。


女性にとって、男は昨日より少し親しくなった仲間だった。

話すことは楽しく、疲れていれば気に掛ける。


黒田の食事を残したのと同じように、相手を見て自然に動いただけだった。

男にとっても、今日一日で距離が縮まったという感覚までは同じだった。


違っていたのは、その先だった。


男は女性からもらった肉を口へ運んだ。

自分とは、確かに前より近くなった。

黒田のことも、気にしているように見える。

その二つを、まだどう受け取ればいいのかは分からなかった。


ただ、昼間よりも彼女のことを考える時間が増えていることだけは、自分でも分かっていた。



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