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第11話「冬休みと、ガラケーの往復」


 冬休みが始まった。


 初日の朝、目が覚めて天井を見ながら思った。


 38歳のアラフォーが高校生の冬休みをどう過ごすか。これは結構難しい問題だ。


 元の高校時代の記憶では、冬休みはゲームをして、ゴロゴロして、年末に帰省して、正月は寝て過ごしていた。特に何も考えていなかった。16歳というのはそういうものだ。


 でも今の俺には38年分の記憶があって、「この時間を無駄にするのはもったいない」という感覚がどうしても拭えなかった。冬休みの2週間を経済学の入門書と英語の自習に充てたら、来年の春にはだいぶ差がつく。奨学金の書類を先に確認しておけば、フミの申請をスムーズにサポートできる。バータが外部受験する学校のパンフレットを今のうちに取り寄せておけば——


 「龍、朝ごはんできたよー」


 母さんの声が聞こえた。


 俺はため息をついた。


 アラフォーの感覚で冬休みを管理しようとするのは、少し病気かもしれない。今は16歳だ。飯を食って、多少ゴロゴロして、メリハリをつけながらやることをやればいい。


 台所に行くと、トーストと目玉焼きと温かいコーンスープが並んでいた。母さんは新聞を読んでいた。


 「今日、どこか行くの?」


 「午後にちょっと図書館に行こうかと思ってる」


 「真面目ね。クリスマスなのに」


 「そうだっけ」


 「25日よ、今日」


 言われて初めて気づいた。2005年12月25日、日曜日。クリスマスだった。


 38歳のアラフォーは、クリスマスを完全に失念していた。


 「別に予定はないから」


 「友達と遊んだりしなくていいの?」


 「午後には連絡してみる」


 「キョンちゃんは?」と母さんが新聞から目を上げずに言った。


 「……なんでキョンが出てくるんだ」


 「よく電車で一緒だって言ってたじゃない。仲いいのかなって」


 「まあ、仲はいい」


 「ふーん」


 それ以上は何も言わなかった。でも口の端が少し上がっていた気がした。


 こういうところが、母さんは昔からうるさい。


---


 午前中に経済学の本を2章読んで、昼前にガラケーを開いた。


 キョンにメールを送るか、少し迷った。


 クリスマスにメールを送る、というのは、高校生的にどういう意味を持つのか。38歳の感覚では「友達に連絡する」だが、16歳の文脈では「脈ありサイン」に見えることもある。


 まあ、脈ありなんだが。


 でも今は焦らないと決めている。


 「クリスマスだから連絡した」という文脈は少し露骨すぎる。自然な感じで、何か話せることがあれば送ればいい。


 ちょうどいいことを思い出した。


 来月のオープンキャンパスのことを確認しておいた方がいい。当日に何を聞くか、事前に整理しておこうという話を、冬休み前にキョンとしていた。


 『来月のオープンキャンパス、当日に聞くこと整理してるか?』


 送信して、ガラケーを閉じた。


 5分後に返信が来た。


 『少しだけ。授業の内容と、実習がどのくらいあるかは絶対聞こうと思ってる』


 早い。家にいるらしかった。


 『就職先のデータも聞くといい。卒業生がどういう業種に就いてるかで、学校の実力がわかるから』


 『それ、どこで聞けばいい?』


 『受付か、学校のスタッフに直接。パンフレットには載ってないことが多いから、その場で聞いた方がいい』


 『わかった。メモしておく』


 ここで一度会話が止まった。俺はそのまま本に戻ろうとした。


 でも3分後にまた振動した。


 『ねえ、今日クリスマスじゃない』


 来た。


 内心で苦笑した。キョンの方から言ってきた。


 『そうだな。気づいてなかった』


 『嘘くさい』


 『本当に気づいてなかった。母さんに言われて知った』


 少し間があった。


 『それはそれで普通じゃない気がする』


 『そうか?』


 『クリスマスを忘れる高校生、あんまりいないよ』


 『俺はいた』


 また間があった。今度は少し長かった。


 『……今日、暇だったりする?』


 俺は少し固まった。


 これはキョンの方から「会おう」と言ってくるパターンだ。38歳の記憶のどこを探しても、そういうことはなかった。元のキョンは自分から誘ってくることが、ほとんどなかった。


 変わってきている。


 俺が変わったから、キョンも少し変わってきている。


 落ち着け、アラフォー。浮かれるな。


 『午後は暇。午前中に用事があるけど、昼過ぎから空いてる』


 『そっか。じゃあ、近くのショッピングモール行かない? ちょっと見たい生地があって』


 生地。


 なるほど。クリスマスのショッピングモールに、生地を見に行く。これが16歳のノンバイナリーの子の、クリスマスの誘い文句だった。


 ロマンチックとは少し違うが、キョンらしかった。


 そしてこういう「キョンらしさ」が好きだった。38年越しに確信していることのひとつだ。


 『行こう。何時がいい?』


 『2時に駅前どう?』


 『わかった。行く』


---


 午後2時、駅前のロータリーで待ち合わせた。


 キョンはコートを着て、マフラーを巻いていた。セカンドバッグを持っていた。普段と少し違う格好だった。


 「クリスマスっぽくないね、私たち」とキョンが言った。


 「生地を買いに行くんだからそれでいいだろ」


 「そうだけど、なんか」


 「なんか?」


 「クリスマスに呼んどいて、生地屋に連れていくのって、変かなって今更思って」


 「変じゃない。俺もそっちの方が楽しい」


 「本当に?」


 「本当に。ケーキを食べながら混んだレストランにいるより、よっぽどいい」


 キョンが少しほっとした顔をした。「よかった」と言った。


 ショッピングモールに向かって歩きながら、俺は内心で少し笑っていた。


 「ケーキを食べながら混んだレストラン」を回避したかったのは俺も同じだった。クリスマスの繁華街は、38歳にはしんどい。若い頃はああいう雰囲気が好きだったが、今は静かな場所の方が落ち着く。


