第32話 次は全員で
食事が終わったあとも、火の周りにはしばらく笑い声が残っていた。
腹を押さえたまま寝転がる者。
もう食べられないと言いながら、葉の上に残った肉を名残惜しそうに見る者。
残った食事を包み、明日へ回す準備をする者。
満腹になった者から、一人、また一人と寝床へ戻っていく。
誰かが終わりを告げたわけではない。
食事会は、火が小さくなるのと同じように、ゆっくりと静まっていった。
紗良も結衣を寝床まで連れていった。
結衣は食べた分だけ身体が重くなったのか、横になるとすぐに目を閉じた。
骨の鍋は、弱くした火の上で煮え続けている。
保存棚には薄く切った肉が並び、白い煙がゆっくりとまとわりついていた。
気づけば、焚き火を囲んで残っていたのは五人だけだった。
直人。
相希。
黒田。
高瀬。
戸田。
罠を作り、森へ入り、獣を運び帰った五人が、狙ったわけでもなく同じ場所に残っている。
黒田が火へ細い枝を一本放り込んだ。
「しかし、本当に掛かるとはな」
炎が枝の表面を舐め、乾いた音を立てた。
高瀬が腹をさすりながら笑う。
「場所を変えたのが大きかったんだと思う。前のところじゃ、獣がどこを通るか絞りきれなかった」
「最初は動かすって言った直人に、結構腹が立ったけどな」
戸田が言う。
直人は眉を上げた。
「結構どころじゃなかったでしょ。罠を信用してないのかって、すごい顔してましたよ」
「実際、そう聞こえたんだから仕方ない」
「俺だって、自信を持ってあの場所を選んだんだ」
高瀬も苦笑する。
「でも、結果的には直人の言った通りだった。獣が通るところと、獣が通らざるを得ないところは違う」
相希が火を見ながら言った。
「罠の位置を一つに絞れた。それで余計な条件が減った」
「なんだよ。あの時は腹を立ててたのに」
直人が横から言う。
「腹は立った。でも、直人の言ってることは正しかった」
「素直じゃないな」
「お前に言われたくない」
直人が笑い、黒田と高瀬もつられて口元を緩めた。
戸田は火の向こうに置かれた縄を見た。
「次にやるなら、担ぐ棒と縄は最初から持っていった方がいいな。あの大きさをその場でどう運ぶか考えるのは、さすがに遅かった」
「刃物もだ」
黒田が続ける。
「すぐ使える位置へ出しておいた方がいい。獣が暴れた時に、誰がどこから近づくかも決めた方がいいな」
「血を抜く道具も必要だと思う」
相希が言う。
「今回は縄と枝をその場で組んだ。最初から想定していれば、もっと早くできた」
五人は、それぞれ思い出したことを挙げていった。
罠を設置するまでしか見ていなかった自分たちが、捕獲のあとにどれほど手間取ったのか。
一度経験したからこそ見える不足が、いくつもあった。
戸田が少し考え込むように、火の中へ視線を落とした。
「それにしても、最初に跳ねたのは結局何だったんだろうな」
五人の間に、短い沈黙が落ちた。
最初に罠を見に行った時、曲げていた木はすでに元の位置へ跳ね上がっていた。
だが、獣はいなかった。
血も、毛も残っていない。
地面にも、激しく暴れたような跡はなかった。
高瀬が口を開く。
「獣自体は近くまで来てたと思う。新しい足跡があった」
「でも、掛かったとは考えにくい」
相希が続ける。
「脚が締まったなら、何かしら残る。血か毛か、少なくとも土がもっと荒れていたはずだ」
黒田が火へ手をかざした。
「じゃあ、空振りだったってことか?」
「たぶん」
相希は断定しなかった。
「輪の端を踏んだか、浅く脚を入れたところで作動した。最初は感度を上げすぎていたから、十分に入る前に木が跳ねた可能性が高い」
戸田がうなずく。
「あの時は、少し触れただけでも外れるくらいにしてた」
「それで次は重くした」
高瀬が言った。
「でも、次は獣が来ても罠を踏まなかった」
直人が火の中へ細い枝を落とす。
「結局、そっちは場所の問題だったんじゃない?」
高瀬は少しだけ顔をしかめたが、否定はしなかった。
「道が広すぎた。通ってはいたけど、罠の上を通る必要がなかった」
「人の手が入ったところを避けた可能性もあります」
相希が言う。
「一度罠が作動して、その周囲を警戒したのかもしれない。足跡が同じ個体のものだったとも限らない」
