第11話 朝
相希は、頬に当たる光で目を覚ました。
閉じていた目を開くと、薄い青色の空が視界いっぱいに広がっている。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
次の瞬間、昨夜のことを思い出す。
相希は勢いよく上半身を起こした。
「……まずい」
すでに空は明るくなり始めている。
すぐそばでは、直人がエマージェンシーシートを体へ掛けたまま眠っていた。
昨夜、直人から見張りを交代したところまでは覚えている。
火へ流木を足した。
金属缶の中へ海水も補充した。
泥の亀裂を確認し、筒に巻いた布へ海水をかけた。
その後も、しばらくは蒸留器を見ていた。
だが、どこから記憶が途切れているのか分からない。
いつの間にか、直人の隣へ座ったまま眠ってしまったらしい。
相希は蒸留器へ目を向けた。
火は完全には消えていなかった。
ドラム缶の内側には赤い熾火が残り、その上で細い炎がわずかに揺れている。
金属缶の中から、海水が沸く音は聞こえない。
筒に巻いた布は乾ききり、接続部分の泥には細かな亀裂が走っていた。
相希は急いで立ち上がり、水を受ける容器へ近づいた。
容器は倒れていない。
その底には、昨夜よりも多くの水が溜まっていた。
「良かった……」
思わず息が漏れた。
相希は金属缶へ目を向ける。
中には、まだ海水が残っていた。
空焚きにはなっていない。
泥の隙間から大量に蒸気が漏れた形跡もなかった。
蒸留器は火力が落ちたことで止まりかけていたが、大きな問題は起きていない。
それでも、胸の奥に残った冷たさは消えなかった。
もし火が広がっていたら。
もし金属缶の水がなくなっていたら。
もし、眠っている直人に何か起きていたら。
結果として無事だっただけだ。
背後で、シートが擦れる音がした。
「おはよう」
直人が目をこすりながら起き上がる。
「……おはよう」
「どうした? 朝からそんな顔して」
相希は少し黙ったあと、直人へ向き直った。
「ごめん」
「何が?」
「見張ってる途中で寝た」
直人は相希と蒸留器を交互に見た。
「いつから?」
「分からない。交代してから途中までは覚えてる。でも、その後の記憶がない」
「火は?」
「ほとんど消えかけてる。でも、まだ残ってる」
「海水は?」
「まだ入ってる。受け皿も倒れてない」
「じゃあ、良かったじゃん」
直人は立ち上がると、蒸留器の前へ歩いた。
容器の底に溜まった水をのぞき込み、小さく笑う。
「思ったより溜まってるな」
「何も起きなかったからよかっただけだ。空焚きになってたかもしれないし、火が広がった可能性もある」
「でも、ならなかった。だろ?」
直人は振り返り、相希を見た。
「疲れてるんだから、しょうがないだろ」
「しょうがないで済ませることじゃない」
「じゃあ、この先ずっと、一回も失敗しないつもりか?」
相希は答えられなかった。
直人は蒸留器のそばへしゃがみ、灰の奥をのぞき込んだ。
「俺だって昨日、起こされなかったら朝まで寝てたかもしれない」
「でも、見張りは俺の役目だった」
「そうだけどさ」
直人は近くに落ちていた枝で、灰を軽く動かした。
赤い熾火がわずかに顔を出す。
「相希が起きてるからって、俺も安心して寝てたんだよ」
相希は黙った。
「全部任せて寝た俺にも責任はあるだろ」
「それは違う」
「違わないって」
直人は枝を置き、相希の方を見た。
「俺たち、昨日からまともに寝てないんだぞ」
「それでも、起きていなきゃいけなかった」
「無理だったんだろ」
「……ああ」
「だったら、それが今の限界ってことじゃないのか」
その言葉に、相希は目を伏せた。
自分なら管理できると思っていた。
火の状態も。
海水の量も。
泥の亀裂も。
眠気も。
だが、できなかった。
直人は灰の奥へ細い枝を差し込んだ。
「一人で何でもできるなら、それが一番楽なんだろうけどな」
「……そうだな」
「でも、たぶん無理だ」
直人は少し笑った。
「少なくとも、俺には無理」
相希は直人を見る。
「お前も無理だろ?」
しばらくの沈黙のあと、相希は小さく息を吐いた。
「今、証明した」
「だろ?」
直人は再び灰へ目を戻した。
「だったら、失敗したらもう一人が直すしかない」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
直人の声から、笑いが消えた。
「でも、一人が失敗したら終わりって考えてたら、そのうち本当に終わるだろ」
相希は何も言えなかった。
正しいからではない。
直人が、自分を責めないために言っていることが分かったからだ。
そして同時に、直人自身も不安なのだと気づいた。
平気そうに振る舞っているだけで、直人もこの状況を何も分かっていない。
自分と同じだ。
直人は細い枝を一本拾い、熾火の上へ置いた。
「今は、寝たことを気にするより、こっちを動かす方が先だろ」
「そうだな」
相希は直人の隣へしゃがんだ。
熾火の上へ乾いた草と細い枝を重ねる。
