第9話「フミが見ている」
12月の第2週になった。
放課後の図書室で、ユースケと英語の勉強をするようになって2週間が経っていた。火曜と木曜の週2回、1時間ずつ。ユースケの飲み込みは早かった。宇宙系の研究への動機が本物だったから、やる気が続いていた。
「リュウ、この構文どういう意味?」
ユースケが参考書を指差した。関係代名詞の複合的な文だった。
「主語がここで、動詞がここ。このwhichはその前の名詞全体を受けてる。日本語にすると——」
説明しながら、俺は38歳の自分が何をやっているのかを時々不思議に思った。アラフォーのおじさんが高校生の体で英文法を教えている。客観的に見たら相当おかしな光景だが、ユースケが真剣に聞いているのは本物だった。
「わかった。これ、応用できる?」
「できる。今日の最後にこのパターンの問題を5問解いてみろ」
「了解」
ユースケがノートに向かった。俺は向かいに座って、次の説明の準備をした。
図書室は静かだった。他に数人の生徒がいたが、みんな自分の勉強をしていた。窓の外は暗くなっていた。12月の午後5時は、もうすっかり夜だった。
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問題を解いているユースケの横で、俺は自分の勉強をしていた。
経済学の入門書だった。
附属の国立大に経済学部で推薦をもらうためには、成績の維持と、生徒会長への就任と、あと面接でちゃんとした志望動機を話せることが必要になる。志望動機を本物にするために、今から経済学を少し齧っておきたかった。
38歳の体験で言えば、経済や投資の知識は早く持つほどいい。高校生のうちから積み上げれば、大学に入った頃には相当差がつく。元の人生では理系に進んでマーケティングの部署に回されて、畑違いで苦労した。今回はちゃんと自分の土俵を作る。
「リュウ、何読んでるの」
ユースケが問題を解きながら、俺の手元を見た。
「経済学の入門書」
「へえ。文系なの、リュウって」
「今年は理系クラスだけど、来年は文系にしようと思ってる」
「マジで? 理系じゃないの?」
「経済学をちゃんと学びたくて」
「意外だな。なんか理系っぽいのに」
「理系っぽいか、俺」
「なんか、論理的だし、数字に強そうだし。でも経済もそういう頭が必要か」
「必要だよ。経済学は数学も使うし、データの分析もある。理系的な頭が活かせる」
「へえ。まあ、リュウが行きたいとこ行けばいいよ。来年、クラス変わるの寂しいけど」
「寂しいか」
「まあな。でも仕方ない」
ユースケが問題に向き直った。
来年のクラス替えのことを、ユースケはそういう感覚で見ている。俺は少し違う理由でクラスを考えていた。文系を選ぶのは経済学への興味もあるが、もうひとつ理由がある。
3年でキョンと同じクラスになること。
元の俺は理系に進んで、3年でクラスが分かれた。来年の春から、ちゃんと計算して動く。
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勉強が終わって、図書室を出た。
廊下を歩いていると、向こうからフミが来た。バイトの帰りだろう。コートを着て、カバンを持っていた。
「お疲れ」と俺は言った。
「お疲れ」とフミが言った。「ユースケと英語の勉強か」
「そう。2週目になった」
「定着してるんだな、ちゃんと」
「ユースケがやる気だから」
「お前のおかげだろ」
「きっかけを作っただけだ」
フミが少し俺を見た。その目が、少し違った。何かを言おうとしている目だった。
「ちょっといいか」
「どうした」
「話がある」
廊下の隅、誰もいない場所に移動した。フミが壁に背を預けて、俺を見た。
「リュウ、お前、何者だ」
「何者って」
「真剣に聞いてる」
フミの目は真剣だった。からかっている感じではなかった。
「どういう意味だ」
「文化祭の翌日から、お前は変わった。目が変わって、言葉の選び方が変わって、行動が変わった。ユースケに宇宙の話を聞いた。バータに起業の話を聞いた。俺には奨学金の話をした。全部、俺たちが自分でも言語化しきれてなかったことに、お前が先に触れてきた」
「みんなの話を聞きたかっただけだ」
「それだけじゃない」とフミが言った。「お前、全部知ってるだろ。俺たちの、先のことを」
俺は何も言わなかった。
フミは続けた。
「証拠はない。確かめる方法もない。でも、そういうふうにしか見えない。宇宙系の研究に英語が必要なことも、奨学金の種類も、バータの外部受験への気持ちも、お前は初めから知っていた。俺たちが話す前から知っていた」
