第26話 足りないもの
結衣を寝床へ送り届けると、紗良はそのままそばに残った。
直人は、結衣が横になるのを見届けてから、すぐに相希のもとへ戻った。
相希はすでに黒田へ声をかけていた。
共同の火から少し離れた場所に、黒田、三浦、高瀬、戸田が集まっている。
普段なら、翌日の作業や人の割り振りを話す場所だった。
だが、その時は誰も腰を落ち着けようとはしなかった。
直人が戻ってきたのを確認すると、黒田が相希へ尋ねた。
「小野寺の状態は、どうなんだ」
相希は全員の顔を見たあと、静かに答えた。
「症状としては、貧血に近いと思います」
三浦の表情が曇る。
「貧血……」
「目の内側が白く、立ちくらみや息切れ、動悸もあります。脈も少し速い。食事の量も、ここ数日は落ちていたようです」
黒田が声を低くした。
「すぐに命へ関わる状態なのか?」
「今すぐ命に関わるとは言えません」
相希は答えた。
「ただ、原因が分からない以上、大丈夫だとも言えません」
「貧血じゃない可能性もあるのか?」
高瀬が尋ねる。
相希はうなずいた。
「俺は医療の専門家ではありません。症状についての知識はありますが、実際に人を診断した経験はない。血液を調べる手段もないので、断定はできません」
戸田が腕を組む。
「じゃあ、何が原因かは分からないってことか」
「正確には分かりません。ただ、可能性の高いものから対処することはできます」
相希は少し言葉を選んだ。
「食事以外にも、原因になり得ることは確認しています。ただ、本人から聞いたことなので、ここでは詳しく話しません」
黒田は短くうなずいた。
それ以上、聞こうとする者はいなかった。
三浦はしばらく黙っていたが、やがて火のそばに置かれた鍋へ目を向けた。
「食べさせ方が悪かったのかね」
その声には、明らかに自分を責める響きがあった。
「前よりは、食べられる物も増えたと思ってたんだけどね」
「食事は以前より良くなっています」
相希はすぐに答えた。
「それは間違いありません」
三浦が相希を見る。
「じゃあ、どうして」
「食べられる種類が増えたことと、身体に必要なものが足りていることは別です」
相希は共同の火のそばに並ぶ食材へ目を向けた。
山菜。
木の実。
貝。
小さな魚。
「今の食事は、以前より変化があります。ただ、中心は植物と、少量の魚や貝です。たんぱく質や鉄分、それ以外の栄養も、十分に取れているとは限りません」
「山菜じゃ駄目なのか?」
高瀬が尋ねる。
「駄目ではありません。植物から取れるものもあります。ただ、それだけですべてを補えるわけではない」
三浦は鍋を見つめたまま、口を結んだ。
「私が、もう少し考えていれば……」
「三浦さんのせいではありません」
相希が言った。
「今ある食材で、できることはしていました。問題は、調理の仕方より、手に入れられる食材そのものです」
直人は黙って二人のやり取りを聞いていた。
皆が少しずつ食べ物を探すようになり、鍋に入るものも以前より増えていた。
それでも、足りないものは残っていた。
目に見える空腹が少し和らいだからこそ、今まで見えなかった不足が、身体の中から表れたのかもしれなかった。
黒田は火のそばへ視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
やがて、相希へ顔を向ける。
「小野寺だけの問題なのか?」
その問いに、三浦と高瀬も相希を見る。
相希はすぐには答えなかった。
「同じ生活をしている以上、ほかの人にも起こる可能性はあります」
黒田の表情が硬くなる。
「全員が同じようになるってことか?」
「そうとは限りません」
相希は言った。
「年齢や体格、もともとの体質、食べている量、作業の負担でも変わります。小野寺さんには、食事以外の要因も重なっている可能性があります」
少し間を置いて、続ける。
「ただ、今は小野寺さんに強く症状が出ているだけで、ほかの人に何も起きないとは言えません」
誰もすぐには口を開かなかった。
結衣一人が体調を崩した。
それだけなら、休ませれば済むことだったかもしれない。
だが、今の生活を続けていれば、次に倒れる者が出るかもしれない。
その可能性が、火を囲む者たちの間へ静かに広がっていった。
「まずは、今できることを決めよう」
直人が言った。
