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はじまりの岸  作者: インフィ
集団生活編

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第29話 命の重さ



空が白み始めるより早く、五人は支度を終えた。

拠点では、すでに何人かが起きていた。


誰も罠の結果を尋ねない。

黒田が道具を確認し、戸田が縄を肩へ掛ける。その様子を、皆が少し離れたところから見守っていた。

直人が出発しようとすると、結衣のそばにいた紗良が立ち上がった。



「気をつけてね」


「うん。行ってくる」



それ以上は、どちらも何も言わなかった。


五人は森へ入った。

昨日までとは違い、歩調が速くなることはなかった。

期待が消えたわけではない。

だが、期待を口にした先で、何度も動かない罠を見てきた。

足元の枯れ枝を避けながら、五人は黙って細い獣道を目指した。


やがて、高瀬が足を止めた。

森の奥から、枝の擦れる音がする。

続いて、何かが地面を強く蹴った。

縄が張り、木が軋む。

その直後、聞いたことのない声が森を裂いた。



「キィィ――ッ!」



高く引きつるような叫びの底に、喉を潰したような濁った音が混じっている。

五人は息を止めた。

再び、土を蹴る音が響く。



「掛かってるかもしれない」



高瀬が小声で言った。

誰も返事をしなかった。

声にしてしまえば、また期待だけが先に走る気がした。


高瀬を先頭に、音のする方へ慎重に進む。

木々の間から、細い通り道が見えてきた。

曲げていた木は元の位置へ跳ね上がり、縄が激しく揺れている。

その先で、一頭の獣が土を蹴り上げていた。

鹿によく似ていた。


だが、胴は見慣れた鹿より厚く、首から肩にかけて黒みがかった毛が伸びている。頭から生えた角も、直人の知るものより短く、太かった。

後ろ脚の一本へ輪が食い込み、逃れようとするたびに縄が強く張る。


しばらく、誰も動かなかった。

目の前の光景を理解した瞬間、直人の胸の奥から声が飛び出した。



「掛かってる!」



戸田が両拳を握りしめた。



「やった!」



高瀬と戸田が、弾かれたように手を打ち合わせる。

黒田も大きく息を吐き、直人の肩を強く叩いた。

直人はその手を取り、互いに腕を引き合うようにして笑った。

相希も獣と罠を見比べたあと、張りつめていた表情を緩めた。



「罠は持ってる」


「成功だろ、これ!」



直人が相希へ手を差し出す。

相希は一瞬だけその手を見たあと、乾いた音を立てて打ち合わせた。


これで肉が手に入る。

結衣へ食べさせられる。

拠点で不調を訴えていた者たちにも、今までより多くの食事を回せる。

何より、待っている皆へ、ようやく結果を持ち帰ることができる。


二度の失敗で押し潰されかけていたものが、一気にほどけていった。


その時、獣が大きく身体を捻った。

縄が張り詰め、木が激しく揺れる。



「キィッ! キィィ――ッ!」



叫び声に、五人の歓声が止まった。

獣は逃れようと何度も地面を蹴っている。

目は赤く充血し、口元には白い泡が浮かんでいた。

黒田が、獣から目を離さないまま呟いた。



「捕まえたのはいいが……どうする?」



誰も答えなかった。

罠をどう作るかは、何度も話し合った。

どこへ仕掛けるかも、失敗するたびに考え直した。

だが、獣が掛かったあとに何をするのか、誰も本気では考えていなかった。


五人は無意識に、捕まえることをゴールにしていた。

目の前の獣は、まだ生きている。

鳴き、暴れ、自分たちから逃げようとしている。

相希の頭に、必要な手順が浮かんだ。


止めを刺す。

血を抜く。

運び、解体する。


知識としては分かっていた。

肉を傷ませずに持ち帰るには、ここで血を抜かなければならない。その前に、この獣の命を終わらせる必要がある。


だが、その手順と、目の前で叫ぶ獣が結びついた瞬間、相希の口は動かなかった。

