第25話 小さなほころび
それから、さらに数日が過ぎた。
直人と相希が加わったあとの生活にも、少しずつ皆が慣れ始めていた。
道具の置き場所を尋ねる声は減り、水汲みや薪集めも、以前より自然に人が集まるようになった。
直人が誰かの作業へ加わっていても、もう珍しそうに見られることはない。
相希のもとへ相談に来る者も増えたが、以前のように距離を取って話す者は少なくなっていた。
二人の寝床は今も拠点の端にあった。
それでも、中央の火との間にあった見えない境目は、少しずつ薄れていた。
食事の中身がわずかに変わったこともあり、火を囲む時間には、以前より会話が増えていた。
何かが劇的に良くなったわけではない。
毎日、食べ物を探し、水を運び、壊れた物を直さなければならないことも変わらない。
それでも、ここでの暮らしはようやく、一日を生き延びるだけのものから、次の日へ続いていく生活へ変わり始めていた。
そんな頃だった。
紗良が異変に気づいたのは、衣服のほつれを直している時だった。
小野寺結衣は、紗良より一つ年下だった。
漂流してからは、食事の準備や採取物の選別、衣服の補修を一緒にすることが多く、自然と話す機会も増えていた。
今では、互いに遠慮なく物を言える、紗良にとって数少ない相手でもある。
その日も二人は、戸田の作業場から少し離れた場所で、破れた衣服を縫っていた。
結衣が針を動かし、紗良が布の端を押さえる。
だが、いつもより針の進みが遅かった。
「そこ、さっきから同じところ縫ってない?」
紗良が尋ねる。
結衣は手元を見たまま、少し遅れて顔を上げた。
「そうだっけ」
「そうだよ。糸も絡まってる」
紗良が布を引き寄せると、同じ箇所へ何度も針が通され、糸が固く重なっていた。
普段の結衣なら、そんな縫い方はしない。
「疲れてる?」
「少しだけ」
「昨日も早く寝てたよね」
「寝ても疲れが取れない時ってあるでしょ」
結衣は笑おうとした。
だが、その笑みはすぐに消えた。
絡まった糸をほどこうとした指が止まり、手元から針が落ちる。
「結衣?」
紗良が顔をのぞき込む。
結衣は片手を地面につき、浅い呼吸を繰り返していた。
顔色が悪い。
日に焼けた肌の上からでも分かるほど、唇の色が薄くなっている。
「大丈夫?」
「平気。ちょっと立ちくらみがしただけ」
「立ってないよ」
結衣は何か言い返そうとしたが、息だけが漏れた。
身体を起こそうとして腕に力を入れる。
その瞬間、支えていた手が滑り、肩が崩れた。
紗良は慌てて結衣の身体を受け止めた。
「ちょっと、結衣」
「大丈夫だから……少し休めば」
触れた腕は、思っていたより冷たかった。
紗良は結衣の顔を見つめた。
そういえば、ここ数日、食事の時に手が止まることが増えていた。
水を運んだあとも、一人だけ息が戻るまで時間がかかっていた。
夜、皆が話している途中で、先に寝床へ戻ることもあった。
そのたびに結衣は、疲れただけだと言っていた。
紗良も、皆が同じように疲れているのだと思っていた。
だが、今は違った。
「待ってて」
紗良が立ち上がる。
「誰か呼ばなくていいって」
「良くないよ」
「大げさだよ」
「大げさかどうかは、結衣が決めることじゃない」
紗良は周囲を見回した。
直人は共同の火の近くで、高瀬と水を運ぶ容器について話していた。
「直人さん」
紗良が呼ぶ。
普段より強い声が出た。
直人はすぐに振り返った。
紗良の表情を見た瞬間、話を止めてこちらへ向かってきた。
「どうした?」
「結衣が……さっきから息が苦しそうで。身体にも力が入らないみたいなんです」
直人は結衣の前へしゃがみ込んだ。
「小野寺さん、聞こえる?」
「聞こえてます。少し休めば平気です」
直人は紗良を見る。
紗良は首を横に振った。
「座ったまま倒れました。ここ何日か、ずっと様子もおかしかったです」
直人はもう一度、結衣の顔を見た。
唇の色と浅い呼吸を確かめるように見つめたあと、すぐに立ち上がる。
