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はじまりの岸  作者: インフィ
集団生活編

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第31話 いただきます



火の周りには、大きな葉が何枚も広げられていた。


蒸し上がった肉。

表面が焦げるまで追い焼きした肉。

黒く焼き締められた内臓。


そのどれもが、一人分に分けられることなく、葉の上へ山のように積まれている。


濃い匂いが、焚き火の煙とともに拠点を満たしていた。

皆、火のそばまで集まっている。

それでも、誰も手を伸ばさなかった。

食べていいことは分かっている。

保存に回す分は、すでに棚の上で煙に包まれている。骨の入った鍋も、明日以降のために火へ掛けられていた。


目の前に並んでいるものは、すべて今日食べていいものだった。


それでも、これまでの習慣が身体に残っている。

大きなものを取れば、誰かの分が減る。

先に二つ目へ手を伸ばせば、まだ食べていない者が困る。

そうやって、ずっと食べ物を分けてきた。


直人も、葉の上へ手を伸ばしかけたまま止まっていた。

並べられた肉へ目を落とす。

つい先ほどまで、それは森の中で暴れ、声を上げていた。


自分たちが罠を仕掛けた。

自分が刃を入れた。

その命が今、皆の腹を満たすために並べられている。


直人は手を引いた。



「その前に、ちゃんとやろう」



集まっていた者たちの視線が向く。



「いただきます、って」



日常の中では、深く考えずに口にしていた言葉だった。


食事が運ばれてくれば言う。

誰かが作ってくれれば言う。

けれど今は、その言葉が何を意味するのか、誰もが知っていた。


直人は黒田を見る。

何かを頼む言葉はなかった。

それでも黒田は、その視線を受け取った。

火の前へ立ち、葉の上に並ぶ肉を見下ろす。


それから、集まった者たちをゆっくり見渡した。



「俺たちが生きるために、この命をもらう」



黒田は一度、言葉を切った。



「無駄にはしない」



誰かが小さく息を吸う音がした。




「い(・)た(・)だ(・)き(・)ま(・)す(・)」




黒田が頭を下げる。

その場にいた者たちも、思い思いに頭を下げた。



「いただきます」



声は揃わなかった。

はっきりと言う者もいれば、唇だけを動かす者もいた。

それでも、同じ意味の言葉が火の周りへ重なった。


頭を上げても、最初の一人はなかなか動かなかった。

皆が隣の様子をうかがっている。


直人はその顔を見回し、わざとらしく眉を上げた。



「みんな、どうしたの?」



葉の上から、大きめの肉を一つ取る。



「せっかくのご馳走なんだから、遠慮してたら俺が全部食べちゃうぞ」


そう言うと、肉へ豪快にかぶりついた。

厚い肉は簡単には噛み切れなかった。

直人は首を傾けながら何度も顎を動かし、ようやく一口を引きちぎる。


いつもなら、相希が「そんな大きさで食べきれるのか」と、呆れた声を飛ばしてくる。

けれど、相希は何も言わなかった。

火の通りを確かめるように葉の上の肉を見て、次に皆の表情を見ている。


直人も、ほんの一瞬だけ返事を待ったようだった。

その間を、三浦の声が埋めた。



「本当に、いくつになってもわんぱく小僧だね」



呆れたように言いながら、その顔は笑っていた。



「全部食べられる前に、みんなも取りな」



一人が、小さな肉へ手を伸ばした。

その隣でも、別の手が動く。

一人が取れば、次の一人も手を伸ばせた。

張りつめていた空気が、そこで一気にほどけた。

最初の一口は、誰もが慎重だった。


表面へ歯を立て、何度も噛む。

相希が安全を優先して火を通した肉は、柔らかいとは言えなかった。

塩もなければ、香りを足す調味料もない。

それでも噛み締めるたび、繊維の間から脂がにじんだ。

熱とともに、魚や木の実では得られなかった濃い味が口いっぱいに広がる。


誰かが目を見開いた。



「肉だ……」



当たり前のことを、確かめるように呟く。


別の者は、返事をするより先に二口目を頬張っていた。

一つ目を食べ終えると、今度は誰も周囲を待たなかった。


大きな肉を選ぶ者がいる。

脂の多い部分へ手を伸ばす者もいる。

内臓を口へ入れた一人が、焦げた苦みに顔をしかめた。



「苦いぞ、これ」


「そっちを選んだのは自分だろ」



笑い声が上がる。

別の者が、蒸し上がった肉を裂きながら声を上げた。



「こっち、柔らかいぞ」



その言葉を聞き、何人もの手が同じ葉へ伸びた。



「おい、まだ俺が取ってるだろ」


「たくさんあるんだからいいじゃないか」



誰かが大きな肉へ挑み、噛み切れずに顔ごと引っ張られている。

それを見た周囲が笑う。


三浦は配る量を気にせず、追い焼きを終えた肉を次々と葉の上へ運んだ。

戸田は保存棚から目を離さず、立ったまま片手で肉をかじっている。

高瀬は獣の大きさを尋ねられ、口いっぱいに肉を入れたまま答えようとして、何を言っているのか分からないと笑われた。


黒田はしばらく皆を見ていた。

葉の上の肉が減っていくことではなく、誰もが二つ目、三つ目へ手を伸ばしていることを確かめているようだった。


やがて、自分も一つ取る。

口へ入れたあと、張っていた肩がゆっくりと下がった。

火の向こうで、一人の男が黙ったまま肉を噛んでいた。


頬へ、涙が一本流れる。


本人はそれに気づいていないようだった。

あるいは、気づいていても拭うつもりがないのかもしれない。


久しぶりの肉だった。

腹を満たせるという安心だった。

明日も食べられるものが残っている。


