第7話「MDの中身と、キョンの笑い方」
翌週の月曜日、朝のホームでキョンと合流したとき、空気が少し変わっていた。
変わった、というのは悪い方向ではない。なんというか、土曜日の前と後で、俺たちの間に薄い膜が一枚剥けたような感じだった。
「おはよう」
「おはよう。寒くなったな」
「うん。今日から12月だし」
「もうそんな時期か」
こういう他愛ない会話が、以前より少しだけ自然になった。気のせいかもしれないが、気のせいでもないと思う。ファミレスで3時間話したことの積み重ねが、月曜日の朝の挨拶の重さを変えていた。
電車が来て乗り込んだ。
今日もキョンが右のイヤホンを差し出してきた。受け取って耳に当てると、また同じ曲が流れた。先週ずっと聴いていたやつだ。
「まだ同じMD?」
「まだ好き」
「飽きないな」
「飽きたら変える。でもまだ飽きてない」
「アーティスト名、今日こそ教えてくれないか」
「今日もまだ」
「基準を教えてくれ。何を待ってるんだ」
「タイミング」
「タイミングって何だよ」
「うまく言えない。でも、そのタイミングが来たらわかると思う」
キョンが窓の外を見ながら言った。電車が加速して、住宅街が流れていった。イヤホンのコードが2人の間に垂れていた。
38歳の俺には、このやり取りがわかった気がした。
キョンは「教えたくない」のではなく、「このことで繋がっていたい」のだと思う。アーティスト名を教えてしまえば、このやり取りが終わる。だから引っ張っている。本人が意識してそうしているかどうかはわからない。でも結果として、毎朝の40分に「まだ教えない」という会話が生まれていた。
それはそれで、悪くなかった。
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3時間目の授業が終わった休み時間、生徒会室に寄った。
来年度の予算案の草稿を作るためだった。会計の仕事は地味だが、これをちゃんとやっておかないと年度末にしわ寄せが来る。38歳の経験上、後で困らないために今やれることをやる習慣は、どの仕事でも役に立つ。
書類を広げていると、扉が開いた。
ミナミだった。
「あ、リュウくんいた。キョン来てもいい?」
「どうぞ」
「ありがとう。ねえ、リュウくんって土曜日キョンと映画行ったんだって?」
「行った」
「2人で?」
「2人で」
「えー!」
ミナミが嬉しそうな声を上げた。廊下に向かって「キョン! やっぱ2人で行ったって!」と叫んだ。廊下からサナの「えーほんとに!?」という声がした。
数秒後、キョンとサナとリサが入ってきた。
キョンは俺を見て、少し眉を動かした。
「ミナミに言ったの、お前」
「言ってない。ミナミが聞いてきた」
「どこから情報が」
「サナが見た」とリサが静かに言った。「土曜日、駅前で2人でいるのを」
サナが「ごめんね、つい話しちゃった」と言いながら全然反省していない顔で笑った。
ミナミが「どうだった、どうだった?」と詰め寄ってきた。キョンにではなく、なぜか俺に向かって。
「普通に映画を観て、飯を食べた」
「普通じゃないでしょ!」
「どこが」
「リュウくんがキョンを誘ったんでしょ? 今まで一度もなかったじゃない、2人で約束して出かけるの」
「そうだっけ」
「そうだよ!」
ミナミは熱量が高かった。こういう人間だった。世話焼きで、人の恋愛を自分のことのように喜ぶ。キョンの友達の中で一番、キョンの恋愛事情を気にかけている。
「楽しかったのは事実だ」と俺は言った。
ミナミが「キョンは?」とキョンに振った。
キョンが少し黙った。
「楽しかった」
「もっと詳しく!」
「それ以上は言わない」
「えー」
「ミナミがうるさいから言いたくなくなった」
「ひどい!」
サナが笑った。リサが「ミナミが悪い」と言った。ミナミが「私は何も悪くない」と言った。
俺は書類に目を戻した。でも口の端が少し上がっていた。
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昼休み。