「相希を呼んでくる」
「そこまでしなくても……」
「俺には、そこまでしなくていい状態か分からないから」
直人はそう言い残し、戸田の作業場へ向かった。
相希は、直人に呼ばれるとすぐに手を止めた。
事情を聞きながら歩き、結衣の様子を一目見たところで表情を変える。
「いつからですか」
相希は紗良に尋ねながら、結衣の前へしゃがみ込んだ。
「今日だけじゃないです。ここ何日か、食事の途中で手が止まったり、水を運んだあとも息が戻らなかったりしてて……」
「本人は何と言っていましたか」
「疲れてるだけだって」
相希は短くうなずき、結衣へ視線を移した。
「小野寺さん、俺の声は聞こえますか」
「聞こえてます」
返事はできている。
だが、声には力がなかった。
相希は結衣の手首へ指を当てた。
目を伏せたまま、しばらく動かない。
「何してるんだ?」
直人が尋ねる。
「脈を見てる」
相希は指を離さずに答えた。
「少し速い」
次に、結衣の呼吸へ目を向ける。
胸の上下は浅く、間隔も一定ではなかった。
「胸は痛みますか」
「痛くはないです」
「息を吸いにくいですか。それとも、吐く方が苦しいですか」
結衣は少し考えた。
「どっちかは分からないです。ただ、息が足りない感じがします」
「今だけですか」
「最近は、歩いた時にも少し」
紗良が結衣を見る。
「そんなこと、一度も言ってなかったよね」
「言うほどじゃなかったから」
「今こうなってるじゃん」
「紗良」
相希が静かに呼んだ。
責めても今は意味がないと伝えるような声だった。
紗良は唇を結び、結衣のそばへ座り直した。
相希は結衣の指先へ触れた。
爪の色を確かめ、手のひらを見る。
それから、顔を少し上げるよう促した。
「目を見ます」
結衣が戸惑いながらも顔を上げる。
相希は下まぶたへ指を添え、静かに引き下げた。
その内側を見たまま、数秒間動かなかった。
「相希?」
直人が呼ぶ。
相希は手を離し、結衣の顔色をもう一度確かめた。
「最近、立ち上がった時に目の前が暗くなることはありましたか」
「あります」
「頭痛は?」
「時々」
「心臓が強く打つ感じは」
「あります。水を運んだあととか」
「食事は取れていますか」
結衣は答える前に、わずかに紗良を見た。
「食べてます」
「残してたよ」
紗良が言う。
「食べられない分を渡してただけ」
「それを残してるって言うんだよ」
結衣は目を伏せた。
相希は二人のやり取りを止めず、しばらく結衣の様子を見ていた。
顔色。
唇。
爪。
呼吸。
脈。
下まぶたの内側。
いくつかの兆候は、同じ可能性を示しているように見えた。
だが、それだけで決めつけることはできない。
相希は医師ではない。
知識として症状を知っていても、実際に人の身体を診断した経験はない。
検査する道具もない。
目の前にある情報だけで判断を誤れば、別の原因を見落とすことになる。
それでも、今ここで誰かが判断しなければならなかった。
直人が相希の横顔を見る。
「何か分かりそうか?」
相希は結衣から視線を外さなかった。
「いくつか可能性はある」
「一番近いのは?」
相希はすぐには答えなかった。
その時、直人が持っている救急バッグのことが頭に浮かんだ。
船から持ち出した薬と衛生用品。
包帯。
消毒薬。
鎮痛剤。
解熱剤。
抗生剤。
いずれも、今後誰かが大きな怪我をした時や、感染症にかかった時には、生死を分ける可能性がある。
だが、今の結衣の症状に直接使える物はない。
貧血や慢性的な栄養不足だとすれば、傷を塞いでも、熱を下げても、原因は変わらない。
仮に別の病気だったとしても、症状だけを見て薬を使うのは危険だった。
ここで間違った薬を使えば、結衣の状態を悪化させる可能性すらある。
そして一度バッグを開けば、その存在を隠し続けることはできなくなる。
なぜ今まで黙っていたのか。
誰に使うのか。
どの程度の症状なら使うのか。
残りが少なくなった時、誰を優先するのか。
その判断を、直人と相希だけで抱えることになる。