「じゃあ、結局どれだ?」
戸田が尋ねる。
相希は少し考えてから答えた。
「最初は罠の作動が早すぎた。そのあとは、通り道が広すぎた。たぶん、両方」
「たぶん、か」
黒田が苦笑する。
「確かめようがない」
相希は火を見たまま答えた。
「でも、次に同じ罠を作るなら、感度と場所の両方を見る。それで十分です」
その時、寝床の方から足音が近づいてきた。
紗良だった。
結衣を休ませ、残った片づけも終えたらしい。
五人がまだ火を囲んでいるのを見ると、少し離れた場所へ腰を下ろした。
「まだ話してたんだ」
「今日の反省会みたいなもんだ」
黒田が答える。
「最初の罠がなんで空振りだったのか、ってところ」
「答えは出たの?」
「たぶん、罠と場所の両方」
直人が言う。
「相希の好きな、断定できない結論」
相希は直人を横目で見た。
「分からないものを分かったふりするよりはいい」
紗良が小さく笑った。
火を囲む空気は、まだ穏やかだった。
だが、相希の表情だけは完全には緩んでいない。
罠の話が一段落しても、何かを待っているように見える。
紗良は、それに気づいていた。
しばらくして、相希が口を開いた。
「でも、一番の問題は罠じゃない」
声の調子は変わっていない。
それでも、火の周りの空気が少しだけ硬くなった。
直人の目が相希へ向く。
「捕まえた後のことを、誰も決めていなかった」
相希は一人ずつ見た。
「誰が獣を押さえるのか。誰が刃物を持つのか。誰が仕留めるのか。誰が周囲を見るのか」
誰も口を挟まない。
「血を抜く方法も、運ぶ方法も、何も決めていなかった」
相希の視線が直人で止まった。
「そのせいで、全員が止まった」
直人がわずかに息を吐いた。
「でも、誰かがやるしかなかっただろ」
「だから、直人一人で決めていいという話にはならない」
「決まってなかったから、俺が行ったんだよ」
直人の声から、さっきまでの軽さが少し消えた。
相希は返す。
「それを勝手に決めたと言ってる」
直人は火へ視線を落とした。
「肉を取りに行こうって言ったのは俺だ」
「罠を作ろうって言い出したのも俺だろ」
「それはそうだけど――」
「でも、実際は俺、言っただけなんだよ」
相希の言葉を遮るように、直人は続けた。
「仕組みを考えて調整したのは相希と戸田さんだ。場所を探したのは高瀬さんで、黒田さんもずっと全体を見てた」
黒田たちへ視線を移す。
「細かいところは、ほとんどみんなにやってもらった」
それから再び相希を見る。
「だから最後くらいは、俺がやるべきだった」
「最後くらい?」
相希の眉が寄った。
「一番嫌なところまで誰かにやらせたら、帳尻が合わないだろ」
「何が帳尻だ」
相希の声が低くなる。
「みんなが罠を作ったのは、直人に借りを作らせるためじゃない」
「借りって話じゃない」
「じゃあ何だ」
「責任だよ」
直人も声を強めた。
「俺が言い出した。みんなを巻き込んだ。だったら、最後の責任まで誰かに投げるのは違うだろ」
「提案した責任と、一番重いところを一人で引き受けることは別だ」
「全部を一人でやったわけじゃない」
直人はすぐに返す。
「みんなで罠を作った。みんなで運んだ。俺がやったのは最後だけだ」
「一番重い一つを、勝手に持っていった」
「だから、俺が持つべきだったんだよ」
「どうしてそれを直人が決める」
「俺が言い出したからだって、さっきから言ってるだろ」
「それを決めるために、俺たちはいた」
相希の声が、さらに強くなる。
火の中で薪が崩れ、火の粉が小さく舞った。
直人はその向こうで相希を見る。
「話し合ってる時間なんかなかっただろ。あのまま暴れさせておくのか?」
「早く止める必要があったことは分かってる」
「じゃあ何が問題なんだよ」
「お前が、俺たちが何か言う前に前へ出たことだ」
「俺が行けたんだから行った。それで終わっただろ」
相希の表情が変わった。
「終わった顔をするな」
直人の眉が寄る。
「終わっただろ。皆で食べた」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、どういうことだよ」
相希は答えなかった。
直人は何かを待つように見ていたが、相希の口から続きは出ない。
