第13話 初めての食事
磯場から戻ると、二人は真っすぐ蒸留器のもとへ向かった。
火はまだ消えていない。
金属容器の中では海水が沸き、管の先からは、変わらずゆっくりと水滴が落ち続けていた。
直人は持ち帰った容器を火のそばへ下ろした。
中では二匹の磯ガニが、まだ小さく脚を動かしている。
「これ、この火で焼けるよな?」
「できると思う」
「じゃあ、ここで食おう」
「拠点に戻ってからでも――」
「戻って、別に火を起こして、そこから焼くのか?」
直人は巻貝を一つ持ち上げた。
「俺はもう待てない」
「顔を見れば分かるよ」
相希も空腹だった。
拠点へ戻って改めて火を起こすより、今ある火を使った方が効率もいい。
二人は海水を汲み、巻貝と磯ガニについた砂や汚れを洗い流した。
その後、火のそばに平らな石を置き、その上へ巻貝を並べる。
磯ガニは火に近づけ、殻全体に熱が入るよう、時折向きを変えた。
「水を作りながら料理もできる。便利だな」
「火力が落ちると蒸留に影響するから、薪は切らさないでくれ」
「はいはい」
「返事が軽い」
「腹が減ってるからな」
直人は薪を足しながら、何度も巻貝の様子を確認した。
しばらくすると、殻の隙間から小さな泡が漏れ始めた。
磯ガニの殻も、少しずつ赤く変わっていく。
潮の匂いに、焼けた香りが混じった。
直人の腹が、大きく鳴る。
「今のは火の音だからな」
「まだ何も言ってないけど」
「先に言っておいただけだ」
相希も焼けた巻貝へ目を向けた。
自分の腹も、先ほどから空腹を訴え続けている。
やがて十分に火が通ったと判断し、二人は巻貝と磯ガニを火から離した。
冷めるまでのわずかな時間さえ、直人には長く感じられた。
「もういいだろ」
「まだ熱い」
「熱い方がうまいんじゃないか?」
「口の中を火傷したら困るだろ」
「じゃあ、少しだけ冷ます」
直人は巻貝の前にしゃがんだまま動かなかった。
相希は冷め始めた巻貝を一つ手に取り、ナイフの先を殻の中へ入れた。
身を傷つけないように動かしたつもりだったが、途中で切れ、先端が殻の奥に残った。
「難しいな」
「貸してみろ」
「ナイフを折るなよ」
「そんな力任せにやらないって」
直人が代わって試したが、結果はほとんど変わらなかった。
何度か繰り返し、ようやく小さな身を取り出す。
二人はその欠片を見つめた。
この場所で初めて、自分たちの手で見つけ、捕まえ、火を通した食料だった。
「最初は、片方だけが食べよう」
相希が言った。
「片方だけ?」
「ああ。二人とも同時に体調を崩したら、何もできなくなる」
直人はわずかに考え、すぐに手を挙げた。
「じゃあ、俺が食う」
「いや。最初は俺が――」
「相希に万が一があるより、俺に万が一があった方が、生存率は上がるだろ」
相希は黙って直人を見る。
「水の作り方も、食べられるものの判断も、お前の方が詳しい。俺が動けなくなっても、お前なら何とかできる」
「理屈としては分かるけど」
「だろ?」
直人は巻貝へ手を伸ばした。
「それに、腹減ったし」
「そっちが本音だろ」
「半分な」
直人は笑いながら、巻貝の身を口へ入れた。
ゆっくり噛む。
固く、独特の弾力があった。
噛むたびに、強い磯の香りが口の中へ広がっていく。
「どう?」
「固い」
「ほかには?」
「磯の味がする」
「それは見れば分かる」
「でも、うまい」
「本当に?」
「たぶん、腹が減ってるだけ」
直人が残った巻貝へ手を伸ばそうとすると、相希がその手を止めた。
「少し待とう」
「どのくらい?」
「三十分くらい」
「三十分か……」
「異常が出ないか確認する」
「三十分で分かるのか?」
「分からない。もっと時間がたってから症状が出ることもある」
「じゃあ、意味ある?」
相希は少し考えた。
「やらないよりは、やった方がいいだろ」
