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はじまりの岸  作者: インフィ
集団生活編

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第30話 食卓の支度



獣を拠点の中央へ下ろしてから、待っていた者たちが一斉に集まってきた時、最初に上がったのは歓声だった。


次いで、息を呑む音。

誰かが太い脚を見て、驚いたように声を漏らす。



「こんなに大きかったのか」


「これだけあれば、しばらく食べられるんじゃないか?」



黒みがかった毛には、運ぶ途中でついた土と、乾き始めた血がこびりついていた。

それでも、人々の目が向いているのは傷口ではなかった。


盛り上がった胴。

肉の厚そうな腿。


これまで目にしてきた魚や貝とは比べものにならない、その量だった。


少し離れた場所で、一人が口元を押さえた。

血の匂いに耐えられなかったのか、そのまま人の輪から離れていく。


だが、拠点を包む空気は重くならなかった。

獣はすでに、森の中で暴れていた生き物ではなく、皆の明日をつなぐ食料として見られ始めていた。


紗良は、その輪の外に立つ直人を見つけた。

胸にも腕にも、乾き始めた血が黒く残っている。



「直人、それ……怪我したの?」


「俺の血じゃないよ」



直人は軽く笑った。

声も、表情も、いつもと大きくは変わらない。

けれど、紗良には、その笑い方が少しだけ急いで作られたものに見えた。


直人は手にしていた服を持ち直した。



「ちょっと洗ってくる」



紗良が何か言うより先に、直人は水場の下流へ向かって歩き始めた。


その背中を、相希も見ていた。

呼び止めることはしない。

ただ、いつもより長く、その姿を目で追っていた。


紗良は直人と相希を交互に見た。

何かあったのだろうか。

そう思ったが、今は尋ねる時ではないことも分かっていた。


相希はすぐに獣へ向き直った。



「黒田さん、集まっている人たちに声を掛けてほしい。火を使う場所を空けたい」


「分かった」


「高瀬さんは獣の向きを見てほしい。戸田さんは刃物と縄を。三浦さんは、切り分けたものを置く場所と火の準備をお願いします」


四人はほとんど間を置かずに動いた。


黒田が集まっていた者たちへ声を掛け、作業場を空けさせる。

高瀬は獣の脚を持ち上げ、身体を横たえる向きを確かめる。

戸田は持ち帰った刃物を並べ、刃先を布で拭った。

三浦は大きな葉を何枚も広げ、肉、骨、内臓を分けて置ける場所を作っていく。


直人がいなくても、誰も立ち止まらなかった。

これまで何度も一緒に動いてきた者たちが、相希の声を起点に、それぞれの場所へ散っていく。


黒田は人をまとめ、高瀬は獣を見て、戸田は道具を扱い、三浦は食事へ変える準備を整える。

それぞれの役割を、誰かが一から説明する必要はなかった。


直人が無意識のうちに作り上げてきた関係が、今は相希の判断を受けて動いていた。



「先に窯を作る」



相希が拠点の端を指した。



「浅く広く掘って、底に石を並べてほしい」



黒田が数人を連れて地面を掘り始めた。

木の枝を削った道具が土へ食い込み、乾いた音を立てる。

掘り出された土は、穴の脇へ積まれていった。

高瀬が運んできた石を一つずつ確かめ、底と側面へ並べる。

その上へ薪が組まれ、火が入った。


炎は最初、細い枝の間で小さく揺れていた。

やがて太い薪へ燃え移り、石の隙間を赤い光が這っていく。

熱で空気が揺れ、近くに立つ者たちの頬を照らした。


別の者たちは大きな葉を集めて戻ってきた。

破れたものを除き、厚みのある葉を選んで重ねていく。

拠点の一角が、少しずつ大きな調理場へ変わっていった。


