第27話 獣道
翌朝、空が白み始める前に、直人は目を覚ました。
共同の火はまだ小さく、赤い熾火だけが残っている。
黒田たちはすでに支度を始めていた。
高瀬は縄をまとめ、戸田は使えそうな枝と木片を選んでいる。
相希は昨日の話し合いで挙がった条件を、もう一度確かめるように道具を見ていた。
直人は出発する前に、結衣の寝床へ向かった。
結衣は横になったまま目を開けていた。
そばには紗良が座り、三浦が小さな器を手にしている。
「どう?」
直人が声を落として尋ねた。
紗良は結衣の様子を見てから答えた。
「昨日よりは食べられてる。でも、まだ起き上がると苦しそう」
結衣は大丈夫だと言うように笑おうとした。
しかし、身体を少し起こしただけで息が乱れ、すぐに背を寝床へ戻した。
相希が結衣のそばへしゃがみ、脈と呼吸を確かめる。
「悪くなってる?」
紗良が尋ねた。
「今のところ、急に悪化している様子はない」
相希は答えた。
「ただ、良くなっているともまだ言えない」
結衣はその言葉を聞き、目を伏せた。
直人は何か明るいことを言おうとしたが、結局言葉にはしなかった。
「行ってくる」
それだけを告げる。
「気をつけてね」
紗良が言った。
「うん」
直人はうなずき、立ち上がった。
罠を作れば、すぐに状況が変わるわけではない。
獲物がいるかも、罠が使えるかも分からない。
それでも、できることを増やさなければ、今の食事だけでは同じことがまた起きるかもしれなかった。
五人は拠点を離れ、川の上流へ向かった。
朝露に濡れた草を踏み分けながら進む。
黒田と高瀬が先を歩き、その後ろを戸田、直人、相希が続いた。
川沿いの地面は湿っており、足元には細かな跡がいくつも残っている。
鳥や小動物のものらしい跡に混じって、やがて高瀬が足を止めた。
「これだ」
皆がその場へ集まる。
柔らかな土の上に、先の二つに割れた跡が残っていた。
直人が以前見たものより、形がはっきりしている。
その先にも同じ足跡が続いていた。
「新しいな」
高瀬がしゃがみ込む。
「昨日か、遅くても一昨日だと思う」
「分かるんですか?」
直人が尋ねる。
「古い跡なら、縁がもっと崩れてる。これはまだ形が残ってる」
相希も足跡を確認する。
「深いな」
「大きいってことか?」
「地面の柔らかさにもよる。ただ、同じ場所にある小さな跡よりは沈んでいる。歩幅も広い」
相希は少し先の足跡へ視線を移した。
「ある程度の重量はあると思う」
さらに進むと、草が一定の方向へ倒れていた。
低い位置で枝が折れ、木の幹には表面を削ったような跡がある。
黒田がその部分へ手を近づける。
「これも、あいつらがつけたのかもしれないな」
「食べた跡?」
直人が尋ねる。
「そう見える」
相希は幹の傷を観察した。
「ただ、角や身体を擦った可能性もある」
足跡だけではない。
いくつもの痕跡が、同じ方向へ続いている。
しばらく歩いたところで、高瀬が再び足を止めた。
「糞がある」
草の陰に、小さな粒がいくつもまとまって落ちていた。
黒田が顔を近づける。
「思ったほど臭くないな」
「触らない方がいいです」
相希が枝を拾った。
粒の一つを転がし、先端でゆっくりと崩す。
表面は少し乾いていたが、中にはまだ湿り気が残っている。
崩れた中から、細かな繊維のようなものが見えた。
「草か?」
戸田が尋ねる。
「植物の繊維に見える」
相希は枝先を少し動かした。
「毛や骨らしいものもない。これだけでは断定できないが、植物を主に食べている可能性は高い」
高瀬が、地面に残る蹄跡を見る。
「草食動物ってことか」
「足跡や木の跡も合わせれば、その可能性は高いと思います」
「鹿みたいなものか?」
直人が聞いた。
「似ているかもしれない。ただ、同じものだとは限らない」
相希は糞から目を離した。
「少なくとも、今もこの近くを使っている動物がいる」
乾き切っていない糞。
崩れていない足跡。
最近折れたように見える枝。
姿を見てはいない。
それでも、大型の動物がこの付近を通っていることは、もう疑いようがなかった。
五人は、痕跡を追ってさらに進んだ。
やがて、木々の間が少し開けた場所へ出た。
地面は比較的平らで、周囲より草が少ない。
