第10話「冬休みの前に」
12月の第3週。
終業式まであと4日というところで、学校全体が少し浮き足立ってきていた。廊下で話す生徒の声が大きくなって、授業中の集中力が目に見えて落ちて、購買のパンが午前中に売り切れるようになった。冬休み前の、毎年決まったあの感じだ。
俺は生徒会の仕事で少しだけ忙しかった。
年度末予算の草稿と、3年生の引き継ぎに向けた資料の整理と、冬休み中の当番表の作成。どれも地味だが、誰かがやらなければいけない仕事だった。生徒会長の候補として名前が出始めていたから、仕事を丁寧にやっておくことが信頼に繋がる。
それはわかっていた。わかっていたが。
今日の放課後は、なぜか全然仕事が進まなかった。
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理由はわかっていた。
生徒会室の窓際で、キョンが生地の写真が載った雑誌を読んでいたからだ。
今日はミナミとサナは部活の見学に行ったらしく、リサだけが来ていた。でもリサは隅の席でノートを広げていて、こちらにはほとんど関心がなかった。
結果、生徒会室にはキョンとリサと俺の3人がいた。
キョンが雑誌のページをめくるたびに、少し前のめりになった。気になるページを見つけると、眉が動いた。声は出さないが、内心で何か反応しているのがわかった。
こういうキョンを、俺は今まで見たことがなかった。
電車の中のキョンは落ち着いていて、学校のキョンは静かで、カラオケのキョンは少し無防備だった。でも今日の、服の雑誌を読んでいるキョンは、そのどれとも違った。
好きなものを見ているときの顔だった。
「それ、何の雑誌だ」と俺は聞いた。
「服飾の専門誌。ちょっと見たくて図書室で借りてきた」
「図書室にそういうのがあるのか」
「附属の大学に服飾系の学部があったら揃えてたんだろうけど、ないから1冊だけあった。前から気になってたけど、借りたのは今日が初めて」
「なんで今日」
「なんとなく、今日は借りたい気分だった」
理由になっていないが、キョンらしかった。なんとなく、今日は。それでいい。
「どんなことが書いてあるんだ」
「生地の種類と、それに合う縫製の方法とか。あとデザインの変遷とか。難しい言葉も多いけど、見てるだけでも面白い」
「見せてくれるか」
キョンが少し驚いた顔をした。「リュウが読む?」
「興味があるから」
キョンが雑誌を俺の方に向けた。見やすいように角度を変えてくれた。
生地の写真が並んでいるページだった。ウールやコットンやシルクの質感を接写した写真と、それぞれの特徴が書かれていた。俺には専門的すぎてよくわからなかったが、キョンが「これが好きで」と指差したのはウールの一種だった。
「この触感が好きなんだよね。少し粗くて、でも温かくて」
「作ったことはあるか、これで」
「スカーフくらいなら。コートは難しくて、まだできたことない」
「コートを作りたいのか」
「いつか。専門学校に行ったら、絶対挑戦したい」
キョンが雑誌を見ながら言った。
「絶対、って言ったな」
「言った」
「さっきより口調が強い」
「そうかな」とキョンが言って、少し笑った。「言われてみれば、そうかもしれない」
「いいじゃないか。絶対挑戦したい、で合ってる」
「……うん。合ってる」
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リサが「帰る」と言って、荷物を持って出ていった。
生徒会室にキョンと俺の2人になった。
窓の外が暗くなっていた。冬の午後5時は早い。ストーブの音がして、部屋が温かかった。
キョンが雑誌を閉じた。
「ねえ、リュウって、来年は文系に行くんだよね」
「そのつもり」
「なんで急に決めたの。理系クラスにいたのに」
「経済学を学びたいから。ちゃんとした理由があって決めた」
「ちゃんとした理由って?」
「将来、お金の仕組みをわかった上で動きたい。投資とか、事業とか、そういうことを学んでから動いた方が効率がいいから」
「投資? 高校生で?」
「今から考え始めた方がいい。大学に入ってすぐ動けるようにしたい」
キョンが少し不思議そうな顔をした。
「リュウって、将来のことをすごく具体的に考えてるんだね」
「そうか?」
「そうだよ。みんな、なんとなく大学行って、なんとなく就職する感じじゃない。でもリュウは、何のために勉強するかを決めてから動いてる感じがする」
「そういう方が、結果が変わるから」
「経験あるの?」
「……まあ、そういう感じがしてる」
「やっぱり先まで見えてるみたい」
キョンがそう言って、また俺を見た。
