表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/20

第9話「フミが見ている」


 12月の第2週になった。


 放課後の図書室で、ユースケと英語の勉強をするようになって2週間が経っていた。火曜と木曜の週2回、1時間ずつ。ユースケの飲み込みは早かった。宇宙系の研究への動機が本物だったから、やる気が続いていた。


 「リュウ、この構文どういう意味?」


 ユースケが参考書を指差した。関係代名詞の複合的な文だった。


 「主語がここで、動詞がここ。このwhichはその前の名詞全体を受けてる。日本語にすると——」


 説明しながら、俺は38歳の自分が何をやっているのかを時々不思議に思った。アラフォーのおじさんが高校生の体で英文法を教えている。客観的に見たら相当おかしな光景だが、ユースケが真剣に聞いているのは本物だった。


 「わかった。これ、応用できる?」


 「できる。今日の最後にこのパターンの問題を5問解いてみろ」


 「了解」


 ユースケがノートに向かった。俺は向かいに座って、次の説明の準備をした。


 図書室は静かだった。他に数人の生徒がいたが、みんな自分の勉強をしていた。窓の外は暗くなっていた。12月の午後5時は、もうすっかり夜だった。


---


 問題を解いているユースケの横で、俺は自分の勉強をしていた。


 経済学の入門書だった。


 附属の国立大に経済学部で推薦をもらうためには、成績の維持と、生徒会長への就任と、あと面接でちゃんとした志望動機を話せることが必要になる。志望動機を本物にするために、今から経済学を少し齧っておきたかった。


 38歳の体験で言えば、経済や投資の知識は早く持つほどいい。高校生のうちから積み上げれば、大学に入った頃には相当差がつく。元の人生では理系に進んでマーケティングの部署に回されて、畑違いで苦労した。今回はちゃんと自分の土俵を作る。


 「リュウ、何読んでるの」


 ユースケが問題を解きながら、俺の手元を見た。


 「経済学の入門書」


 「へえ。文系なの、リュウって」


 「今年は理系クラスだけど、来年は文系にしようと思ってる」


 「マジで? 理系じゃないの?」


 「経済学をちゃんと学びたくて」


 「意外だな。なんか理系っぽいのに」


 「理系っぽいか、俺」


 「なんか、論理的だし、数字に強そうだし。でも経済もそういう頭が必要か」


 「必要だよ。経済学は数学も使うし、データの分析もある。理系的な頭が活かせる」


 「へえ。まあ、リュウが行きたいとこ行けばいいよ。来年、クラス変わるの寂しいけど」


 「寂しいか」


 「まあな。でも仕方ない」


 ユースケが問題に向き直った。


 来年のクラス替えのことを、ユースケはそういう感覚で見ている。俺は少し違う理由でクラスを考えていた。文系を選ぶのは経済学への興味もあるが、もうひとつ理由がある。


 3年でキョンと同じクラスになること。


 元の俺は理系に進んで、3年でクラスが分かれた。来年の春から、ちゃんと計算して動く。


---


 勉強が終わって、図書室を出た。


 廊下を歩いていると、向こうからフミが来た。バイトの帰りだろう。コートを着て、カバンを持っていた。


 「お疲れ」と俺は言った。


 「お疲れ」とフミが言った。「ユースケと英語の勉強か」


 「そう。2週目になった」


 「定着してるんだな、ちゃんと」


 「ユースケがやる気だから」


 「お前のおかげだろ」


 「きっかけを作っただけだ」


 フミが少し俺を見た。その目が、少し違った。何かを言おうとしている目だった。


 「ちょっといいか」


 「どうした」


 「話がある」


 廊下の隅、誰もいない場所に移動した。フミが壁に背を預けて、俺を見た。


 「リュウ、お前、何者だ」


 「何者って」


 「真剣に聞いてる」


 フミの目は真剣だった。からかっている感じではなかった。


 「どういう意味だ」


 「文化祭の翌日から、お前は変わった。目が変わって、言葉の選び方が変わって、行動が変わった。ユースケに宇宙の話を聞いた。バータに起業の話を聞いた。俺には奨学金の話をした。全部、俺たちが自分でも言語化しきれてなかったことに、お前が先に触れてきた」


 「みんなの話を聞きたかっただけだ」


 「それだけじゃない」とフミが言った。「お前、全部知ってるだろ。俺たちの、先のことを」


 俺は何も言わなかった。


 フミは続けた。


 「証拠はない。確かめる方法もない。でも、そういうふうにしか見えない。宇宙系の研究に英語が必要なことも、奨学金の種類も、バータの外部受験への気持ちも、お前は初めから知っていた。俺たちが話す前から知っていた」