ほかの四人も、やがて同じところへ辿り着いた。


誰かがやらなければならない。

視線だけが行き交った。

誰かと目が合うたびに、互いの迷いが伝わる。

何も決められないまま、時間だけが過ぎた。


その沈黙の中で、直人が上着へ手を掛けた。

服を脱ぎ、近くの木の根元へ置く。

続けて下に着ていた服も脱ぎ、上半身を裸にした。


四人が直人を見る。

直人自身も、なぜそうしたのかを順序立てて考えてはいなかった。


血がつく。

服は残さなければならない。

肌なら、あとで洗える。


その程度の考えが、言葉になるより先に身体を動かしていた。



「待ってて。俺がやる」



相希が息を吸った。



「直人、それは――」


「刃物をくれ」



直人が重ねた。

声は静かだった。

怒鳴ってもいない。

それでも、その場の誰にも口を挟ませない気迫があった。


戸田は直人を見たまま動かなかった。

やがて腰の刃物へ手を伸ばし、柄を直人へ向けた。

直人は受け取ると、獣へ向き直った。


四人の気持ちが追いつく前に、直人だけが歩き始める。

獣は近づいてくる直人へ顔を向けた。

目が合った。

その瞬間、獣はこれまで以上に激しく暴れた。



「キィッ、キィィィ――ッ!」



聞き慣れた動物の鳴き声とは違う。

高く引き裂くような声の奥から、どす黒く濁った音が押し出されてくる。

縄が鳴り、蹄が土を削る。


直人の呼吸が勝手に速くなった。

心臓の鼓動が胸だけでなく、喉や耳の奥まで叩いている。

全身の皮膚が粟立ち、体毛が一本ずつ逆立つようだった。

運動会のリレーで、最後の走者を任された時とも違う。


失敗すれば負ける。

そんな緊張ではない。


自分の手で、目の前にある命を終わらせる。

身体はその意味を理解している。


頭はまだ追いついていなかった。

それでも、手足は動いた。


獣の脚が届く範囲を見る。

縄が張る方向を確かめる。


土を踏み締め、逃げられる位置を残しながら距離を詰める。

直人の内側では、呼吸も鼓動も乱れていた。


だが、外から見える動きは、不自然なほど静かだった。


戸田は刃物を渡した手を握り締めていた。

高瀬は獣の脚から目を離せない。

黒田は直人を止めるべきか、すぐに援護へ入るべきか決められずにいた。


相希は、頭の中で獣の動きと直人の位置を追った。

このまま一人で近づかせていいはずがない。


相希が一歩踏み出す。



「直人――」


「相希、大丈夫」



直人は振り返らなかった。

大丈夫なはずはない。

その声が、直人自身へ言い聞かせたものだということも、相希には分かった。


それでも、直人の足は止まらない。

獣が暴れるたびに距離を取り、動きが弱まった瞬間に近づく。


考えるより先に、身体が次の位置を選んでいた。


獣の動きが一瞬止まる。

直人は地面を強く蹴った。


獣の身体へ取りつき、握った刃物を深く突き立てる。

叫び声が森を裂いた。


血が噴き上がり、直人の腕と胸へ飛び散った。

獣の身体が大きく跳ねる。


直人は刃物から手を離さなかった。

脚が土を掻き、縄が激しく揺れる。


やがて動きは少しずつ弱くなり、最後に全身が一度だけ大きく震えた。

それから、何も動かなくなった。


森が、突然静かになった。

先ほどまで響いていた叫び声も、縄の軋む音も消えている。

直人は獣のそばに膝をついたまま、しばらく動かなかった。

獣が完全に息をしていないことを確かめ、ゆっくり立ち上がる。


血に濡れた腕で額を拭い、四人を振り返った。

口元だけを持ち上げる。



「これで、あまり苦しまずに逝けたかな」



笑っているように見えた。

だが、その顔に喜びはなかった。

刃物を握った手が、わずかに震えている。


四人も、ようやく息をすることを思い出したように動き始めた。


黒田が最初に直人へ近づく。

高瀬は獣のそばへしゃがみ、動かないことを確かめた。

戸田は直人から刃物を受け取った。


相希は直人の腕をつかみ、胸や腹、脚に傷がないかを見る。

