第20話 別れの盃
翌朝。
直人と相希は、黒田のところへ向かった。
黒田はすでに起きており、火のそばで何人かと今日の作業について話していた。
二人の姿に気づくと、話を止めてこちらを見る。
「昨日の話ですが」
相希が切り出した。
「しばらく、ここで一緒に生活させてもらおうと思います」
黒田は一瞬だけ二人の顔を見比べた。
それから、静かにうなずいた。
「分かった」
立ち上がり、直人と相希へ向き直る。
「これからよろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
直人が答えた。
黒田が二人を受け入れたことは、近くにいた者たちにもすぐに伝わった。
大げさな歓迎の声が上がることはなかった。
それでも、何人かの表情が少し緩んだ。
昨日までは、突然現れた見知らぬ二人だった。
今日からは、同じ場所で暮らす仲間になる。
その事実が、ゆっくりと集団の中へ広がっていった。
「それで、一度海岸へ戻りたいんです」
直人が言った。
「向こうの拠点に、まだ荷物が残っていて」
黒田は眉を上げた。
「遠いのか?」
「ここまで丸一日かかりました」
「なら、何人か一緒に行かせよう」
黒田はすぐに言った。
「帰りは荷物も増えるんだろ。二人だけより、その方がいい」
直人は一度、周囲を見た。
すでにそれぞれが朝の作業を始めようとしている。
水を運ぶ者。
薪を集める準備をする者。
食料を探しに出る者。
誰にでも、その日やるべきことがあった。
「大丈夫です」
直人は答えた。
「みんな、それぞれやることがありますよね。俺たちの荷物ですし、二人で行けます」
「持ち帰る物も絞ります」
相希が続ける。
「道は把握しています。人手を割いてもらうほどではありません」
黒田はすぐには答えなかった。
心配していることは、その表情を見れば分かった。
だが、二人が遠慮だけで断っているわけではないことも理解したらしい。
「……分かった」
黒田はうなずいた。
「ただ、水は持っていけ」
黒田たちの拠点では、水源が安定している。
往復に必要な分を受け取っても、生活に支障はない。
二人はペットボトルや容器へ十分な水を分けてもらった。
「無理に急ぐなよ」
黒田が言った。
「向こうで一晩休んで、明日の朝に戻ればいい」
「そうさせてもらいます」
直人が答えた。
二人は必要な水と最低限の荷物を持ち、集団の拠点を出発した。
木々の間を進み、水場を越え、昨日通った道を戻っていく。
人の声は、歩くほどに遠ざかった。
しばらくすると、聞こえるのは足元の草を踏む音と、鳥の声だけになった。
直人が、背負った荷物を少し直す。
「なんか、静かだな」
「昨日までは、これが普通だっただろ」
「そうなんだけどさ」
直人は前を歩く相希の背中を見た。
「一日しかいなかったのに、人の声がないと変な感じがする」
相希は少し考えた。
「慣れたというより、比較できるようになったんだろうな」
「何と何を?」
「人がいる安心と、二人だけの気楽さを」
直人は小さく笑った。
「確かに。どっちも悪くないな」
相希も否定しなかった。
歩き続けるうちに、空の色が少しずつ変わっていった。
木々の向こうから、潮の匂いが混じり始める。
やがて、聞き慣れた波の音が届いた。
夕方。
二人は、最初の拠点へ戻ってきた。
久しぶりというほど時間がたっているわけではない。
それでも、直人には少し違う場所のように見えた。
蒸留器。
焚き火の跡。
二人で作った寝床。
乾かしていた薪。
つい昨日まで、ここが二人にとって世界のすべてだった。
今は、明日になれば戻る場所が別にある。
相希は荷物を下ろすと、すぐに拠点の周囲を確認し始めた。
誰かが入った形跡はない。
蒸留器も、寝床も、出発した時のままだった。
「俺、晩飯取ってくる」
直人が言った。
「日が落ちる前に戻れよ」
「分かってる」
直人は容器を持ち、磯場へ向かった。