「小野寺さんは、しばらく作業から外した方がいいんだよな」
「ああ」
相希がうなずく。
「少なくとも、今の状態で水を運んだり、長く歩かせたりはしない方がいい」
「食事はどうする?」
三浦が尋ねる。
「食べられるなら、少しずつ取ってもらった方がいいです。一度に無理をさせる必要はありません」
「小魚や貝を多めに回すか」
高瀬が言った。
「採れる量は多くないけど、山菜よりはましなんだろ」
「今より必要なものを補える可能性はあります」
相希は答えた。
「ただ、それで状態が良くなるとは断定できません」
「それでも、何もしないよりはいい」
黒田が言う。
三浦は小さくうなずいた。
「食べやすいように汁へ入れるよ。固い木の実より、その方が口にも入りやすいだろうから」
「水分も取らせてください」
相希が続ける。
「それと、ほかの人にも似た症状がないか確認した方がいい。息切れや立ちくらみを、疲れだけだと思って隠している人がいるかもしれません」
黒田は周囲を見渡した。
「今夜、俺から話す。ただし、小野寺のことを細かく言う必要はないな」
「はい」
相希が答えた。
「最近、身体の調子がおかしい者は無理をせずに言うように。それだけで十分です」
「言うかね」
三浦が低くつぶやいた。
「みんな、自分が休めば誰かに負担が回ると思ってる」
「だから、黒田さんから言ってもらう意味があります」
直人が言った。
「休むことも役割だって、みんなに伝えた方がいい」
黒田は直人を見る。
「言うのは簡単だ」
「分かってます」
直人は答えた。
「でも、倒れてからじゃ遅い」
黒田はしばらく直人を見たあと、静かにうなずいた。
ひとまず、結衣を休ませること。
食べられるものを少しずつ優先して回すこと。
似た症状が出ている者がいないか、注意して見ること。
今できる対応は、それだけだった。
「明日から、水場へ行く人数を増やそう」
高瀬が言った。
「魚も貝も、今より採ればいい」
「採れるなら、それも必要です」
相希は答えた。
「ただ、毎日同じ量が採れるとは限らない。それだけで足りないものを補えるかも分かりません」
再び、沈黙が落ちた。
今ある食べ物を少し増やすだけでは、同じことがまた起きるかもしれない。
直人は、これまで水場へ向かう途中で見たものを思い返していた。
人のものとは違う、先の割れた足跡。
草が一定の方向へ倒れていた場所。
枝の間に残された毛のようなもの。
夜になると、森の奥から聞こえてくる鳴き声。
姿をはっきり見たことはない。
それでも、この辺りに人間より大きな動物がいることは、以前から感じていた。
直人は顔を上げた。
「だったら、大きな動物を捕まえよう」
全員の視線が、直人へ集まった。
「捕まえるって、そんな簡単に言うなよ」
高瀬が眉を寄せた。
「仮に見つけても、走って追いつける相手じゃない。近づく前に逃げられる」
「追いかける必要はないと思います」
直人が答えた。
「どういうことだ?」
「罠を使います」
戸田が直人を見る。
「罠?」
直人は足元に落ちていた枝を拾った。
「前に、携帯でサバイバルの映像ばかり見てた時期があったんです」
「映像で見ただけか」
高瀬が言う。
「そうです。実際に作ったことはありません」
直人は正直に答えた。
「でも、獣が通る場所に縄を仕掛けて、踏んだら足に絡むようにしてた。人が追いかけるんじゃなくて、獣がいつも通る道で待つんです」
直人は手にした枝をゆっくりと曲げた。
「たしか、こうやって木をしならせて、その力で縄を引き上げるような罠でした」
「たしか、ばっかりだな」
高瀬が呆れたように息を吐いた。
「細かい仕組みまでは覚えてません」
直人は曲げた枝を戻した。
「でも、方法があることは覚えてます。それに、動物がいること自体は、たぶん間違いない」
黒田が直人を見る。
「見たのか?」
「姿は見てません。でも、水場へ行く途中で、先が二つに分かれた足跡を何度か見ました。人が歩く道とは別の場所で、同じ方向に草が倒れてるところもあった」
直人は森の方へ目を向けた。
「夜になると、奥の方から鳴き声も聞こえます。小さい動物の声じゃないと思う」
高瀬が腕を組んだ。
「俺も似た足跡は見たことがある。糞も落ちてた」
「俺もだ」
黒田が続けた。
「川より上へ行ったところに、草が細く踏み固められてる場所がある。俺たちがつけた道じゃない」