その間に、解体も始まった。


高瀬と黒田が獣の身体を支え、戸田が刃を入れる。

相希は獣の形を見ながら、切る順番を決めていった。


皮が引かれるたび、下から濃い色の肉が現れる。

毛皮の裏には薄い膜が張りつき、その下で脂が光っていた。

刃が進むたびに、獣の姿は少しずつ失われていく。

代わりに、厚い肉の塊が葉の上へ積まれていった。



「こんなにあるのか……」



誰かが呟いた。

別の者が、並んだ肉とまだ残る胴を見比べる。



「これ、本当に全部食べられるのか?」



解体の生々しさを前にしても、目を背ける者は少なかった。

次々と現れる肉の量が、それを上回っていた。

腿から切り出された大きな塊を見て、思わず笑う者さえいる。


今日だけでは食べきれない。

その事実が、ここへ来て以来、初めての贅沢に思えた。


紗良は、誰かに頼まれたわけでもなく水を運んだ。

血で濡れた手を洗えるよう、作業場の脇へ器を置く。

刃を拭いていた布が汚れれば、新しいものと替える。

三浦が葉の残りを見た時には、すでに使えそうなものが近くへ積まれていた。


相希がそれに気づく。



「助かる」


「必要になると思ったから」



紗良はそれだけ答えた。


相希はすぐに獣へ視線を戻した。

けれど紗良は、その横顔を見ていた。

普段なら直人が立っている場所へ、一瞬だけ相希の目が向いた。

すぐに戻ったものの、見間違いではなかった。


皮はできるだけ一枚の形を保ったまま外された。

戸田が枝の上へ広げ、裏側に残った肉や脂を刃で削ぎ落としていく。

毛並みに沿って手を滑らせ、厚みを確かめる。


切れ目の位置を見ながら、使える範囲を目で追った。



「全部は無理でも、この辺なら残せる」


「何に使う?」



高瀬が尋ねる。



「まだ決められない。でも、敷くものにもできるし、袋にもできる」



戸田は答えながら、再び刃を動かした。

肉を切っていた時とは違い、手つきに迷いが少ない。

素材として見るべき場所が分かれば、戸田の目はいつものものへ戻っていた。


脚や関節の周りからは、白く硬い腱が外された。

肉と脂を細かく削ぎ落とし、水で洗う。

濡れた腱を戸田が指へ掛け、強く引いた。


細いものでも簡単には切れない。



「これなら使えるかもしれない」


「細く裂けますか?」



相希が聞く。



「乾かしてからだな。うまくほぐれれば、撚れると思う」



戸田は腱を伸ばし、光へかざした。



「罠の補修にも使える。もっと細くできれば、縫うのにも使えるかもしれない」



腱は重ならないよう、細い枝へ掛けていった。

皮も風の通る場所へ運び、枝を組んだ枠へ張る。

端を縄で引き、たるみを伸ばす。


食べる部分を取ったあとにも、まだ使えるものが残っている。

獣の身体は、肉だけではなかった。


骨にはできるだけ肉を残さず、大きなものは鍋へ入る長さに分けた。

水だけを入れ、火へ掛ける。

鍋の中で骨がぶつかり、鈍い音を立てる。

しばらくすると、水面へ脂が浮き、透明だった湯が少しずつ白く濁り始めた。


山菜もキノコも、今は入れない。

骨と髄から出るものを、時間をかけて水へ移していく。

今日のためではなく、明日以降の食事へ残す鍋だった。


その隣では、内臓が串や平たい石の上へ並べられていた。

厚い部分は切り開き、火が中まで入るよう広げる。

脂が落ちるたび、炎が高く上がった。

濃い匂いが煙と一緒に広がる。


遠巻きに解体を見ていた者たちも、その匂いに引かれるように火の近くへ寄ってきた。



「もう食べられそうじゃない?」



誰かが串を覗き込み、三浦に手で追い払われる。



「まだ。相希がいいって言うまで待って」



相希は焼けた内臓の最も厚い部分を割った。