使えば結衣を助けられるのなら、それでも開けるべきだった。
だが、今回は違う。
開けても、今の症状を直接改善できる可能性は低い。
残るのは、バッグの存在を知られる危険だけだった。
相希はわずかに顔を上げた。
視線を結衣から外し、直人を見る。
ほんの一瞬だけ、二人の寝床がある方へ目を向けた。
直人は振り返らなかった。
相希の視線が何を意味しているのか、すぐに察したようだった。
直人は結衣を見る。
浅い呼吸を繰り返す顔を見つめたあと、再び相希へ視線を戻す。
わずかに眉を寄せる。
助けられる物があるのなら、使いたい。
その思いが表情に出ていた。
それでも直人は、ほんの少しだけ首を横に振った。
相希は小さくうなずき、結衣へ向き直る。
二人の寝床へ向かう者はいなかった。
その短いやり取りに、紗良も結衣も気づいていない。
「症状としては、貧血に近いと思います」
相希が言った。
「貧血?」
紗良が聞き返す。
「目の内側が白い。立ちくらみ、息切れ、動悸もある。脈も少し速い」
直人が結衣を見る。
「じゃあ、貧血なんだな」
「可能性が高いだけだ」
相希はすぐに訂正した。
「俺は医療の専門家じゃない。血液を調べる手段もないし、別の原因でも似た症状が出る可能性はある」
「じゃあ、何も分からないってことですか」
紗良の声に、不安が混じった。
相希は紗良を見る。
「分からないわけじゃない。断定できないだけです」
それから、結衣へ視線を戻した。
「今ある症状から、可能性の高い原因を考えて、一つずつ対処するしかありません」
結衣は木材へ背を預けたまま、浅く息を吐いた。
「少し休めば、また動けます」
「今は動かないでください」
「でも、まだ縫い物が――」
「それより、確認したいことがあります」
相希は周囲へ目を向けた。
異変に気づいた者たちが、少し離れた場所からこちらを見ている。
黒田や三浦も、作業の手を止めていた。
「少し人を離してもらえますか」
黒田が相希の意図を察し、周囲へ声をかけた。
「ここは大丈夫だ。みんな、作業へ戻ってくれ」
人々は気にするように何度も振り返りながら、それぞれの場所へ戻っていった。
直人も立ち上がろうとしたが、相希が視線で止める。
それから紗良を見る。
「紗良さんは、残ってください」
結衣が相希一人を相手にするより、紗良がそばにいた方が話しやすい。
そう判断したのだろう。
紗良は結衣の隣へ座り、冷えた手を握った。
相希は声を落とした。
「怪我以外で、出血が続くようなことはありますか」
結衣はすぐには答えなかった。
相希の言葉の意味を考えるように目を伏せる。
やがて、紗良の方を見た。
紗良は何も聞かず、握った手に少し力を込めた。
「前より……長く続くことはあります」
結衣が小さく答えた。
「量も多いですか」
「多い時があります。でも、毎回じゃないです」
「最近になってからですか」
「ここへ来てから、少しずつ」
相希は短くうなずいた。
「分かりました。それも原因の一つかもしれません」
結衣が顔を上げる。
「それが原因なんですか」
「まだ決められません。出血だけではなく、食事やほかの病気が関係している可能性もあります」
相希は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「だから今は、無理に動かず、食べられる物を少しずつ取ってください」
「みんなも同じだけしか食べてないのに」
「その話は、あとでします」
相希は結衣の手首へもう一度触れた。
脈はまだ速かった。
「まずは、横になった方がいい」
直人が結衣のそばへしゃがみ直す。
「運ぶよ」
「歩けます」
「今は、歩けるか試す必要はない」
直人はそう言うと、結衣の背へ腕を回した。
紗良も反対側から身体を支える。
結衣はなおも自分で立とうとしたが、腰を浮かせただけで呼吸が乱れた。
結局、直人と紗良に支えられながら、ゆっくりと寝床へ向かうことになった。




