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はじまりの岸  作者: インフィ
サバイバル編

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第10話 最初の一滴



火を起こしてから、しばらく時間が経った。

金属缶の底では炎が揺れ、乾いた流木が小さな音を立てながら燃えている。

しかし、筒の先に置いた容器には、まだ何も落ちてこなかった。



「まだか?」



直人は筒の先をのぞき込んだ。



「海水が沸くまでは時間がかかる」



相希はそう答えながら、蓋代わりの金属板へ目を向けた。

金属板の表面には、火の熱が少しずつ伝わり始めている。

接続部分に塗った泥も、外側から乾き始めていた。


直人は細い流木を一本加えた。



「火、弱くないか?」


「強くしすぎると、泥が急に乾いて割れるかもしれない」


「でも、沸かなきゃ意味ないだろ」


「だから、少しずつ上げよう」



相希は火の隙間を崩さないように、細い枝の位置を調整した。

直人も反対側から流木を一本差し込み、炎が金属缶の底へ当たるように動かす。

二人が火を見つめていると、金属板の隙間から細い煙のようなものが立ち上った。



「出た」



直人が身を乗り出す。



「いや、あれは蒸気だ」



相希は接続部分へ顔を近づけすぎないようにしながら、漏れている場所を確認した。

蓋と金属缶の間に塗った泥が乾き、細い亀裂ができている。

そこから白い蒸気が逃げていた。



「やっぱり割れたな」


「塞げばいいんだろ?」



直人は練って残しておいた泥を手に取った。



「火を止めなくてもいけるか?」


「金属に直接触るなよ。熱くなってる」


「分かってる」



直人が裂いた布を重ねて手を守り、金属缶が動かないように押さえる。

相希は亀裂の上へ新しい泥を薄く塗り重ねた。

蒸気が泥を押し返し、表面に小さな穴が開く。



「そこ、まだ出てる」


「見えてる。もう少し上から押さえる」



直人が指差した場所へ、相希が泥を追加する。

一度は蒸気が止まったが、今度は反対側の隙間から白い筋が立ち上った。



「次はそっちか」


「全部一度にはうまくいかないな」



直人は笑いながら、缶の反対側へ回った。



「俺がこっちを塞ぐ。相希は筒の方を見てて」


「熱いから気をつけろよ」


「お前もな」



二人はそれぞれ別の場所へ泥を足していった。

乾いては割れ、蒸気が漏れる。


漏れた場所を見つけては、また塞ぐ。

その作業を何度か繰り返すうちに、蓋の周囲から立ち上っていた蒸気は少しずつ減っていった。



相希は筒に巻いた布へ手を伸ばした。

まだ触れられる温度だったが、火に近い部分は熱を持ち始めている。



「布を濡らそう」


「俺が海水を汲んでくる」



直人は切ったペットボトルを一つ持ち、波打ち際へ走った。

その間に、相希は筒の傾きを確認する。

先端は水を受ける容器へ向かっている。

ただ、石の一つが砂へ沈み、筒が少し横へ傾いていた。


相希は別の石を脇へ差し込み、角度を戻した。

直人が海水を入れた容器を持って戻ってくる。



「かけるぞ」


「一気にかけるな。少しずつ布に染み込ませてくれ」



直人は筒に巻いた布へ、海水をゆっくりとかけた。

熱を持った布から、白い湯気がわずかに上がる。



「冷やすのに海水を使って、その海水は飲めない。なんか変な感じだな」


「外側を冷やすだけなら問題ない」


「分かってるけどさ」



直人は残った海水を置き、筒の先へ目を向けた。

まだ、水滴は落ちていない。


相希は火と泥の状態を交互に確かめる。

漏れていた蒸気はほとんど見えなくなっていた。



「少しは筒の方へ流れてるはずだ」


「見えないけどな」


「中までは見られないから、待つしかない」



二人は火の前へ腰を下ろした。

燃える流木の音。

波が砂浜へ寄せては引く音。

風が草を揺らす音。

それ以外の音は聞こえない。


直人は空を見上げた。

太陽はまだ高いが、朝よりも確実に傾いている。



「今日中に取れるかな」


「取れないと困る」


「そうだけど」



直人は乾いた唇を舐めた。

喉の渇きは、朝よりも強くなっている。


海へ落ちてから、二人とも一度も水を飲んでいない。

目の前には、いくらでも海水がある。

それなのに、一口も飲むことができなかった。



「海水って、少しくらいなら飲んでも駄目なのか?」



直人が尋ねた。