これまで歩いてきた場所よりも多くの蹄跡が残され、ところどころに糞も落ちていた。
高瀬は地面を見渡しながら、ゆっくりと奥へ進んだ。
「ここは、かなり使われてるな」
黒田も周囲を確かめる。
「近くに使えそうな木もある」
広場の端に、幹は細いが高さのある木が立っていた。
戸田が手を掛け、ゆっくりと引く。
木は折れずにしなり、手を離すと元の位置へ戻った。
「使えそうだ」
相希も木の根元と周囲の地面を見る。
「仕掛けを置けるだけの広さもある。縄を固定する場所も確保できそうだ」
直人は地面に残された蹄跡を見渡した。
これだけ痕跡があるなら、獣がまた来る可能性は高い。
その時は、五人ともそう考えた。
直人たちは、広場の端に立つ木の周囲を確かめた。
相希は木のしなりを確かめると、足元に残る蹄跡との位置関係を見た。
「昨日話した形なら、この木は使えそうだ」
直人が言った。
「しなりは足りる」
相希は幹へ手を掛け、ゆっくりと引いた。
「ただ、戻る向きが少し悪い。このままだと、縄が地面を横に走る」
戸田が木の根元へしゃがむ。
「留め具を置く位置を変えるか」
「その方がいいです」
相希は周囲を見回した。
「地面も思ったより柔らかい。踏ませる部分を大きくすると沈みすぎる」
高瀬は蹄跡の向きを確かめる。
「獣は、こっちから入ってるように見える」
「だったら、輪はこの向きだな」
黒田が場所を示した。
五人は、それぞれの確認を重ねながら罠を組み始めた。
直人の考えた形をもとに、戸田が留め具を作り、相希が縄の長さと木のしなりを調整する。
最初は、枝で踏んでも留め具が外れなかった。
戸田が接触する部分を削ると、今度は軽く触れただけで外れた。
曲げていた木が跳ね上がり、縄が直人の足元を走る。
「危ない」
相希が直人の肩を引いた。
「今のは動いたな」
「お前に掛かりかけただけだ」
「でも、方向は合ってる」
「だから近づくな」
戸田は留め具を拾い、形を整え直した。
外れにくければ作動せず、軽くすれば勝手に外れる。
縄の長さを変え、木の曲げ方も少しずつ調整する。
何度か試したあと、踏ませた枝に輪が絡み、そのまま持ち上がった。
「これなら、仕組みとしては動く」
戸田が輪の締まり方を確かめる。
「実際の重さに耐えられるかは分からない」
相希が言った。
「それは、掛かってみないと分からないだろ」
直人が答える。
相希は否定しなかった。
五人は、これまで偵察してきた中で最も獣の痕跡が多かった場所に、罠を仕掛けた。
輪と作動部分を薄い土と草で隠し、触った跡もできるだけ周囲になじませる。
「これ以上いじらないで」
相希が言った。
「痕跡も匂いも、少ない方がいい」
全員が仕掛けから距離を取った。
直人は、何もないように見える地面を見つめた。
「明日の朝、確認しよう」
黒田の言葉に、五人はうなずいた。
それ以上その場へ手を加えず、来た道を戻った。
拠点へ戻ったあとも、直人は何度か森の方へ目を向けた。
罠を仕掛けた場所は、木々の向こうに隠れて見えない。
それでも、あの曲げた木がまだ張ったままなのか、すでに何かが触れたのか、考えずにはいられなかった。
結衣の状態には、大きな変化はなかった。
食事は少しずつ取れていたが、身体を起こすだけで呼吸は浅くなる。
紗良がそばについているのを確認し、直人はいつもより早く寝床へ入った。
だが、目を閉じても眠りはなかなか訪れなかった。
翌朝、空が白み始めると、五人はすぐに拠点を出た。
朝露に濡れた草を踏み分け、昨日と同じ道をたどる。
広場へ近づくにつれて、直人の歩調は少しずつ速くなった。
「急いでも結果は変わらない」
後ろから相希が言った。
「分かってる」
直人は一度だけ歩調を緩めた。
足元へ意識を戻し、先を行く黒田との間を少し空ける。
だが、しばらくすると、また歩幅が広くなっていた。
それは直人だけではなかった。
黒田も足場を確かめながら、昨日より速く進んでいる。
高瀬は何度も木々の先へ目を向け、戸田も束ねた縄を握ったまま、その後ろを離れなかった。
注意した相希でさえ、いつの間にか直人と並ぶほど歩調を上げていた。
誰も口にはしなかった。
それでも五人とも、広場へ着いた時に何が待っているのかを考えていた。