本当に言いたいものは、言葉にならなかった。
代わりに相希は、別の言葉を選んだ。
「お前だけが背負う必要はない」
「俺は背負える」
「本当に?」
直人は間を置かなかった。
「背負えるかどうかじゃない。俺がやるべきだったんだよ」
「またそれか」
「またって何だよ」
「そうやって、自分がやるべきだって決めて、全部持っていく」
「全部じゃないって言ってるだろ」
「俺には同じに見える」
直人は何かを言い返そうとした。
黒田がその前へ入る。
「二人とも、一度落ち着け」
黒田は相希を見てから、直人へ目を向けた。
「直人が動いたこと自体は、間違いだったとは思わない」
相希の目が黒田へ移る。
「あのまま暴れさせていれば、獣はもっと苦しんだかもしれない。俺たちの誰かが怪我をした可能性もある」
黒田は少しだけ視線を伏せた。
「それに、直人が行ってくれて、正直ほっとした」
高瀬も火を見ながら言う。
「俺は捕まえるところまでしか考えてなかった」
「痕跡を追って、場所を見つけて、罠に掛ける。そこで終わりだと思ってた」
戸田も続く。
「俺も、刃物を渡した時にほっとした」
直人が戸田を見る。
「直人がやるって言ったから渡した。でも、自分がやらなくて済むって思ったのも本当だ」
直人は三人を見回した。
「だから、みんなが悪いって話じゃないだろ」
相希がすぐに返す。
「誰が悪いかを決めたいんじゃない」
相希は直人から目を逸らさなかった。
「俺たちも当事者だった。なのに、お前は自分だけの責任にした」
「そんなつもりはない」
「つもりの話じゃない」
二人の声がまたぶつかる。
紗良はしばらく黙って聞いていた。
直人が言い返そうとしたところで、紗良が静かに口を開いた。
「二人とも、少し話がずれてない?」
直人と相希が、同時に紗良を見る。
「直人は、自分が言い出したことへの責任を話してる」
紗良は直人を見る。
「相希は、誰が責任を持つかを、直人一人で決めたことを話してる」
今度は相希へ目を向ける。
「同じことを話してるようで、答えてる場所が違うんじゃないかな」
火の音だけが残った。
直人は何か言おうとして、やめた。
相希もすぐには返さなかった。
紗良はそれ以上、二人の内側へ踏み込まない。
何を言わずにいるのかまで、代わりに口にするつもりはなかった。
やがて相希が、ゆっくりと息を吐いた。
「次からは、捕まえた後まで先に決める」
直人が顔を上げる。
「誰が押さえるか。誰が仕留めるか。誰が刃物を持つか。誰が周囲を見るか」
相希は一人ずつ見た。
「血抜きも運搬も、その場で考えない。先に役割を決める」
直人は少し考えたあと、尋ねる。
「それで、俺がやることになったら?」
「その時は、お前がやればいい」
直人がわずかに目を見開く。
「でも、お前一人にはしない」
相希は続けた。
「押さえる人間がいる。刃物を渡す人間がいる。周囲を見る人間がいる。終わったあとの作業も、全員でやる」
直人が口を開く。
「次も俺が――」
「直人」
相希が遮った。
「次は全員でやる」
黒田がうなずく。
「俺もそれでいい」
「次は俺も、捕まえた後まで考える」
高瀬も言う。
戸田は火のそばに置かれた刃物へ目を向けた。
「今度は、渡して終わりにはしない」
三人の意思が揃う。
直人は相希たちを見回した。
納得しきった顔ではなかった。
それでも、自分が責任を引き受けるのと同じように、四人も責任を持とうとしていることは分かった。
「……分かったよ」
相希は念を押さなかった。
直人の返事を、そのまま受け取った。
だが、話が終わっても、空気はすぐには元へ戻らなかった。
短い沈黙のあと、直人が立ち上がる。
「俺、疲れたから先に寝るわ」
いつもの調子に近かった。
それでも、少しだけ作った明るさが混じっていた。
黒田も高瀬も、引き止めなかった。
相希も何も言わない。
直人は火から離れ、寝床へ向かって歩いていった。
紗良は、その背中を見送った。
昼間、水場へ向かった時と少し似ている。
ただ今度は、身体についた血を洗うためではなかった。
直人の姿が暗がりへ消える。
しばらくして、黒田が口を開いた。
「少し強く言いすぎたんじゃないか」