中に残る色を見て、火へ戻す。



「まだだ」


「結構焦げてるよ」



三浦が言う。



「焦げてもいいんです。中まで焼くことが大事ですから」



三浦は串を返し、火へ近づけた。

香ばしい匂いがさらに強くなる。


誰もまだ食べていないのに、火の周りには少しずつ笑い声が生まれていた。

相希は次々に指示を出しながら、一度だけ手を止めた。

水場へ続く道を見る。

直人はまだ戻っていない。


その視線に、紗良が気づいた。

しばらく何も言わずに作業を続けたあと、紗良は水の器を置きながら尋ねる。



「見てこようか?」



相希は少しだけ間を置いた。



「いや。今はいい」


「そっか」



紗良はそれ以上聞かなかった。

気にしていないから追わないのではない。

気にしているからこそ、一人にしている。

相希の返事から、そんなものが伝わってきた。


熱した石から薪と炭を移す。

穴の底から、息が詰まるほどの熱気が立ち上った。


大きな葉を何枚も重ね、その上へ切り分けた肉を並べる。

大きすぎるものはさらに分け、肉同士が重ならないよう位置をずらした。

上からまた葉をかぶせ、黒田たちが土を戻していく。

隙間を埋め、表面を手で押さえる。

最後に、退けていた薪と炭を土の上へ戻した。


再び火が立ち上がる。

地面の下で肉が蒸され、その上で焚き火が燃える。


周囲では、薪を運ぶ者、骨の鍋を見張る者、内臓の串を返す者が動いていた。

相希がすべてを指示しなくても、人々は次に必要なことを探し始めている。


やがて、皮と腱の処理を終えた戸田たちが、保存肉の準備へ移った。



「肉を並べる台が欲しい」



相希は火と煙の流れを見ながら言った。



「炎には近づけすぎず、煙が当たる高さで」



戸田は周囲から真っすぐな枝を選んだ。

高瀬たちと地面へ打ち込み、向かい合わせに立てる。

横木を渡し、その上へ細い枝を何本も並べた。

蔓を巻きつけ、一つずつ固定する。

手で揺らして確かめ、支えを足した。


出来上がった棚へ、薄く切った肉を並べていく。

一枚ずつ間を空け、重ならないように置く。

最初は火の熱を強く当て、そのあと薪を減らした。

炎が低くなり、白い煙が棚を包んでいく。


海辺で直人と二人、魚へ施した方法。

あの時は二人だけだった作業を、今は何人もの手が引き継いでいた。



水場から戻った直人は、拠点の手前で足を止めた。

身体についた血は落ち、服も着直している。

腕や胸には、強く擦った赤みだけが残っていた。

直人が離れている間に、獣の姿はほとんど消えていた。


広げられた皮。

枝へ掛けられた腱。

鍋の中で煮られる骨。

火の上で焼かれる内臓。

土の下で蒸されている肉。


一つの命が、いくつもの形へ変わっている。


相希が直人に気づいた。



「戻ったなら、薪を足して」


「帰って早々、それ?」


「嫌なら、骨の鍋を見ていて」


「薪でいい」



直人は小さく笑い、薪の置かれた場所へ向かった。

いつもと似たやり取りだった。

それでも紗良には、いつもと同じには見えなかった。

二人とも、互いの目を長く見ない。

言葉の間に、触れないまま置かれている何かがある。


紗良は薪を数本持ち、直人のそばへ運んだ。



「大丈夫?」


「何が?」



直人は笑った。



「血。ちゃんと落ちたかなと思って」


「結構こすったから、大丈夫」


「ならいいけど」



紗良はそれ以上踏み込まなかった。


直人の答えだけで、疑問が消えたわけではない。

むしろ、普段どおりに返そうとしていることが、余計に気に掛かった。

太陽が傾き始めた頃、地中窯を開く準備に入った。


その前に、紗良は土を運んでいた黒田のそばへ寄った。

直人にも相希にも聞こえない距離を選ぶ。