やがて、木々の隙間から仕掛けた場所が見えてくる。
黒田が足を止めた。
「動いてる」
しならせていた木は、元の位置へ戻っていた。
罠は作動している。
一瞬、五人の間に緊張が走った。
直人は前へ出かけたが、高瀬が腕を伸ばして制した。
「待て。先に周りを見る」
五人は少し距離を取り、広場を見渡した。
獲物の姿はなかった。
縄は空のまま垂れ、地面にも血や毛は残っていない。
土が大きく抉れた跡もなく、暴れた気配は見当たらなかった。
戸田が慎重に近づき、縄と留め具を確かめる。
「強く引かれた様子はないな」
「一度掛かって、抜けたんじゃない?」
直人が尋ねた。
「それなら、もっと跡が残る」
戸田は縄を指でなぞった。
「少なくとも、大きな獣が暴れたようには見えない」
高瀬は踏み板の周囲へしゃがみ込み、土に残る跡を追った。
「蹄の跡はある。でも、前からのものと重なってる。新しいかどうかまでは分からない」
相希も罠のそばへ寄り、輪と踏み板を確かめた。
「何かが触れた可能性はある」
「獣が踏んだのか?」
「それなら、もう少し痕跡が残っていてもいいと思う」
相希は広場を囲む木々へ視線を移した。
「小さな動物だったのかもしれない。夜の間に風が強まり、木や縄へ想定していない方向から力が掛かった可能性もある」
戸田が留め具の噛み合わせを確認する。
「作った時と形は変わってない。勝手に外れるようにはしてない」
「はい。設置した時点では安定していました」
相希は短く答えた。
「ただ、作動した瞬間を見ていない以上、原因は決められない」
広場には、朝の鳥の声だけが響いていた。
獲物は捕まえられなかった。
それでも、罠は確かに作動した。
昨日まで頭の中にしかなかった仕組みが、実際に森の中で動いた。
その事実は、空振りへの落胆より先に、五人の中へ小さな手応えを残した。
「もう少し強い力が掛からないと、外れないようにする」
戸田が言った。
「重くしすぎれば、今度は踏まれても動きません」
相希が続ける。
「そこだけ調整して、もう一度試しましょう」
高瀬は周囲へ目を向けた。
「場所はこのままでいい。今まで見た中では、ここが一番痕跡が多い」
黒田もうなずいた。
「獣が来る可能性が高いことには変わりない」
直人は、空になった輪を見た。
何も起きなかったわけではない。
仕掛けは動いた。
ならば次は、獲物を捉えるところまで届くかもしれない。
「次はいけるよ」
直人の言葉に、高瀬が小さくうなずいた。
戸田はすぐに留め具を手に取り、相希と噛み合わせを確かめ始める。
黒田も周囲の蹄跡を見ながら、輪を置く位置を考え直していた。
誰も成功を口にしなかった。
だが、一度目に罠を仕掛けた時より、次の結果への期待は明らかに高まっていた。
戸田が留め具を調整し、相希が作動に必要な力を確かめる。
輪の位置もわずかに変え、枝を使って何度か試した。
軽く触れただけでは動かない。
踏み板へ十分な重さが掛かった時だけ、留め具が外れて輪が締まった。
五人は同じ場所へ、もう一度罠を仕掛けた。
「明日の朝、また来よう」
黒田の言葉に、全員がうなずいた。
広場を離れる足取りは、来た時より軽かった。
一度目は、罠が使えるかどうかを確かめるためだった。
今度は、その先に獲物の姿を思い浮かべていた。
その夜、拠点では罠の話をする者が増えた。
誰も成功したとは言わなかった。
それでも、何が捕まるのか、どれほどの大きさなのかと、火のそばでは小さな声が交わされていた。
結衣も横になったまま、その話を聞いていた。
直人は期待を膨らませるようなことは言わなかった。
だが、罠は一度動いた。
必要な調整もした。
次は獲物を捉えられるかもしれない。
その思いは、直人だけのものではなかった。
火を囲む者たちの表情にも、久しぶりに明日を待つ色が浮かんでいた。
やがて話し声は少しずつ減り、火の勢いも弱くなっていった。
誰もが、それぞれの寝床へ戻っていく。
直人も横になり、暗い森へ目を向けた。
木々の向こうでは、今も罠が獲物を待っている。
明日の朝には、何かが変わっているかもしれない。
そんな期待を残したまま、拠点の夜は静かに更けていった。