相希は火を見たまま答えなかった。
高瀬が膝を抱える。
「でも、次は役割を決めた方がいい。それは間違いないと思う」
「直人がやってくれたことには感謝してる」
戸田も言った。
「だからこそ、次も同じ形にするのは違う」
黒田がうなずく。
「直人が間違っていた、で終わらせる話じゃない」
火の向こうで、骨の鍋から小さな泡が上がる。
「俺たちも、直人が動くことに甘えた」
黒田は相希を見る。
「次はそれをしない。それでいい」
高瀬が立ち上がった。
「俺も寝る。さすがに今日は疲れた」
戸田も保存棚の煙を最後に確かめ、立ち上がる。
「火はこれくらいでいいだろ。朝まで完全に消えなければいい」
二人は順に寝床へ向かった。
黒田も少し遅れて立つ。
「直人も、何も考えてないわけじゃない」
相希は返事をしない。
「少し時間を置いた方がいい」
黒田はそれだけ言い残し、暗がりへ消えた。
火のそばには、相希と紗良だけが残った。
しばらく、どちらも話さなかった。
弱くなった炎が薪の表面を這い、骨の鍋が静かに音を立てている。
紗良はすぐには相希を見なかった。
問いかける言葉を探すというより、相希が話せるだけの時間を待っていた。
やがて、紗良が火を見たまま言う。
「さっきの話、責任の決め方だけじゃないよね」
相希の視線が、わずかに動いた。
だが、答えはない。
紗良は続ける。
「直人が一人でやったことより、また一人でやったことが嫌だったように見えた」
相希は否定しなかった。
火の中で、細い枝が折れた。
長い沈黙のあと、相希が口を開く。
「直人なら、またやる」
声は小さかった。
「同じ状況になったら、また誰より先に行く」
紗良は黙って聞く。
「そのたびに、自分は平気だって顔をする」
相希は火の向こうを見る。
直人の寝床は、ここからでは見えなかった。
「本当に平気なら、それでいい」
少し間を置く。
「でも、今日は違った」
水場へ一人で向かった直人。
食事の途中、手の中の肉を見つめて止まっていた直人。
それでも皆の前では、何もなかったように笑っていた。
「そういうことを何度も続けたら……」
相希は言葉を探した。
すぐに答えへ辿り着ける相希が、自分の感情を前にして何度も言葉を止める。
紗良は続きを急かさなかった。
「いつか、何も感じなくなるんじゃないかと思う」
相希の声が、さらに低くなる。
「直人が直人じゃなくなってしまう気がする」
それは理屈ではなかった。
直人が怪我をする可能性でも、命を落とす危険でもない。
直人が誰かを守るたびに、自分自身を少しずつ削り、そのことにすら気づかなくなる。
相希が恐れているのは、その先だった。
「皆に言えなくてもいい」
相希は一度、唇を閉じた。
言うべきか迷うように、火へ視線を落とす。
「でも、俺には……平気じゃないって言ってもいいはずだろ」
紗良は相希を見た。
相希がこんなふうに、自分の願いを口にするのを初めて聞いた。
誰かを説得するための言葉ではない。
正しい答えを導くためでもない。
直人に頼ってほしい。
苦しいなら、その一部を自分へ渡してほしい。
それは、紗良がこれまで見たことのない、相希の恐れと願いだった。
紗良は安易に慰めなかった。
「直人は、隠してるつもりがないんだと思う」
相希が紗良を見る。
「自分が背負ってるとも、弱いところを見せてないとも思ってない」
紗良は言葉を選びながら続けた。
「今回は、自分がやるべきだった。それだけだって、本気で思ってるんじゃないかな」
相希はしばらく黙ったあと、小さく答えた。
「それが一番困る」
紗良も否定しなかった。
「でも、相希がそこまで思ってることも、直人は知らないよ」
相希は再び火へ目を戻す。
「言わないと、分からないと思う」
「言えるなら、さっき言ってる」
紗良は少しだけ笑った。
「それもそうだね」
二人の間に、また静けさが戻った。
遠くで誰かが寝返りを打つ音がした。
骨の鍋は、弱い火の上で変わらず煮え続けている。
次は全員でやる。
その決まりは作れた。
一人で背負うなとも言えた。
けれど、俺には頼ってほしいとは言えなかった。
相希は鍋の中で上がる小さな泡の音を聞きながら、直人へ届かなかった言葉を、もう一度胸の奥へ戻した。