「本当に?」
「気持ち的に」
直人は思わず笑った。
「お前でも、そういうこと言うんだな」
「俺だって、不安になることくらいある」
二人は蒸留器の前に座り、残った巻貝と磯ガニを見つめながら時間が過ぎるのを待った。
時計はない。
相希は火の減り方や、管の先から落ちる水滴の間隔を見ながら、時間を測ろうとした。
直人は何度も腕を回し、指を握ったり開いたりしている。
「どう?」
「何ともない」
「痺れは?」
「ない」
「吐き気は?」
「ない」
「息苦しさは?」
「ない」
「腹痛は?」
「腹は減ってる」
「それは聞いてない」
直人は何度も残った巻貝へ目を向けた。
その隣で、相希も時折、焼けた貝とカニを見ていた。
潮と焦げた香りが、途切れることなく漂っている。
相希の腹も、先ほどから小さく鳴っていた。
「もう三十分くらいたっただろ」
「まだ少し早い気もする」
「でも、結構待ったぞ」
相希は火と蒸留器を見た。
正確な時間は分からない。
実際には、まだ十五分ほどしか経っていなかった。
それでも、二人には十分長く待ったように感じられた。
「……今のところ、異常はない」
「じゃあ、食べよう」
相希は一瞬だけ迷ったあと、頷いた。
「少しずつな」
「分かってるって」
直人は待ってましたとばかりに、残った巻貝へ手を伸ばした。
その横で、相希もほとんど同時に手を伸ばしていた。
二人は巻貝を一つずつ食べ、その後、磯ガニの殻を割った。
小さなカニから取れる身は、わずかしかない。
脚の付け根や甲羅の内側に残った身まで、丁寧に集めた。
「これだけ?」
「大きさを考えれば、こんなものだろ」
「食うところ、ほとんどないな」
「でも、巻貝よりは味が分かりやすい」
「本当か?」
直人も、わずかな身を口へ入れた。
巻貝より柔らかく、ほんの少しだけ甘みがある。
「うまいな」
「これは、俺もそう思う」
「だろ?」
腹が満たされるほどの量ではなかった。
それでも、二人は殻の隙間に残った身まで食べ切った。
直人は最後の巻貝を持ち上げ、しばらく眺めた。
「なあ」
「何?」
「こいつら、俺たちが初めて自分で取った食料だよな」
「ああ」
「じゃあ、これは初ガイ」
直人は、食べ終えた磯ガニの甲羅も持ち上げた。
「こっちは初カニと命名しよう」
相希は黙って直人を見る。
「何?」
「そのまますぎる」
「分かりやすいだろ」
「命名する必要がない」
「記念すべき最初の食料だぞ」
「もう食べ終わったけど」
「名前は残る」
「どこに?」
「俺たちの心に」
相希は小さく息を吐いた。
「その名前が残ることはないと思うけど」
「分からないぞ。後世に伝わるかもしれない」
「誰が伝えるんだよ」
「俺たち」
「誰に?」
「それは、これから考える」
「先に片づけよう」
「初ガイと初カニに対する敬意が足りないな」
「敬意があるなら、変な名前をつけるな」
そう言いながら、相希の口元もわずかに緩んでいた。
二人は残った殻を片づけ、蒸留器の火へ薪を足した。
腹はまだ満たされていない。
それでも、何も口にできなかった昨日とは違う。
水を作ることができた。
火を守ることができた。
そして、自分たちの手で食料を得ることもできた。
「夜の分も、もう少し取ってくるか」
直人が立ち上がる。
相希も、空になった容器を手に取った。
「ああ。今度は、もう少し効率よく探せると思う」
「初ガイと初カニの仲間を探しに行くぞ」
「その呼び方、続けるのか?」
「当然だろ」
二人は再び磯場へ向かった。
その日の夕方、二人は昼よりも少し多くの巻貝と磯ガニを持ち帰った。
決して満腹とはいかなかったが、二人で分け合うには十分だった。
火のそばで食事を終える頃には、空はすっかり暗くなっていた。
こうして、漂着してから二日目の夜が過ぎていった。