「前も言ったよね、それ」
「うん。最近ずっとそう思ってる。リュウって、なんか普通の16歳じゃない気がして」
「大人っぽいってことか」
「大人っぽいというか。なんか、一回失敗した人みたいな感じがするときがある」
俺は答えなかった。
「ごめん、変なこと言った」
「変じゃない」
「気にしてる?」
「気にしてない。ただ、うまく否定もできない」
キョンが少し目を細めた。
「なんで否定できないの」
「……俺のことを、よく見てるんだな、キョンが」
話を変えようとしたのがバレたかもしれない。でもキョンはそれ以上は聞かなかった。
「見てるよ。毎日一緒に帰ってるから」
「40分だけだけど」
「40分、毎日。結構長いよ」
「そうだな」
「片耳ずつ聴きながら、横に立ってる人のことって、自然と見るじゃない」
「俺もキョンのことを見てる」
「知ってる」
「知ってるのか」
「なんとなく」
キョンが少し笑った。含みのある笑い方だった。
俺の心臓が少し速くなった。38歳の経験値を持っていても、こういうときは速くなる。
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帰り道。
学校を出て、10分歩いて、駅に着いた。今日はキョンと俺の2人だった。ユースケたちは先に帰っていた。
ホームに上がって電車を待った。12月の夜の空気は冷たくて、息が白かった。
「冬休み、どこか行くの?」とキョンが聞いた。
「特に予定はない。生徒会の仕事が少し残ってるから、それを片付ける」
「真面目だな」
「仕事を残して休むのが嫌いなだけだ」
「それを真面目って言う」
「キョンは? 冬休みに何かするか」
「年末に家族で実家に帰る。あと、来月のオープンキャンパスの準備をしようと思って」
「準備?」
「何を聞くかとか、どういう基準で見るかとか。ただ見に行くだけじゃもったいないから」
「それは良いな。何を一番知りたい?」
「実際にどういう授業があるか。あと、卒業した人が今どんな仕事をしてるか」
「卒業後の進路か。それは重要な情報だな」
「そういうの、どこで確認できるんだろう」
「当日に学校のスタッフに直接聞くのが一番早い。パンフレットには良いことしか書かないから、在学生や卒業生の話を聞けるかどうかを確認してみると良い」
「そういうこと、知ってるんだね」
「まあ」
電車が来た。乗り込んだ。席に座った。キョンがMDプレーヤーを取り出した。
右のイヤホンが差し出された。
受け取った。いつもの曲が流れ始めた。
「これって」と俺は言った。
「ん?」
「このMD、最初に聴いてから1ヶ月くらい経つよな」
「そうだね」
「まだ同じやつを聴いてる」
「まだ好きだから」
「アーティスト名、来月のオープンキャンパスの帰りに教えてくれないか」
キョンが少し俺を見た。
「なんでそのタイミング?」
「なんとなく、そこが良い気がして」
「タイミングはこっちが決める」
「キョンが決めていい。でも、候補に入れてくれ」
キョンがしばらく黙った。
「……検討する」
「ありがとう」
「検討するって言っただけで、約束はしてない」
「わかった」
「なのになんで嬉しそうなの」
「顔に出てるか?」
「出てる」
俺は前を向いた。確かに、少し嬉しかった。「検討する」という言葉が、それまでの「まだ教えない」より前進した気がしたから。
電車が走った。車窓に夜景が流れた。イヤホンの左右をそれぞれ耳に当てて、2人が同じ音楽を聴いていた。
キョンの駅が近づいた。
速度が落ちて、ドアが開いた。キョンが立ち上がった。
「冬休み、また連絡するね」
「する」
「メールしてもいい?」
「いつでも」
「じゃあする」
キョンがホームに降りた。
ドアが閉まる前に、一度だけこちらを振り返った。
何も言わなかった。ただ少し、目が合った。
ドアが閉まった。電車が走り出した。
窓の外を流れるホームに、キョンが立っていた。すぐに見えなくなった。
俺は右のイヤホンを、もう一度耳に当てた。
片方だけの音楽が流れた。少し寂しかったが、悪くもなかった。
2005年12月、やり直しの第7週が終わった。
来月、キョンとオープンキャンパスに行く。フミの奨学金申請が動き始めた。ユースケの英語が少しずつ形になってきた。バータはまだ外部受験の学校を迷っている。
全部、少しずつ動いている。
急がない。でも止まらない。
それだけでいい。
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*(第11話へつづく)*
次回は明日19時になります。
ぜひ読んでいただけると幸いです!