獣の血だけで、直人自身に深い傷がないと分かると、相希は腕から手を離した。



「どうして、お前は……」



直人は相希の顔を見た。

何に怒っているのか、最後まで聞かなくても分かっていた。



「結果オーライじゃん」



いつものように、軽く笑ってみせる。

相希の表情が険しくなった。



「直人、お前――」


「まあまあ」



黒田が二人の間へ手を出した。



「今は、無事に終わった。それで良しとしよう」


「でも――」


「相希の言いたいことも分かる」



高瀬が静かに言った。



「俺たちだって、何も感じてないわけじゃない」



戸田は、受け取った刃物へ目を落とした。



「ただ……直人がやってくれたから、終わったのも事実だ」



相希は口を閉じた。

三人が直人の行動を正しいと思っているわけではない。

それでも誰も、直人を強く責められなかった。

直人が動くまで、自分たちは立ち尽くしていた。


そして直人が引き受けたことで、自分が手を下さずに済んだことへ、安堵してしまった。

その感情は、四人の中に等しく残っていた。



「ほら。みんな無事だったし」



直人がもう一度笑う。

相希は何かを言いかけたが、結局飲み込んだ。



「……後で話す」



それだけ告げると、獣へ視線を戻した。

まだ終わってはいない。


相希は止め刺しに使った傷と、獣の身体を確認した。



「ここで血を抜く」



今度は、知識を言葉にした。



「このまま運べば、肉が傷みやすくなる」



黒田が周囲を見渡す。



「何をすればいい?」



相希は少し考え、獣を持ち上げる位置と縄の掛け方を伝えた。

戸田が罠に使った縄を外し、丈夫な枝へ掛け直す。


黒田と高瀬が獣の身体を支え、直人も加わった。

五人で力を合わせ、獣の身体を斜めに持ち上げる。


相希の指示を受けながら、戸田が刃物を入れた。

流れ出した血が、黒い土へ染み込んでいく。


誰も話さなかった。

先ほどまで一人で獣に向き合っていた直人も、今度は四人と同じ場所に立っていた。


血が落ちるのを待つ間、相希は直人の方を見なかった。

直人も何も言わない。


血がほとんど流れなくなると、獣を地面へ下ろした。

解体は拠点で行う。

ここには水も、必要な道具も足りない。

何より、持ち帰った獲物をどう扱うのか、待っている者たちとも共有しなければならなかった。


戸田が枝と縄を使い、獣を運ぶための形を整える。

獣の身体は、想像していたよりも重かった。

五人で交代しながら持ち上げても、肩と腕へ重さが食い込む。


それでも、往路とは違って足は止まらなかった。

拠点へ近づくにつれ、人の声が聞こえ始める。


最初に五人へ気づいた者が、立ち上がった。

その視線が、五人の間に運ばれている獣へ向かう。



「……捕まえたの?」



声に反応し、拠点にいた者たちが次々と集まってくる。


紗良も結衣のそばから立ち上がった。

三浦は手にしていた器を置き、五人の方を見る。

獣の姿を認めた瞬間、誰もが息を呑んだ。

それから、抑えていたものが一気にほどけるように声が上がった。



「やった……」


「本当に捕まえたんだ」



泣き出す者もいた。

互いの肩を抱き、笑う者もいる。


血のついた獣を見て、目を逸らす者もいた。

それでも、五人が何を持ち帰ったのかは、全員が理解していた。


食料だった。


結衣へ食べさせられるものだった。

自分たちが、この先も生きるために必要としていたものだった。

直人たちは、拠点の中央へ獣を下ろした。


肩から重さが消えた瞬間、五人は誰からともなく深く息を吐いた。

捕まえることが、ゴールではなかった。

命を奪い、血を抜き、運び帰る。

そしてこれから、この命を自分たちが生きるためのものへ変えなければならない。


獣を囲む仲間たちの顔を見ながら、直人は血の乾き始めた自分の手を、静かに握った。



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