直人が息を吹きかけると、灰の奥から赤い光が強くなった。
細い枝の先に小さな炎が移る。
「火、戻りそうだな」
「ああ。完全に消えてなくて助かった」
相希は金属缶の中を確認した。
「海水は半分近く残ってる」
「じゃあ、補充しよう。昨日みたいに満杯にする?」
「入れすぎると沸くまで時間がかかる。昨日と同じくらいでいい」
「分かった。俺が汲んでくる」
直人は切ったペットボトルを持ち、波打ち際へ向かった。
相希はその間に、水を受ける容器を慎重に持ち上げた。
外側に海水や砂がつかないように、乾いた布で周囲を拭く。
溜まっていた水を、比較的きれいなペットボトルへ移した。
昨夜から作り続けていたとはいえ、量は多くない。
二人で飲めば、少し喉を潤せる程度だった。
それでも、昨日の最初の一滴とは比べものにならない。
昨日は偶然に近かった。
今日は、少なくとも同じことを繰り返せている。
失敗しかけた。
それでも、すべてを失ったわけではなかった。
直人が海水を持って戻ってきた。
「入れるぞ」
「蓋を全部外すと、泥をやり直すことになる」
「じゃあ、隙間から入れるか」
「ああ。筒を動かさないように気をつけよう」
相希が蓋代わりの金属板をわずかに持ち上げ、直人が海水を少しずつ注いでいく。
海水が金属缶の中へ落ちるたびに、残っていた熱で小さな音がした。
「これくらいでいい?」
「十分だ」
二人は金属板を元の位置へ戻した。
相希がひび割れた泥を指でなぞる。
「ここは塗り直した方がいい」
「昨日の泥、まだ残ってるぞ」
直人は乾きかけた泥へ少量の海水を加え、手で練り直した。
相希が亀裂へ泥を押し込み、直人が反対側から金属板を固定する。
昨日と同じ作業だった。
だが、手の動きは昨日よりも迷いが少ない。
「そっち、少し浮いてる」
「押さえる」
「そのまま。今埋める」
「了解」
昨日は、一つずつ言葉にしなければ動けなかった。
今は、相手が次に何をするのか、少しだけ分かる。
直人が金属板を押さえれば、相希は亀裂を埋める。
相希が筒を確認すれば、直人は布へかける海水を用意する。
どちらか一人では、昨日よりうまくできなかった。
泥を塗り終えると、直人は筒に巻かれた布へ海水をかけた。
乾いて硬くなっていた布が、ゆっくりと水を吸っていく。
相希は水を受ける容器を確認した。
「受け皿は替えよう」
「まだ使えるだろ?」
「昨日から外に置きっぱなしだ。次は新しいものを使った方がいい」
「じゃあ、別のペットボトルを切るか」
直人は比較的きれいなペットボトルを選び、マルチツールの刃で上部を切り落とした。
相希は切り口を布で拭き、筒の先へ置く。
直人が周囲へ石を並べ、動かないように固定した。
「昨日より安定したな」
「石が砂に沈まないように、下に板を敷いたからな」
「それ、俺が寝てる間に考えた?」
「今思いついた」
直人は笑いながら、火へ太めの流木を一本加えた。
炎が強くなりすぎないように、先端だけが火へ入る位置で止める。
「これなら、少しずつ燃えるだろ」
「火力も昨日より安定するかもしれない」
相希は火、海水、泥、筒、受け皿を順番に見た。
すべてを確認したあと、直人へ目を向ける。
「これなら、すぐには離れても大丈夫そうだ」
「今度は寝ない?」
「言うと思った」
「冗談だよ」
相希は呆れたように息を吐いた。
だが、先ほどまで胸の奥にあった冷たさは、少しだけ薄れていた。
直人はペットボトルへ移した水を持ち上げた。
「まず、飲もう」
「ああ」
二人は少しずつ水を分けた。
量は少なかったが、乾いていた喉に水が触れるだけで、体が少し戻ってくるように感じられた。
直人は空になった容器を置き、海岸の先へ目を向ける。
「じゃあ、次は食べ物だな」
「ああ。このまま水だけで過ごすわけにはいかない」
相希も立ち上がり、海岸の先へ視線を向けた。
砂浜の向こうには、黒い岩が海へ張り出している場所が見える。
波が引くたびに、岩の間に小さな水たまりが現れていた。
「あそこ、磯場になってそうだな」
直人が言った。
「潮だまりがあれば、貝や小さいカニがいるかもしれない」
「食べられそうなものがいたら、捕まえよう」
「分からないものは食べるなよ」
「それは二人で見ればいいだろ」
直人は拾った小さな容器と、短いロープを持った。
相希もマルチツールと手袋を準備する。
二人は蒸留器をもう一度振り返った。
火はドラム缶の内側で安定して燃えている。
筒に巻いた布は濡れ、接続部分から蒸気が漏れている様子もない。
新しい受け皿の上では、筒の先に小さな水滴が膨らみ始めていた。
「戻ってきたら、また確認だな」
「薪、海水、泥、受け皿」
「忘れてないじゃん」
「昨日、何回聞かされたと思ってるんだ」
直人が笑う。
相希も、わずかに口元を緩めた。
二人は並んで、磯場へ向かって歩き始めた。
まだ、何ひとつ安定してはいなかった。
水も。
火も。
二人自身も。
それでも昨日よりは、少しだけ前へ進んでいた。