「飲まない方がいい。体の塩分濃度より高いから、余計に水分を失う」


「余計に喉が渇くってことか」


「ああ。今は我慢するしかない」



直人は海へ目を向けたまま、小さく息を吐いた。



「目の前にあんなにあるのにな」


「飲めない水なら、ないのと同じだ」



二人は再び蒸留器へ視線を戻した。

しばらくすると、筒の先がわずかに濡れていることに直人が気づいた。



「相希、あれ」



相希はすぐに身を乗り出した。

筒の先端に、小さな透明の膨らみができている。


二人は声を出さず、その一点を見つめた。

透明な膨らみは少しずつ大きくなり、やがて筒の先から離れた。

一滴の水が、下に置いた容器へ落ちる。

小さな音は、波の音にかき消されて聞こえなかった。



「落ちた」



直人が呟いた。



「ああ」



相希は容器の中をのぞき込んだ。

底に、わずかな水滴が残っている。


ほんの一滴。

口を潤すことさえできない量だった。

それでも、二人はしばらくその水滴を見つめていた。



「成功ってことでいいよな?」


「一滴だけならな」


「一滴でも出たんだから、後は増やせばいい」


「そうだな」



相希は筒に巻いた布へ再び海水をかけた。

直人は火が弱くならないように、細い流木を追加する。



一滴目から次の一滴までは長かった。

それでも、少しずつ容器の底に水が溜まり始めた。

泥の一部が割れれば塞ぎ直す。


布が乾けば海水をかける。

火が弱くなれば流木を足す。


二人は役割を決めることなく、その時に気づいた方が手を動かした。

やがて、容器の底を薄く覆う程度の水が溜まった。


直人は容器を持ち上げようとしたが、相希が手で止めた。



「まだ触るな」


「飲まないよ。量を見ようと思っただけ」


「容器の外側に海水がついてる可能性がある。中へ入ったら意味がない」


「じゃあ、どうする?」


「一度、筒の先と容器の周りを拭こう」



二人は乾いた布の比較的きれいな部分を使い、筒の先端と容器の外側を慎重に拭いた。

その後、相希が容器を持ち上げる。

底に溜まった水は、二人で分ければ一口ずつあるかどうかという量だった。



「味、確認する?」



直人が言った。



「先に匂いを見よう」



相希は容器へ鼻を近づけた。

焦げたような匂いも、油のような匂いもない。

直人も確認し、顔をしかめることなくうなずいた。



「変な匂いはしないな」


「金属や筒から何か溶け出してる可能性は否定できない」


「でも、飲まないと今日を越せないだろ」



相希は容器の水を見つめた。

安全だと言い切ることはできない。

それでも、水を取る別の方法はまだ見つかっていなかった。



「少しずつにしよう」


「了解」



直人は容器を受け取り、唇を濡らす程度に水を口へ含んだ。

すぐには飲み込まず、舌の上で味を確かめる。



「どうだ?」


「少し金属っぽい気もする。でも、しょっぱくはない」



直人はそのまま水を飲み込んだ。

しばらく待っても、口や喉に異常はない。



「大丈夫そうだ」



相希も残った水を少しだけ口へ含んだ。

確かに、わずかに金属のような味がする。

だが、海水のような塩辛さはなかった。


相希はゆっくりと飲み込んだ。



「飲める」


「よし」



直人は小さく拳を握った。


二人はすぐに金属缶へ海水を足した。

日が傾き始めても、蒸留器は止めなかった。

少しずつではあるが、水を作れる見通しが立った。


今ここで火を消せば、夜を越すための水はほとんど残らない。



「今日は、このまま動かそう」



直人が言った。



「俺もそう思う。ただ、作ったばかりだから放置はできない」



相希は火と接続部分を順番に確認した。

泥にはすでに細かな亀裂ができている。

火力も、流木の太さや置き方で簡単に変わった。


海水がどれほどの速さで減るのかも、まだ分かっていない。



「今日は交代で見張るしかないな」


「明日からは?」


「今夜の様子を見て決める。火の持ち方も、海水の減り方も、水が溜まる速さも分からない」


「その辺が分かれば、ずっと張りついてなくてもよくなるか」


「ああ。何時間かごとに来て、薪と海水を足す。泥と受け皿も確認する。それで回せるなら、他のことに時間を使える」


「今日はそのための試運転って感じだな」


「試運転で失敗したら、水がなくなるけどな」


「そういう言い方するなよ」



直人は笑いながら、太めの流木を火のそばへ並べた。

