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はじまりの岸  作者: インフィ
集団生活編

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第28話 焦燥感



夜が明けきる前から、拠点では人の動く気配がしていた。

黒田が火の残りを確かめ、戸田が縄と道具をまとめる。高瀬は森の様子を見ながら、皆がそろうのを待っていた。


誰も急げとは言わなかった。

それでも五人の支度は、これまでで最も早く終わった。

罠が成功したと考えている者はいない。

一度作動しただけで、次は獲物が掛かると決めつけるほど、森は単純ではなかった。


相希も、そんな見方はしない。

ただ、仕掛けは実際に動いた。

そのうえで留め具を調整し、作動に必要な力も確かめ直している。


今度こそ。


誰も口にはしなかったが、その思いは五人の中にあった。

朝露に濡れた草を踏み分け、昨日と同じ道を進む。


足元に気をつけながらも、歩調は自然と速くなった。

直人だけではない。

黒田も、高瀬も、戸田も、昨日より歩幅が広い。

相希もそれに対して何も言わなかった。


成功を確信しているわけではない。


それでも、今度こそ何かが待っているかもしれないという期待を、誰も抑えきれずにいた。

木々の隙間から広場が見え始める。


五人の視線が、一斉にしならせた木へ向いた。

木は、昨日のままだった。

縄を張ったまま、静かに曲がっている。


誰も、すぐには口を開かなかった。

前日は、獲物がいなくても罠は動いていた。

今日は、その手応えさえない。

戸田が握っていた道具を持ち直し、高瀬が先に広場へ入った。

地面へしゃがみ込み、土と草の倒れ方を追っていく。



「来てる」



高瀬が言った。

少し離れた場所に、新しい蹄跡が残っていた。


獣は昨夜もここへ来ている。

だが、その足跡は罠の横を通り、別の方向へ抜けていた。

戸田と相希が仕掛けを確かめる。

縄にも留め具にも異常はない。



「罠は動く状態のままだ」



戸田が言った。

高瀬は蹄跡を追い、広場の奥へ視線を向ける。



「獣がここまで来たのも間違いない」



直人は、罠のそばを外れていく足跡を見た。



「じゃあ、なんで踏まなかったんだろう」


「昨日、罠が動いたことで警戒した可能性はある」



相希が答えた。



「同じ獣なら、だろ」



高瀬が言う。



「別の個体だったかもしれない」


「匂いじゃないのか」



戸田が地面へ目を落とした。



「昨日、何度もここを触った。俺たちには分からなくても、獣には残ってるのかもしれない」



黒田が罠の周囲を見回す。



「掘り返した土を避けた可能性もあるか」


「それもありえます」



相希は答えた。



「縄が見えていたのかもしれない。草の置き方が、周囲と違っていた可能性もある」


「全部、可能性はあるってことか」



直人が尋ねる。



「どれか一つかもしれないし、どれでもないかもしれない」



相希は足跡と罠を交互に見た。



「たまたま別の場所を通っただけなら、仕掛けに問題はなかったことになる」


「でも、何も変えなければ、また同じところを避けるかもしれない」



戸田が言った。



「匂いを減らすなら、触る人数を絞るか」



黒田が提案する。



「輪の位置も、少しずらした方がいい」



高瀬が蹄跡の向きを確かめた。



「この跡なら、今より奥を通ってる」


「ただ、いくつも変えれば、次に結果が出ても何が影響したのか分からなくなる」



相希の言葉に、全員が黙った。

原因を考えるほど、直すべき場所が増えていく。

だが、そのどれが正しいのかを確かめる方法はなかった。



「どう思う?」



直人が尋ねた。

相希はしばらく地面を見たまま、答えを探していた。

やがて顔を上げる。



「判断できない」



その言葉で、広場の空気がわずかに重くなった。

相希にも答えがない。


何が原因なのか分からなければ、次に何を変えるべきかも決められない。

しばらくして、黒田が口を開いた。



「とりあえず、もう一度やってみよう」



誰も反対しなかった。

答えが出たからではない。

ほかに選べる手が見つからなかっただけだった。


触る人数を戸田と相希に絞り、輪の位置をわずかにずらす。

大きく形は変えず、地面に残った跡を整えた。

罠を仕掛け直しても、前日のような手応えはなかった。

五人は何も解決しないまま、同じ場所へもう一晩を預けた。


拠点へ戻ると、話していた者たちが一斉に顔を上げた。

視線は五人の顔から、その手元へ移る。

何も持っていないことに気づくと、誰も結果を尋ねなかった。



「おかえり」



一人がそう言うと、ほかの者たちも小さく続いた。