直人は黒田を見る。
「そこを、何度も通ってる可能性はありますか?」
「あると思う。水場へ向かってるなら、同じ道を使っていてもおかしくない」
戸田が直人の持っている枝へ目を向けた。
「木のしなりで、縄を締めるのか」
「そんな感じだったと思います」
「そんな感じで作れるほど、簡単じゃないぞ」
戸田が言った。
「分かってます」
直人は答えた。
それから、迷いなく相希を見る。
「細かいところは、相希に任せます」
「お前な」
相希が眉を寄せる。
「俺は映像で見た形しか覚えてない。でも、相希なら、どうすれば動くか考えられるだろ」
「まだ現場も、獲物の大きさも見てない」
「だから、見に行くんだろ」
直人は当然のことを言うように返した。
「俺が覚えてることは全部話す。黒田さんたちが場所を知ってる。戸田さんなら作れる形を考えられる」
少しだけ笑う。
「それをまとめるのは、相希が一番得意だ」
相希はすぐには答えなかった。
直人が自分へ向ける信頼には、迷いも疑いもない。
できるかどうかを確認する前から、できると決めつけているようにも見えた。
「勝手に決めるな」
「無理なら無理って言うだろ」
「言っても、お前は別の方法を探す」
「よく分かってるじゃないか」
相希は小さく息を吐き、直人の持つ枝へ手を伸ばした。
「仕組みとしては成立する」
全員が相希を見る。
「しなる木が元へ戻ろうとする力を使う。獲物の足に縄が掛かった状態で留め具が外れれば、縄を締めながら引き上げることはできる」
相希は枝をゆっくりと曲げた。
「ただし、条件は多い」
「条件?」
「獲物の重さに耐えられる縄が必要です。木も、十分にしなりながら折れないものを選ばなければならない。仕掛けが軽すぎれば、小動物や風でも作動する。逆に重すぎれば、踏まれても外れない」
戸田は相希の手元を見ながら、地面へ視線を落とした。
「留める部分も要るな。引っ張っている間は外れず、踏まれた時だけ外れる形にしないと駄目だ」
「足を置く位置も、ある程度絞る必要があります」
相希が続ける。
「足跡の大きさや向き、歩幅も見た方がいい」
「一頭だけか、群れで通ってるかでも変わるな」
高瀬が言った。
「複数いるなら、成功率は上がるかもしれない」
黒田は、川の上流にある踏み跡を思い返すように目を細めた。
「現場へ行けば、使えそうな木があるかは分かる」
「足跡が新しいかも見られる」
高瀬が続けた。
「最近も通ってるなら、糞や折れた草が残ってるはずだ」
直人は相希を見る。
「じゃあ、明日見に行こう」
「まだ捕まえられると決まったわけじゃない」
「見に行かないと、できるかどうかも分からないだろ」
相希は一瞬黙った。
それから、黒田が示した方角へ目を向ける。
「それはそうだな」
戸田が枝を一本拾い、直人が先ほどしたように曲げてみた。
「現場を見るなら、縄も何本か持っていく。木の太さと、どれくらい力が掛かるかは試した方がいい」
「俺も行く」
高瀬が言った。
「足跡を見るなら、人が多すぎない方がいい」
黒田が全員を見渡す。
「俺と高瀬で案内する。直人と相希、戸田も来てくれ」
直人はすぐにうなずいた。
話が一段落すると、三浦は火のそばに置かれた食材へ目を向けた。
「小野寺の分を用意しておくよ」
その声で、全員の意識が結衣へ戻った。
大型の動物を捕らえる話が形になったとしても、それは明日以降のことだった。
今夜、結衣に食べさせられるのは、手元にある物だけだった。
三浦は小魚と貝を普段より多めに取り分け、山菜と一緒に汁へ入れた。
直人たちが話し合いの片付けをしている間に、器を手にして結衣の寝床へ向かう。
紗良は、結衣のそばで布を畳んでいた。
結衣は横になっていたが、眠ってはいなかった。
三浦が器を差し出すと、中身を見て眉を寄せた。
「これ、私の分じゃないですよね」
「今日はあんたの分だよ」
三浦が答える。
「魚も貝も、いつもより多い」
「だから何だい」
「私だけ、こんなに食べられません」
結衣は身体を起こそうとした。
紗良がすぐに背を支える。
「起きなくていいよ」
「でも、これは戻して」
「戻さない」
紗良が言った。
「今は結衣が食べるの」
「私より年上の人もいるのに、年下のあたしが先にもらうなんて、おかしいよ」
結衣は器から目をそらした。