相希は拠点に残り、持ち帰る物の選別を始めた。
使えるからといって、すべてを持っていくことはできない。
荷物が増えれば、それだけ戻るための負担も増える。
金属の容器。
ペットボトル。
回収した金属片。
使える布とロープ。
道具類。
必要な物と、持ち帰る価値のある物だけを分けていく。
蒸留器には手をつけなかった。
解体すれば、一部は別の用途に使えるかもしれない。
それでも、相希はそのまま残すことにした。
最初に海水から水を得た装置だった。
これがなければ、二人はもっと早い段階で追い詰められていた可能性が高い。
役目を終えたからといって、すべてを部品に戻す必要はない。
夕暮れが濃くなり始めた頃、直人が戻ってきた。
容器の中には巻貝と、小さな磯ガニが入っていた。
「結構取れたな」
相希が言う。
「最後だからな」
「最後だから増えるわけじゃないだろ」
「気合いの問題だよ」
直人は笑いながら腰を下ろした。
二人は火を起こし、採ってきた物を焼いた。
巻貝を火のそばへ並べ、小さなカニも慎重に火を通す。
黒田たちの拠点で食べた鍋とは違う。
具材も少なく、調理も単純だった。
それでも、二人にとっては何度も繰り返してきた食事だった。
直人は貝の身を取り出しながら、拠点を見回した。
「最初は、ここまで来ると思わなかったな」
「ここまでって?」
「人に会って、一緒に暮らすことになるところまで」
相希は火を見つめた。
「そもそも、ここに人がいること自体分かってなかったからな」
「最初なんて、水をどうするかだけで頭いっぱいだったし」
「お前は最初から腹が減ったって言ってたけどな」
「言ってないだろ」
「言ってた」
「そんなすぐじゃない」
「目を覚まして、状況を確認して、そのあとには言ってた」
「それならすぐじゃない」
相希は呆れたように直人を見た。
直人は笑いながら貝を口へ運ぶ。
波の音が、一定の間隔で繰り返している。
火の爆ぜる音。
磯の匂い。
二人だけの会話。
人のいる拠点で過ごした夜は、確かに安心できた。
それでも、この場所に戻ると、身体の力が抜ける感覚があった。
ここで二人は、何をするにも互いだけを頼りにしてきた。
「俺たち、結構やったよな」
直人が言った。
「何を基準にしてるんだ」
「生きてるだろ」
相希は少し黙った。
それから、小さくうなずいた。
「それはそうだな」
直人が相希を見る。
「珍しいな。素直に認めるんだ」
「事実だからな」
その夜、二人は最初の寝床へ横になった。
不便な場所だった。
地面は固く、少し動けば葉や枝の音がする。
屋根も、黒田たちの拠点ほど広くはない。
それでも、二人で何度も夜を越えた場所だった。
直人は目を閉じたまま、波の音を聞いていた。
「相希」
「何だ」
「明日から、本当に人と暮らすんだな」
「ああ」
「大丈夫だと思う?」
相希は少し考えた。
「大丈夫かどうかは、まだ分からない」
「だよな」
「でも、今の段階では行く価値があると思ってる」
直人は静かに笑った。
「それで十分か」
「十分だろ」
二人の会話はそこで途切れた。
波の音だけが、夜の間も変わらず続いていた。
翌朝。
直人が目を覚ますと、相希はすでに荷物の最終確認を始めていた。
持ち帰る物は、昨日のうちにほとんどまとめてある。
金属の容器。
ペットボトル。
回収した金属片。
使える布とロープ。
道具類。
持っていける物をすべて詰め込むのではなく、移動の妨げにならない量まで絞っていた。
相希は一つずつ確認しながら、荷物の重さが二人に偏らないよう入れ替えていく。
その途中で、防水マッチを取り出した。
残りの本数を数え、しばらく見つめる。
「それ、向こうに渡そうぜ」
直人が言った。
「防水マッチを?」
「ああ」
黒田たちは、火を消さないように交代で維持している。
だが、一度完全に消えてしまえば、再び起こすのは簡単ではない。
「俺たちは、ほかにも火をつける方法があるんだろ」