責める声はなかった。

その気遣いが、五人にはかえって重かった。


結衣の状態にも、大きな変化はない。

身体を起こせる時間は少し増えていたが、顔色は戻っていなかった。


紗良は結衣のそばに座りながら、戻ってきた直人たちへ何も聞かなかった。

それでも、何か進展があったのではないかと待っていたことは、その表情から伝わった。


三浦も食事を分ける手を止め、五人を見た。

皆が、自分たちではどうにもできないものを、五人へ託していた。


その日の夕方、火のそばで一人が呟いた。



「言われてみれば、俺も最近疲れやすい気がする」



少し離れた場所から、別の声が続いた。



「私も、立つ時に少しふらつくことがある」



本当に結衣と同じなのかは分からない。

食事が足りないだけかもしれない。

疲労や睡眠不足、あるいは結衣の様子を見て、自分の身体を意識するようになっただけかもしれなかった。


相希にも、それだけでは判断できない。

ただ、不安が拠点の中へ広がり始めていることは分かった。


三浦は食事を分けながら、何度も手を止めた。

結衣へ多く回すべきか。

ほかの者にも同じ兆候があるのなら、今の分け方で足りるのか。

これまで迷わず行っていた作業に、ためらいが混じっていた。


黒田は、何人かに声を掛けながら拠点の様子を見て回った。

不安を口にする者。

平気なふりをする者。

五人の方を見ては、何も聞かずに視線を逸らす者。

皆を落ち着かせる立場にいながら、自分にも答えはなかった。


高瀬は一人で蹄跡の形を思い返していた。

場所の選び方を間違えたのではないか。

自分が痕跡を読み違えたせいで、皆を待たせているのではないか。


戸田は留め具を手に取り、火のそばで何度も噛み合わせを確かめた。


罠は動く。

何度試しても、それだけは間違いない。

それでも獲物を捕らえられなければ、拠点の者たちにとっては同じだった。


相希は、結衣と不調を訴えた者たちの話を聞いた。

だが、原因を断定できる材料はない。

罠についても、身体の不調についても、問われるほど答えられないことが増えていった。


直人は、皆の前ではいつもどおりに動いた。

薪を運び、寝床を直し、声を掛けられれば笑って答えた。

だが、胸の奥には焦りがあった。

罠を提案したのは自分だった。

皆に、食料を増やせるかもしれないと思わせた。

その期待が、今は五人全員の肩へ乗っている。


食料を増やさなければならない。

結衣だけではない。

このまま同じ食事が続けば、次に倒れる者が出るかもしれない。

それでも、前日のように「次はいける」とは言えなかった。



翌朝、五人は再び広場へ向かった。

前日ほど歩調は速くない。

期待が消えたわけではなかった。

ただ、その先に何もなかった時の落差を、全員が知ってしまっていた。


広場へ着く。

しならせた木は、また昨日のまま残っていた。

罠は作動していない。

高瀬が周囲を調べる。

新しい蹄跡があった。

獣は来ていた。

それでも、罠の位置だけが避けられている。



「やっぱり匂いなんじゃないのか」



戸田が言った。



「昨日は触る人数を減らした」



高瀬が返す。



「減らしただけで、消えたわけじゃない」


「だったら、どうやって消すんだよ」


「それを考えてるんだろ」



戸田の声が強くなる。

高瀬も視線を逸らさなかった。



「罠の位置が悪いなら、また変えればいい」


「昨日も変えた。それでも駄目だった」


「仕掛け方の問題かもしれないだろ」


「仕組みは何度も確認した」



戸田が留め具を握りしめる。



「作動しない罠を作ったみたいに言うな」


「誰もそんなこと言ってない」


「同じだろ」



黒田が二人の間へ入った。



「やめろ。落ち着け」



その声にも、いつもの余裕はなかった。

二人の言葉は止まった。

だが、張りつめた空気は残ったままだった。


高瀬は、自分の判断を疑われたように感じていた。

戸田は、自分の作った罠を否定されたように受け取っていた。

黒田は二人を止めながら、このまま何も持ち帰れないことへの焦りを抑えていた。


相希は地面に残る足跡を追いながら、考えられる原因をもう一度並べた。


匂い。

見え方。

獣の警戒。

罠の位置。

通る方向。

偶然。


昨日と同じだった。

何を挙げても、次に何を直すべきかまでは辿り着かない。


拠点へ戻れば、また皆が五人を見る。

誰も責めはしない。


だが、何とかしてほしいという期待が消えたわけではない。

その重圧が、五人から少しずつ余裕を奪っていた。


直人は広場を見渡した。

罠の近くにも、木々の際にも、離れた場所にも蹄跡が残っている。

獣はここへ来る。

だが、どこを通るかは決まっていない。



「場所を変えよう」



直人が言った。

戸田が顔を上げる。



「今さら何を言ってるんだ」