 「……気のせいじゃないか」


 「気のせいならそれでいい。ただ、一個だけ聞く」


 フミが真正面から俺を見た。外した視線を戻すのが難しい目だった。


 「お前がやろうとしていることは、俺たちにとっていいことか」


 静かな質問だった。怒っているわけでも、責めているわけでもなかった。ただ、確認していた。


 「……そのつもりだ」


 「お前自身にとっても?」


 「それも、そのつもりだ」


 フミは少し黙った。廊下の蛍光灯が白い光を落としていた。遠くで誰かが部室のドアを閉める音がした。


 「わかった」とフミが言った。


 「それだけか」


 「それだけだ。それが聞きたかった」


 「追及しないのか」


 「お前が答えられることは、今の言葉で全部答えた気がする」


 フミらしかった。証拠がないなら、感触だけで動く。確認できることだけを確認して、それ以上は踏み込まない。


 「ひとつだけ、俺から言わせてくれ」


 「言え」


 「フミには弁護士になってほしい。俺がそう思っているのは、お前に向いているからだ。人の変化に気づいて、感情に流されず、本質を見る。それが法律と組み合わさったら、本物になる。それだけは、信じてくれ」


 フミは少し目を細めた。


 「それ、リュウの都合で言ってるか? 俺の都合で言ってるか?」


 鋭い問いだった。


 「両方だ」と俺は答えた。「俺がフミに弁護士になってほしいのも本当だし、お前がそれに向いているのも本当だ。どちらかだけじゃない」


 フミが長い沈黙の後に、「そうか」と言った。


 「信じる」


 「ありがとう」


 「礼はいらない。ただ」とフミが言った。「ひとつだけ頼みがある」


 「なんだ」


 「無理するな。お前は一人で全部背負おうとする。それがお前の悪い癖だ」


 「悪い癖、か」


 「そうだ。今回も、俺たちのことを全部変えようとして、自分のことが後回しになってる気がする」


 「そんなことは——」


 「キョンのことも含めて、急ぎすぎるな。お前のペースでいい。お前が幸せにならないと、他人を幸せにできない。それは本当のことだ」


 俺は少し黙った。


 フミの言葉は、38歳の記憶を持つ俺に、まっすぐ刺さった。


 元の人生で俺がやってきたことは、ずっと後回しにしてきた結果だった。自分の気持ちを後回しにして、キョンへの告白を雑にして、仕事でも流されて、結婚も流されて、気づいたら全部後回しにしたまま38歳になっていた。


 「わかった」


 「本当にわかったか?」


 「わかってる」


 「そうか」


 フミが歩き出した。


 「フミ」


 「なんだ」


 「今夜、何かうまいもの食べろよ。バイト帰りだろ」


 フミが少し止まった。


 「……余計なお世話だ」


 「そうだな」


 「でも、まあ、考える」


 フミが歩いていった。コートの後ろ姿が廊下の曲がり角に消えた。


 俺はしばらく廊下に立っていた。


 フミには、ほとんど見透かされていた。全部をわかっているわけではないが、「何かがある」ということは完全に気づかれていた。


 それでも「信じる」と言ってくれた。


 それで十分だった。


---


 家に帰って、夕飯を食べて、部屋に戻った。


 ガラケーを開くと、キョンからメールが来ていた。


 『今週末、服飾の専門学校のオープンキャンパス調べてたんだけど、来月に1つある。前に言ってた「一緒に行く」の話、まだ有効?』


 俺は少し笑った。


 キョンが自分で動いた。調べて、日程を確認して、「有効か」と聞いてきた。


 背中を少し押しただけで、ちゃんと自分で動ける。それがキョンだ。


 『有効だよ。日程教えてくれ。合わせる』


 すぐに返信が来た。


 『1月の第2週の日曜日。都内だから電車で30分くらい』


 『行こう。その日は空けておく』


 また少し間があった。


 『ありがとう。なんか、心強い』


 「心強い」という言葉を、キョンが使った。


 俺はガラケーを閉じて、ノートを開いた。


 来月の日程の欄に、「キョン・オープンキャンパス」と書いた。


 その横に、「フミ・奨学金申請確認」と書いた。


 その下に、「ユースケ・英語テスト」と書いた。


 全部、来月にやること。全部、変えるためにやること。


 フミに「無理するな」と言われた。


 それはわかっている。でも今夜は、このノートを書き終えるまでは、無理じゃなかった。


 やることが見えている間は、不安にならずに済んだ。


---


*(第10話へつづく)*

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