第17話 生存者
「……誰だ」
男の声は低く、掠れていた。
握られた長い棒は、まだ二人へ向けられている。
直人は両手を上げたまま、できるだけ穏やかに答えた。
「驚かせてすみません。俺は直人。こっちは相希です」
男は何も言わない。
その視線だけが、直人と相希の顔、服、荷物の間を行き来している。
「ここがどこなのか分からなくて、人を探していました」
男の眉がわずかに動いた。
「どこから来た」
「海からです」
「海から?」
直人はうなずいた。
「乗っていた船が転覆して、ここに流れ着いたんです」
男の表情が変わった。
警戒が消えたわけではない。
だが、その奥に別の感情が浮かんだ。
「……俺たちもだ」
相希の目が、わずかに細くなった。
俺たち……?
その言葉が複数の人間を指していることは明らかだった。
相希が問い返すより先に、男は棒の先をゆっくりと下ろした。
「向こうに仲間がいる。ここで立ち話を続けるより、そっちへ案内する」
完全に信用されたわけではない。
それでも、先ほどまでの敵意は薄れていた。
直人は一度、相希を見る。
相希は男の表情と、森の奥へ続く道を順番に確認してから、小さくうなずいた。
「分かりました。ただ、その前に水を飲ませてもらえませんか」
直人は足元の流れを指した。
「火を起こして、煮沸してからにします」
男は一瞬、不思議そうな顔をした。
「火はいらない」
「え?」
「その水は、そのまま飲める。俺たちもずっと飲んでるが、今まで問題はない」
相希は水面へ視線を落とした。
透明だから安全とは限らない。
上流に動物の死骸や排泄物があれば、見た目では分からない。
男たちが平気でも、必ずしも自分たちが平気とは限らない。
「どれくらいの間、飲んでいるんですか」
相希が尋ねた。
「ずっとだ。ここで暮らし始めてから、全員この水を飲んでる」
男はそう言うと、流れのそばへしゃがんだ。
両手で水をすくい、そのまま口へ運ぶ。
迷いのない動きだった。
相希がなおも水を見つめている横で、直人はしゃがみ込んだ。
「直人」
相希が止めるより先に、直人は両手で水をすくった。
口へ運び、一気に飲む。
もう一度。
さらにもう一度。
冷たい水が喉を通り、乾いた体の奥へ落ちていく。
直人は顔を上げた。
「相希、これ冷たいぞ」
その声には、隠しきれない喜びがあった。
「久しぶりに冷たい水飲んだわ」
相希はしばらく直人を見ていた。
「お前は……」
呆れたように息を吐く。
それでも、目の前で水を飲む直人の姿から目を離せなかった。
これまで二人が得てきた水は、海水を蒸留して集めたものだった。
火を絶やさず、容器を見張り、時間をかけなければならない。
飲める量は限られていた。
喉の渇きがなくなるまで飲むことなど、できなかった。
相希はもう一度、流れる水を見た。
危険がないとは言い切れない。
だが、今さらすべての危険を避け続けられる状況でもない。
相希もしゃがみ込み、両手で水をすくった。
冷たさが、手のひらから伝わってくる。
一口飲む。
次の瞬間には、もう一度すくっていた。
直人も相希も、何度も水を飲んだ。
喉を潤すだけではない。
腹の底まで満たすように、水を体へ流し込んでいく。
水に困っていなかったわけではない。
命をつなぐだけの量は、どうにか確保できていた。
ただ、十分に足りていたわけでもなかった。
二人は久しぶりに、残りの量を気にせず水を飲んだ。
やがて直人が大きく息を吐き、その場へ座り込んだ。
「生き返った……」
相希も口元を拭いながら、呼吸を整えている。
男は二人の様子を黙って見ていた。
先ほどまで残っていた警戒は、いつの間にか少し薄れていた。
「……あんたたちも、相当苦労したみたいだな」
直人は座ったまま笑った。
「まあ、それなりには」
男はようやく、棒を肩へ担いだ。
「行こう。ここから少し歩く」
二人は水筒代わりのペットボトルを満たし、荷物を背負った。
男を先頭に、森の奥へ進む。
直人は歩き始めて間もなく、男へ話しかけた。
拠点までは遠いのか。
仲間はどれくらいいるのか。
食料はどうしているのか。
この辺りをどこまで調べたのか。
男は最初こそ短く答えていた。
だが、直人が無理に踏み込まず、返された言葉を素直に受け取るうちに、少しずつ説明が増えていった。
やがて男の方から、道の険しい場所や、足元に気をつける場所を教えるようになった。
先ほどまで二人へ向けられていた緊張も、歩みを進めるごとに和らいでいく。
相希は少し後ろを歩きながら、その変化を静かに見ていた。
直人は相手の警戒を解こうとしているわけではない。
ただ、いつも通りに人と話している。
それだけで、二人の間にあった距離が少しずつ縮まっていた。
どれほど歩いただろうか。
森の中に、人の手で踏み固められた道が見え始めた。
折られた枝。
切り払われた低木。
木々の間から、細い煙が立ち上っている。
男が足を止め、前方を指した。
「あそこだ」
木々の向こうに、いくつかの簡素な屋根が見えた。
その周囲で、人の声が聞こえている。
直人と相希は、並んで立ち止まった。
自分たち以外の人間が暮らす場所。
二人が初めて目にする、生活の拠点だった。