高瀬の表情も険しくなった。



「ここを選んだのは、痕跡が一番多かったからだ。獣も実際に来てる」


「分かってる」


「分かってて変えるのか?」



戸田が直人を見る。



「俺たちの作った罠が信用できないってことか」


「違う」



直人はすぐに否定した。



「罠を疑ってるんじゃない。高瀬さんの読みが間違ってるとも思ってない」


「だったら、なんでだよ」


「ここには獣が来る。でも、どこを通るか分からない」



直人は広場に散らばる蹄跡を指した。



「こんなに広い場所へ罠を一つ置いても、そこを踏むかどうかは運になる」


「それは最初から分かっていたことだ」



相希の声にも苛立ちが混じっていた。



「一度は罠も作動した。獣が来ることも確認できている。それを捨てて、別の場所へ移るのか」


「捨てるんじゃない」



直人も声を強めた。



「ここで続けても、失敗するたびに原因が増えるだけだ」


「場所を変えれば、分かるのか?」


「獣がそこを通るしかない場所なら」



直人は答えた。



「獣が来たのに罠が動かなければ、仕掛けか隠し方に原因を絞れる。ここみたいに、たまたま横を通っただけかもしれないって話にはならない」



戸田が留め具を握ったまま、直人を見た。



「俺たちは、皆が待ってる中で何度も調整した。それを今さら、場所が悪かったで終わらせるのか」


「俺だって、これが駄目だったって認めたいわけじゃない」



直人の声が、広場に響いた。

四人が黙る。



「罠を考えたのは俺だ。皆に、これで何とかなるかもしれないって思わせた」



直人は一度息を吸った。



「戸田さんが何度も作り直したのも、高瀬さんが痕跡を探したのも、黒田さんが皆をまとめてるのも、相希が答えを出そうとしてるのも分かってる」



一人ずつを見る。



「信じてないわけじゃない」



広場に散らばる蹄跡へ目を戻した。



「信じてるから、どこが悪いのか分かる場所で試したいんだ」



相希は黙って直人を見ていた。



「ここだと、失敗するたびに理由が増える」



直人は続ける。



「匂いなのか。見えてるのか。仕掛けなのか。場所なのか。ただ運が悪いだけなのか」



昨日から、何度も繰り返した言葉だった。



「次に何を直せばいいか分からない。それが一番困る」


「狭い場所なら、獣が通れば罠の前を必ず通る。そこで失敗したら、原因をもっと絞れる」



相希は、広場に散らばる足跡を見た。

直人は焦りに任せて、これまでを投げ出そうとしているのではない。

条件を減らそうとしている。



「相希がいつもやってるやつだよ」



直人が言った。

相希はわずかに眉を寄せた。



「お前に言われると腹が立つ」



直人の口元が、わずかに緩んだ。

相希はもう一度、広場を見渡す。



「でも今回は、お前の言う通りだ」



戸田はしばらく黙っていたが、やがて握っていた留め具から力を抜いた。



「場所が変わっても、罠は組み直せる」



高瀬も散らばる足跡を見たあと、うなずいた。



「今度は痕跡の数じゃなく、通れる幅を見る」



黒田が全員の顔を確かめる。



「できることをやろう」



五人は罠を回収し、さらに森の奥へ進んだ。

高瀬が地面を見ながら先を行き、黒田が斜面と木々の位置を確かめる。

やがて、岩と木の間に挟まれた細い通り道を見つけた。


片側には急な斜面があり、反対側には太い木が並んでいる。

その間には、重なった蹄跡が続いていた。

獣が抜けられる幅は限られている。


五人はそこで罠を組み直した。

誰も成功を口にしなかった。

戸田が仕掛けを組み、相希が作動を確かめる。


高瀬は蹄跡の向きを追い、黒田は周囲の地形を見渡した。

直人も作業を手伝いながら、何度も細い通り道へ目を向けた。

罠を仕掛け終えると、それ以上手を加えず、五人は拠点へ戻った。


その夜、火のそばでは、前日のように獲物の話は出なかった。

五人が戻った時、皆は新しい場所へ罠を移したことを聞いた。

うまくいくのかと尋ねる者はいない。

それでも、明日の朝を待っていることは伝わった。


結衣の小さな咳と、薪が爆ぜる音が、ときおり静けさを破った。

期待がなくなったわけではない。


ただ、期待した先に何もなかった時の苦しさを、皆が知ってしまった。

直人も「次はいける」とは言わなかった。


相希も、成功する可能性について話さなかった。

それでも朝になれば、五人はまた森へ向かう。


自分たちのためだけではない。

ここで待つ全員へ、何かを持ち帰るために。

足跡の多い場所を探すのは、もうやめた。


次に選んだのは、獣が通った場所ではない。

獣が、そこを通るしかない場所だった。



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