「……気のせいじゃないか」
「気のせいならそれでいい。ただ、一個だけ聞く」
フミが真正面から俺を見た。外した視線を戻すのが難しい目だった。
「お前がやろうとしていることは、俺たちにとっていいことか」
静かな質問だった。怒っているわけでも、責めているわけでもなかった。ただ、確認していた。
「……そのつもりだ」
「お前自身にとっても?」
「それも、そのつもりだ」
フミは少し黙った。廊下の蛍光灯が白い光を落としていた。遠くで誰かが部室のドアを閉める音がした。
「わかった」とフミが言った。
「それだけか」
「それだけだ。それが聞きたかった」
「追及しないのか」
「お前が答えられることは、今の言葉で全部答えた気がする」
フミらしかった。証拠がないなら、感触だけで動く。確認できることだけを確認して、それ以上は踏み込まない。
「ひとつだけ、俺から言わせてくれ」
「言え」
「フミには弁護士になってほしい。俺がそう思っているのは、お前に向いているからだ。人の変化に気づいて、感情に流されず、本質を見る。それが法律と組み合わさったら、本物になる。それだけは、信じてくれ」
フミは少し目を細めた。
「それ、リュウの都合で言ってるか? 俺の都合で言ってるか?」
鋭い問いだった。
「両方だ」と俺は答えた。「俺がフミに弁護士になってほしいのも本当だし、お前がそれに向いているのも本当だ。どちらかだけじゃない」
フミが長い沈黙の後に、「そうか」と言った。
「信じる」
「ありがとう」
「礼はいらない。ただ」とフミが言った。「ひとつだけ頼みがある」
「なんだ」
「無理するな。お前は一人で全部背負おうとする。それがお前の悪い癖だ」
「悪い癖、か」
「そうだ。今回も、俺たちのことを全部変えようとして、自分のことが後回しになってる気がする」
「そんなことは——」
「キョンのことも含めて、急ぎすぎるな。お前のペースでいい。お前が幸せにならないと、他人を幸せにできない。それは本当のことだ」
俺は少し黙った。
フミの言葉は、38歳の記憶を持つ俺に、まっすぐ刺さった。
元の人生で俺がやってきたことは、ずっと後回しにしてきた結果だった。自分の気持ちを後回しにして、キョンへの告白を雑にして、仕事でも流されて、結婚も流されて、気づいたら全部後回しにしたまま38歳になっていた。
「わかった」
「本当にわかったか?」
「わかってる」
「そうか」
フミが歩き出した。
「フミ」
「なんだ」
「今夜、何かうまいもの食べろよ。バイト帰りだろ」
フミが少し止まった。
「……余計なお世話だ」
「そうだな」
「でも、まあ、考える」
フミが歩いていった。コートの後ろ姿が廊下の曲がり角に消えた。
俺はしばらく廊下に立っていた。
フミには、ほとんど見透かされていた。全部をわかっているわけではないが、「何かがある」ということは完全に気づかれていた。
それでも「信じる」と言ってくれた。
それで十分だった。
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家に帰って、夕飯を食べて、部屋に戻った。
ガラケーを開くと、キョンからメールが来ていた。
『今週末、服飾の専門学校のオープンキャンパス調べてたんだけど、来月に1つある。前に言ってた「一緒に行く」の話、まだ有効?』
俺は少し笑った。
キョンが自分で動いた。調べて、日程を確認して、「有効か」と聞いてきた。
背中を少し押しただけで、ちゃんと自分で動ける。それがキョンだ。
『有効だよ。日程教えてくれ。合わせる』
すぐに返信が来た。
『1月の第2週の日曜日。都内だから電車で30分くらい』
『行こう。その日は空けておく』
また少し間があった。
『ありがとう。なんか、心強い』
「心強い」という言葉を、キョンが使った。
俺はガラケーを閉じて、ノートを開いた。
来月の日程の欄に、「キョン・オープンキャンパス」と書いた。
その横に、「フミ・奨学金申請確認」と書いた。
その下に、「ユースケ・英語テスト」と書いた。
全部、来月にやること。全部、変えるためにやること。
フミに「無理するな」と言われた。
それはわかっている。でも今夜は、このノートを書き終えるまでは、無理じゃなかった。
やることが見えている間は、不安にならずに済んだ。
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*(第10話へつづく)*