「黒田さん」


「ん?」



紗良は一度、薪を運ぶ直人へ目を向けた。

少し離れたところでは、相希が火の様子を見ている。



「二人、何かあったの?」



黒田はすぐには答えなかった。

手についた土を払い、火の向こうを見た。



「まあ……色々あってな」


「直人が、何かした?」


「したというより……全部やった」



紗良が眉を寄せる。

黒田は声を落とした。



「罠には掛かった。でも、捕まえたあと、誰が仕留めるかまで考えてなかった」


「それを、直人が?」


「ああ。俺たちが何か決める前に、一人で前へ出た」



黒田の目が、わずかに伏せられた。



「正直に言えば、助かった。誰かがやらなきゃいけなかったし、俺もすぐには動けなかった」



紗良は黙って聞いている。



「でも、相希は止めようとした。直人は止まらなかった」



黒田は短く息を吐いた。



「俺たちは、あいつがやってくれたことにほっとした。でも相希は、そこをそのままにできないんだろうな」



紗良は、もう一度二人を見た。


直人は薪を抱え、誰かに声を掛けられて笑っている。

相希は肉の様子を確かめながら、次の指示を出している。

離れていても、互いの位置だけは分かっているように見えた。



「そういうことか……」



紗良は小さく呟いた。

黒田は何も付け加えなかった。


上の火を退け、土を少しずつ取り除いていく。

熱せられた土から、白い煙が細く漏れ始める。

葉の包みが現れた。

相希が端を開く。


閉じ込められていた蒸気が一気に噴き出した。

それと同時に、濃い肉の匂いが拠点全体へ広がる。

作業していた者たちが、一斉に顔を上げた。


今度の視線に、戸惑いはなかった。

誰もが、料理の完成を待つ顔になっていた。

相希は最も厚い肉を一つ取り出した。

表面は濃い色に変わり、葉の汁と肉の脂で光っている。

中央から割ると、白い湯気が立ち上った。


相希は断面を確かめ、三浦へ渡す。

次の塊には、わずかに赤みが残っていた。



「これは追い焼き」



三浦が受け取り、内臓を焼いていた火へ運ぶ。

小さく切り、串へ刺し直す。

炎の上で脂が弾け、表面が焦げていく。



相希は一つずつ肉を割り、食べられるものと、さらに焼くものへ振り分けた。



その様子を見ていた紗良が、相希のそばへ寄る。



「結衣の分、先に取っておいてもいい?」



相希はうなずき、蒸し上がった肉の中から筋の少ない部分を選んだ。

中央まで熱が入っていることを確かめ、小さく裂いて別の葉へ載せる。

よく焼いた内臓からも、食べやすい部分を少しだけ切り分けた。



「これなら大丈夫」


「ありがとう」



紗良は葉を包み、皆の食事とは別に置いた。


やがて、火の周りへ大きな葉が何枚も広げられた。

蒸し上がった肉が置かれる。

追い焼きした肉が加わる。

焦げ目のついた内臓も、その隣へ積まれていく。


一人分ずつには分けない。

一つ置いても、まだ残る。

二つ、三つと並べても、さらに肉が運ばれてくる。


三浦も今日は大きさを見比べなかった。

保存する分は、すでに棚の上で煙に包まれている。

骨の鍋も、明日のために静かに煮えている。


ここへ並べられたものは、皆が腹を満たすための食事だった。

匂いに誘われるように、一人、また一人と火のそばへ集まってくる。


葉の上には、誰かの取り分ではない食べ物が並んでいた。

満腹になる前に、なくなる心配をしなくていいほどの量が。


誰もまだ手を伸ばさない。

ただ、目の前に積み上がっていく肉を、信じられないものを見るように眺めていた。


食卓の支度が、ようやく整った。



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