「私は採りに行ってないし、水も運んでない。力仕事だって、ほとんどしてない」
紗良は何か言い返そうとして、口を閉じた。
結衣の言っていることが分からないわけではなかった。
食べ物は、誰かが歩き、探し、運んできたものだ。
結衣が多く受け取れば、その分だけ少なくなる者がいる。
「年齢も、何の仕事をしたかも、今は関係ないよ」
「関係あるよ」
「ない」
「紗良は、私だからそう言ってるだけでしょ」
「そうだよ」
結衣が顔を上げた。
紗良は、握っていた布を膝の上へ置いた。
「結衣が倒れてる方が、私は嫌だから言ってる」
結衣は何も答えなかった。
「今まで私ができない時、何度も手伝ってくれたでしょ」
「それは……できる方がやればいいと思っただけで」
「だったら今は、食べられる方が食べるんじゃなくて、必要な人が食べればいい」
結衣はなおも器を受け取ろうとしなかった。
三浦が、小さく息を吐く。
「食べないで倒れたままの方が、よっぽど手がかかるよ」
少し強い口調だった。
結衣が三浦を見る。
「今のあんたは、休んで食べるのが仕事だ」
三浦は器を結衣の前へ置いた。
「全部食べろとは言わない。食べられる分だけでいい」
結衣はしばらく器を見つめていた。
やがて、諦めたように手を伸ばす。
両手で器を受け取り、汁を一口だけ飲んだ。
紗良はそれを見届けてから、ようやく肩の力を抜いた。
食事を優先したからといって、すぐに身体が戻るわけではない。
何日で良くなるのかも分からない。
そもそも、食事だけで改善するかどうかさえ分からなかった。
それでも、今できることを続けるしかなかった。
夜が深くなると、黒田は集団の者たちを火の周りへ集めた。
結衣の状態を詳しく話すことはしなかった。
最近、息切れや立ちくらみ、強い疲れを感じている者はいないか。
体調がおかしい時には、隠さずに申し出てほしい。
しばらく作業を外れたとしても、それを怠けているとは考えない。
黒田は一つずつ、確かめるように伝えた。
誰も名乗り出なかった。
だが、何人かは自分の身体を確かめるように、手や腕へ視線を落としていた。
話が終わったあとも、火の周囲に残る声は少なかった。
結衣の寝床では、紗良がまだそばについている。
少し離れた場所で、黒田は地面へ川の流れを描いた。
その脇に、細く曲がった線を加える。
「足跡を見たのは、この辺りだ」
直人、相希、高瀬、戸田が、その線を囲んでいた。
「ここから先は、地面が少し湿ってる」
高瀬が言った。
「跡を見るなら、乾く前の方が分かりやすい」
「朝一番で出よう」
黒田が答える。
「拠点へ残る人数は?」
直人が尋ねた。
「水汲みは別の組へ頼む。三浦と紗良には、小野寺を見てもらう」
「何かあったら、すぐ戻れる距離ですか?」
「急げば戻れる。ただ、川より上へ入るから、それなりにはかかる」
直人は結衣の寝床へ目を向けた。
中央の火から離れた場所に、紗良の横顔が見える。
結衣は横になったまま、器を抱えていた。
「捕まえられそうか?」
直人が相希へ尋ねた。
相希は、地面へ描かれた線を見つめる。
「現場を見ないと分からない」
「まあ、そう言うと思った」
「分かってるなら聞くな」
直人は小さく笑った。
それから、地面に描かれた獣道を囲む皆へ言い聞かせるように言った。
「大丈夫。必ずうまくいくよ」
黒田、高瀬、戸田が顔を上げた。
誰もが不安を抱えていた。
それは、直人も相希も同じだった。
罠が作れるかは分からない。
作れたとしても、獣が掛かる保証はない。
相手は生き物だ。
今回の判断には、命に関わる責任が伴っていた。
直人にも、成功する根拠があるわけではない。
それでも今は、失敗する理由を数えるより、成功すると信じて動く者が必要だった。
直人の声に迷いはなかった。
少なくとも、そう聞こえるように言った。
相希は何も答えなかった。
直人が自分自身にも言い聞かせていることは分かっていた。
皆を前へ向かせるための、根拠のない断言。
本来なら、相希が好む言葉ではない。
それでも、不思議と否定する気にはならなかった。
お前が言うと、本当にうまくいく気がする。
その言葉を胸の内に留め、相希は地面に描かれた獣道へ視線を戻した。
「明日も早い。今日はもう休もう」
黒田が言った。
翌朝、五人は獣の痕跡を確かめるため、川の上流へ向かうことになった。