 キョンとの価値観が一致しているのか、俺が歳を取りすぎているのか、どちらかは判断しかねた。


---


 ショッピングモールの中の手芸コーナーに入ったとき、キョンの顔が変わった。


 生地が並んでいる棚の前に立った瞬間、さっきまでの「少し遠慮がちな感じ」が消えた。棚を順番に見ていって、手を伸ばして触れて、素材を確認して、また次を見た。完全に自分のペースだった。


 俺はその少し後ろに立って、見ていた。


 「これ、ウールのツイードかな」とキョンが言った。独り言に近い声だった。


 「違いがわからん、俺には」


 「ウールは羊の毛で、ツイードはスコットランド発祥の織り方。この感触がたまらないんだよね、粗くて温かくて」


 「コートに使えるのか」


 「使える。ただ、ちゃんと縫おうとしたらかなり技術が必要で」


 「来月のオープンキャンパスで挑戦できるか聞いてみればいい」


 「そうだね」


 キョンが布を手に持ったまま、少し考えた。


 「リュウって、服に興味ある?」


 「そんなにないけど、キョンが好きなものだから聞いてる」


 「え」


 「え、じゃない。普通のことだろ」


 キョンが少しだけ俺を見た。なんとも形容しがたい顔をしていた。驚いているのか、照れているのか、どちらでもあるような顔だった。


 「そういうこと、あっさり言うよね」


 「本当のことだから」


 「……なんか、ずるい」


 「ずるいのか」


 「うん。なんか、こっちが困る言い方をする」


 「困らせるつもりはない」


 「わかってる。でも困る」


 なんだそれ、と思いながら、俺は少し嬉しかった。困らせているということは、意識している証拠だ。38歳の読解力はそう言っていた。


 「気に入った生地はあったか?」


 「これと、もう1種類。購入するか迷ってる、量が多いから」


 「どちらを先に使う予定だ?」


 「こっちかな。コートを作るのにちょうどいいと思って」


 「じゃあこっちだけ買えばいい。次にまた来れるんだから」


 「そうか。そうだね」


 キョンが少し笑った。「決断が早いな、リュウって」と言った。


 「迷うのが苦手だ」


 「嘘くさい、なんか」


 「どういう意味だ」


 「いや、なんか、ちゃんと考えてから言ってる感じがするから、決断が早いって感じじゃないような。何を大事にするかが決まってて、そこから逆算してるみたいな」


 「観察眼がありすぎるな、お前は」


 「そうかな」


 「そうだよ。そういうところが怖い」


 「怖い?」


 「全部わかられそうで」


 キョンが「全部はわからない」と言った。「でも」と続けた。


 「見ようとはしてる」


 俺は少し黙った。


 「……それ、どういう意味だ」


 「そのまんまの意味」


 キョンが生地を棚に戻して、購入する分を手に取った。涼しい顔をしていた。こういうところがたまに反則だと思う。


---


 手芸コーナーを出て、フードコートでコーヒーとジュースを買った。


 クリスマスのモールは混んでいたが、フードコートの隅のテーブルは空いていた。向かいに座って、カップを持った。


 「楽しかった」とキョンが言った。


 「生地を見るのが?」


 「それも。でも今日全体が、なんか楽しかった。クリスマスに生地屋に行くって、変な組み合わせだけど、それがよかったというか」


 「変じゃないよ」


 「変だよ。普通はケーキ食べたりするじゃない」


 「キョンが好きなものを見に来たんだから、それが一番いい」


 「また言う」


 「何を」


 「こっちが困ることを、あっさり」


 「本当のことを言っているだけだ」


 キョンがコーヒーのカップを両手で包んだ。少し下を向いた。


 「ねえ、リュウ」


 「ん」


 「一個だけ聞いていいかな」


 「どうぞ」


 「さっき、私が好きなものだから聞いてるって言ったじゃない」


 「言った」


 「それって、どういう意味で好きなの」


 俺は少し考えた。


 「どういう意味でって?」


 「友達として好き、なの?」


 直球だった。16歳のキョンが、こういう聞き方をするのは珍しかった。踏み込んでくるタイプではなかったはずだ。でも今日は来た。


 正直に言おうか、迷った。


 でも今はまだ早い。積み上げが2ヶ月足らずだ。焦るな、と自分に言い聞かせた。


 「今は、それ以上のことは言えない」


 「今は?」


 「まだタイミングじゃないから」


 「タイミングって、私のセリフじゃん」


 「そうだな。MDのアーティスト名と同じで、タイミングが来たら言う」


 キョンが少し俺を見た。何かを考えている目だった。


 「……そっか」


 「ごめん、曖昧な答えで」


 「謝らなくていい。なんか、わかった気がした」


 「何が」


 「タイミングを待てる人なんだな、リュウって。あと、私のことをちゃんと見てる人だって」


 「そうだよ」


 「それだけで、今は十分」


 キョンがカップを持ち上げて、コーヒーを飲んだ。


 外はもう暗くなっていた。モールのクリスマスツリーが光っていた。


 2005年12月25日、やり直しの高校2年目のクリスマスは、生地屋とフードコートで過ぎた。


 悪くなかった。むしろ、かなり良かった。


---


*(第12話へつづく)*

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