暗くなってからも手探りで取れるように、細い枝と太い流木を分けて置く。


相希は泥で塞いだ部分へ新しい土を薄く塗り重ねた。

筒を支える石も一つずつ押し、簡単に動かないことを確認する。

水を受ける容器の周囲には石を置き、風や振動で倒れないように固定した。



「火は少し弱めでいい」


「沸騰が止まらない程度か」


「ああ。強くしすぎれば薪がすぐになくなるし、泥も割れやすくなる」


「じゃあ、太いのを少しずつ燃やす」



二人は炎の大きさを調整した。

金属缶の中からは、海水が沸くかすかな音が聞こえている。


筒の先から落ちる水滴も、止まってはいなかった。



「今日は、ここで休もう」



直人が作業場の周囲を見回しながら言った。



「そうだな。作ったばかりで何が起きるか分からない。二人とも近くにいた方がいい」



相希は蒸留器と岩場の拠点を見比べた。


拠点の方が寝床としては安全で、地面も整えてある。

だが、今夜に限っては、蒸留器から離れる方が危険だった。



「交代で見張って、休む方もここで寝よう」


「眠くなったら起こす。それで交代だな」


「時計が使えないから、正確な時間は測れないぞ」


「そこまで正確じゃなくていいだろ。起きてるのがきつくなったら交代する」


「無理して限界まで起きるなよ」


「分かってるって」



二人は一度、岩場の拠点へ必要な物を取りに戻った。

日当たりのいい場所へ広げていた服は、まだ少し湿っていたが、着られないほどではない。


二人は服を着替え、エマージェンシーシートとヘッドライトを持った。

リュックと救急バッグは岩陰の奥へ寄せておく。


直人が立ち上がった時、腹が大きな音を立てた。

相希が直人を見る。



「聞こえた?」


「聞こえた」


「朝から何も食ってないからな」


「昨日の夜からだろ」


「言われると余計に腹減るな」



直人は腹を押さえながら、岩陰の外へ目を向けた。



「食べ物も探すべきだったか」


「今日は水と拠点が優先だった。間違ってない」


「でも、明日は食べ物も必要だな」


「ああ。海岸なら貝やカニがいるかもしれない」


「魚は?」


「道具がない。まずは手で採れる物からだ」


「じゃあ、明日は朝から食料探しだな」



二人は必要な物を持ち、作業場へ戻った。

太陽はすでに水平線の近くまで沈み、周囲は急速に暗くなり始めている。


炎の明かりが、蒸留器と二人の顔を赤く照らしていた。

二人は火から十分に離れた場所の石や枝を取り除いた。


地面へエマージェンシーシートを敷き、休めるだけの場所を作る。



「明日からは拠点で寝られるようにしたいな」



直人が言った。



「ああ。今夜の様子で、火の持ち方と海水の減り方が分かれば、ずっと見張る必要はなくなる」


「薪と海水を足して、泥と受け皿を確認する」


「それを何時間かごとにやれば、回せるかもしれない」


「今日はその間隔を知るための一晩ってことだな」


「ああ」



二人は蒸留器へ目を向けた。

筒の先から水滴が落ち、受け皿の底へ消えていく。



「どっちが先に休む?」



相希が尋ねた。



「相希が先でいいよ。朝から森の方を歩き回ってただろ」


「直人だって、砂浜を何往復もしただろ」


「俺はこういう時、興奮してすぐには眠れないから」



直人は火の前へ腰を下ろした。



「眠くなったら起こす。それで交代しよう」


「火だけじゃなくて、海水の量も見ろよ」


「分かってる」


「泥の亀裂と、受け皿も」


「薪、海水、泥、受け皿。全部見る」


「筒の布が乾いたら――」


「海水をかける。もう大丈夫だから、早く休め」



相希は小さく笑い、シートの上へ横になった。

火から十分に距離を取り、風向きを確認してから体を休める。



「直人」


「何?」


「無理するなよ」


「お前もな」



相希は目を閉じた。


直人は火と蒸留器を交互に見つめる。

筒の先には、小さな水滴が膨らんでいた。


やがて一滴が落ち、容器の中へ消えていく。

夜の間に、どれだけの水が作れるかは分からない。


火が安定して燃え続けるかも分からない。

泥がどれほど持つのかも、まだ分からなかった。


だからこそ、今夜は見張る必要がある。


直人は炎の位置を少しだけ整えた。

筒の先から、また一滴の水が落ちる。


暗い海岸には、波の音と燃える木の音だけが響いていた。

二人の最初の夜は、蒸留器の火を見守ることから始まった。



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