そのことを身体が理解した瞬間、理由の分からない涙が溢れた。

隣にいた者は何も言わなかった。

ただ、自分の肉を裂き、そのまま食べ続けた。


紗良は火のそばを離れ、取り分けておいた葉を手にした。

結衣は少し離れた場所に座り、食事をする皆を見ていた。


紗良がそばへ腰を下ろし、包んでいた葉を開く。

中には、筋の少ない肉と、よく焼いた内臓が入っていた。

どちらも、結衣が食べやすいよう細かく裂かれている。



「結衣の分」



結衣は葉の上を見てから、紗良を見上げた。



「こんなに食べていいの?」



紗良は火の周りへ目を向けた。

大きな肉を両手で持って食べている者がいる。

すでに三つ目へ手を伸ばしている者もいる。

葉の上には、まだ十分な肉が積まれていた。



「今日はいいんだよ」



紗良は笑った。



「みんなも、好きなだけ食べてるから」



結衣も皆の様子を見た。


食べ物を取り合う者はいない。

誰かの分を気にして、手を引いている者もいない。

自分が食べた分だけ、ほかの誰かが我慢することにはならない。

それが分かると、結衣は葉の上の肉を一つ取った。


小さく口へ入れ、ゆっくりと噛む。

紗良は何も言わず、その様子を見ていた。


結衣は時間をかけて飲み込んだ。

それから、すぐに二つ目へ手を伸ばした。


顔色が急に良くなるわけではない。

弱っていた身体が、その場で元へ戻るわけでもない。

それでも、食べたいと思って自分から手を伸ばしている。


紗良の表情が、わずかに緩んだ。


少し離れたところから、相希も結衣の様子を見ていた。

肉を口へ運べていることを確かめると、再び火の周囲へ視線を移す。


直人は皆に混じり、もう一つ肉を手にしていた。

誰かの言葉に笑いながら、豪快にかぶりつく。

けれど、途中でその動きが止まった。


手の中の肉へ、目を落とす。

焼かれて色も形も変わっている。

それでも、裂けた繊維の間から脂がにじみ、指先を濡らしていた。


直人の目から、一瞬だけ笑みが消えた。


紗良はそれに気づいた。

黒田から聞いた話が、頭をよぎる。

森の中で、直人が一人で刃を持ったこと。

誰かが決めるより先に、すべてを引き受けたこと。

紗良は声を掛けなかった。


直人は手の中の肉から目を上げた。

火を囲んで笑う仲間たち。

大きな肉と格闘している戸田。

誰かの話に笑っている黒田。

そして、細かく裂かれた肉を口へ運ぶ結衣。

直人はもう一度、手の中へ目を戻した。



「……ありがとう」



誰に聞かせるでもない、小さな声だった。

その言葉は、紗良にだけ届いていた。


直人は肉へかぶりついた。

今度は止まらず、何度も噛んで飲み込んだ。


一方、相希はまだ何も食べていなかった。


焼けた肉が運ばれるたび、断面を見る。

追い焼きする火を確かめる。

保存棚を包む煙の濃さを見て、戸田へ薪を減らすよう伝える。

骨の鍋から湯が減れば、水を足す。

結衣が食べられているかを見る。

誰かが大きすぎる肉を取れば、中まで火が通っているものか無意識に確かめている。


空腹を我慢しているわけではなかった。

食べようと思っていないわけでもない。

自分がまだ何も口にしていないこと自体、意識から抜け落ちていた。


三浦が、相希の両手が空いていることへ気づいた。



「相希、あんた食べてないじゃない」



相希が振り返る。



「食べてない?」



まるで、他人のことを言われたような顔だった。



「自分のことだよ」



三浦は葉の上の肉を指した。



「もうみんな食べてる。あんたも食べな」



黒田も、肉を持ったまま相希を見る。



「もう大丈夫だ。誰も遠慮してない」



高瀬が大きな肉を掲げた。



「見ろよ。まだこんなにあるぞ」



保存棚のそばにいた戸田も振り返る。



「こっちも問題ない。少しくらい座れ」



相希は、火の周囲を見渡した。


皆が食べている。

笑っている。

葉の上には、まだ肉が残っている。

結衣も、紗良の隣でもう一つ肉を手にしていた。

骨の鍋は静かに煮えている。

保存棚には煙が流れ、戸田が火を見ている。

自分が見張り続けなくても、すべてが動いていた。


そのことに気づいた途端、腹の奥へ重い空腹が戻ってきた。

相希は息を吐き、葉の上から肉を一つ取った。


最初の一口を噛む。

味を確かめるより先に、中心まで熱が入っているかを舌と歯で探っていた。

噛み終え、飲み込む。


問題がないことを確かめてから、もう一口食べる。

三浦が呆れたように笑った。



「食べる時まで確認しなくていいの」



相希は返事をせず、肉を噛んだ。

それでも、張りつめていた眉間からは少しだけ力が抜けていた。


食事は長く続いた。

葉の上の肉は少しずつ減っていく。

けれど、なくなるより先に、人々の手が止まり始めた。

一人が腹を押さえ、その場へ身体を倒した。



「もう入らない……」



すぐに笑い声が上がる。



「さっきまで三つ目を取ってただろ」


「食べられると思ったんだよ」


「まだ残ってるぞ」


「無理だって」



残った肉を慌てて確保しようとする者はいなかった。


明日へ回せばいい。

食べたくなれば、また食べられる。

保存棚には、さらに多くの肉が並んでいる。


骨の鍋からは、白い湯気が上がり続けていた。

これまでは、食べ物がなくなった時が食事の終わりだった。


今日は違う。

葉の上にはまだ肉がある。

それでも、腹が満ちて、もう食べられない。


足りないからではなく、満たされたから手が止まる。

拠点へ来てから初めて、誰もが腹いっぱいになって食事を終えた。



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