「ある」
相希は答えた。
バッグの奥には、ファイアースターターが入っている。
「水も飯も分けてもらったし、泊めてもらった」
直人は言った。
「これから一緒に暮らすんだ。俺たちだけで全部持っておく必要もないだろ」
相希は防水マッチへ目を落とした。
薬のことは、まだ伏せておく。
ファイアースターターについても、今すぐ伝えるつもりはない。
それでも、何も差し出さず、何も共有しないということではなかった。
「そうだな」
相希は防水マッチを、すぐ取り出せる場所へ入れた。
「戻ったら渡そう」
荷物の確認を終えると、二人はそれらを蒸留器の近くへまとめて置いた。
あとは、持ち帰る食料を集めれば出発できる。
「手ぶらで戻るのも何だしな」
直人が容器を手に取った。
「ここでしか取れない物を、少し持って帰ろうぜ」
「取りすぎるなよ。運べる量にも限度がある」
「分かってるって」
二人はそろって磯場へ向かった。
潮は少し引いていた。
濡れた岩の隙間をのぞき込み、これまで何度も食べてきた巻貝を探す。
直人が見つけた物を拾い、相希が大きさや状態を確認して容器へ入れていく。
小型の磯ガニも何匹か捕まえた。
持ち運ぶ間に弱らないよう、湿らせた海藻と一緒に入れる。
完全には密閉せず、動かないよう荷物の中で固定できる形に整えた。
「結構取れたな」
直人が容器の中をのぞき込む。
「これ以上は重くなる」
相希が言った。
「十分だろ。あの人数で分けたら一人分は少ないけど、鍋に入れれば味は出る」
「食料というより、手土産だな」
「そうそう。海岸組から山組へ」
「勝手に組分けするな」
直人は笑った。
二人は採った食料を持ち、最初の拠点へ戻った。
まとめておいた荷物は、蒸留器のそばに並んでいる。
それぞれを背負い、採った巻貝や磯ガニが傾かないよう位置を調整する。
すべての準備が整った。
直人は拠点を見回した。
寝床。
焚き火の跡。
積み上げた薪。
そして、二人の命をつないだ蒸留器。
蒸留器の受け皿には、わずかに水が残っていた。
直人がその前へしゃがみ込む。
「最後に、これ飲もうぜ」
相希が隣から中をのぞき込んだ。
「やめておいた方がいい。作ってから時間がたってる」
「一口くらい大丈夫だろ」
「水なら、黒田さんたちからもらった物がある」
往復に必要な分を十分に持たせてもらっている。
ここに残った水を飲む必要は、どこにもなかった。
「水が飲みたいんじゃないよ」
直人は蒸留器へ目を向けたまま言った。
「最後なんだから、こいつの水で乾杯しようぜ」
「乾杯?」
「これがあったから、俺たち生きてこられたんだろ」
直人は笑った。
「ここを出る前に、盃を交わすみたいなもんだよ。願掛けも兼ねてさ」
「何の願掛けだ」
「この先も、二人でちゃんと生きていけるように」
相希は直人を見た。
すぐには返事をしなかった。
水の色を確かめる。
臭いを嗅ぎ、容器の中に異物がないか確認する。
安全だと言い切れるわけではない。
それでも、直人が水分補給のために飲もうとしているのではないことは分かっていた。
「……一口だけだぞ」
「分かってるって」
二人は小さな容器へ、蒸留器の水を少しずつ注いだ。
水はぬるく、冷たさもない。
直人が容器を持ち上げる。
相希も、それに合わせた。
二つの容器が、軽く触れた。
「今まで、ありがとう」
直人が言った。
相希は蒸留器を見る。
「物に言ってるのか?」
「それもある」
直人は相希へ顔を向けた。
「お前にもだよ」
一瞬だけ、波の音が二人の間を通り過ぎた。
「それと、これからもよろしく」
相希は小さく息を吐いた。
それから、容器をわずかに持ち上げる。
「こちらこそ」
二人は同時に、水を口へ含んだ。
美味しい水ではなかった。
ぬるく、わずかに金属の味がした。
それでも二人は、その一口をゆっくりと飲み込んだ。
最初の拠点で交わす、別れの盃だった。