いつもの4人で中庭のベンチに座った。
ユースケが購買のパンをかじりながら「英語、昨日から始めた」と言った。
「早いな」
「リュウに言われてから気になって、参考書買った。まず単語から始めた」
「単語は毎日コツコツが一番効く。量より習慣だ」
「わかった。ところでリュウ、英語の勉強ってどのくらいの量をどのペースでやればいい? 宇宙系の研究に特化するなら、何を重点的にやった方がいい?」
「読解と、あとリスニング。宇宙関係の論文は英語で書かれてるものがほとんどで、学会発表も英語がベースだから、まず読んで聞けるようにする。書いて話すのは、その先」
「なんで知ってんの、そんなに詳しく」
「調べたって言ってるだろ」
「何回調べてるんだよ」
バータが「なんか最近のリュウ、異様に物知りだよな」と言った。「進路のこと、勉強のこと、なんでも知ってる」
「たまたまだよ」
「たまたまで覚えられる量じゃない気がするけど」
フミがこちらをじっと見た。何も言わなかった。ただ見た。
フミの目は怖い。何も言わないのに、全部わかってますよ、という目をする。
「英語、週2で放課後に付き合う。火曜と木曜はどうだ」と話を変えた。
「ちょうどいい。部活が月水金だから」
「じゃあ決まり。最初は俺が教えるから、慣れてきたら自分でペースを作れ」
「了解。ありがとな、リュウ」
「礼はいらない。お前が宇宙に行くのを見たいだけだ」
ユースケが「なんそれ」と笑った。バータも笑った。フミは笑わなかったが、口の端が少し動いた。
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放課後、火曜日ではなかったが、ユースケと少し話した。
英語の参考書を見せてもらって、今のレベルを確認した。高校2年の標準的なレベルだった。悪くはないが、研究に使える英語にするには2年間かけて相当上げる必要がある。やれないことはないが、コンスタントに続けることが条件だ。
「体のことも話していいか」
「急に何」
「理系の院まで行くとなると、体を壊すやつが一定数いる。睡眠削って、食事を適当にして、ストレスが重なって、気づいたら取り返しのつかないことになる。今から習慣を作っといた方がいい」
「お前、なんか心配性だな」
「心配性じゃなくて、現実的なだけだ」
「……ありがとな。まあ、気をつける」
「気をつけますじゃなくて、具体的に決める。毎日何時に寝る、食事は何を最低限取る、それくらいは決めといた方がいい」
「わかった。今夜決める」
「決めたら教えてくれ。一緒に確認する」
ユースケが「なんか、お母さんみたいだな、お前」と言った。
「悪かったな」
「悪い意味じゃないよ。頼もしい、って意味で言った」
ユースケが笑った。目が細くなる笑い方だった。
この顔を、38歳の記憶の中で見たことがない。地方で体を壊してから、ユースケは笑い方が変わっていた気がする。今のこの顔は、夢を持ったままの顔だ。
大事にしたい、と思った。
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夕方、帰り道。
今日は6人全員そろっていた。キョン、ミナミ、サナ、リサと、俺とユースケが合流した。バータとフミは先に帰っていた。
駅まで10分歩いて、改札を通って、ホームに上がった。
電車を待っていると、サナが「ねえ、みんなでカラオケ行かない? 今週末」と言った。
ミナミが「行く行く」と言った。
「リュウくんも来てよ」とミナミが俺に言った。
「ユースケたちも一緒でいい?」
「もちろん!」
「じゃあ声かけておく」
「キョンは?」とサナがキョンに聞いた。
「行く」
「よし! 土曜日ね」
電車が来た。乗り込んだ。いつもの各駅停車だ。今日は人が多くて、席には座れなかった。6人でドア付近に固まった。
揺れながら走る電車の中で、ミナミがサナに何か耳打ちしているのが見えた。サナが「えー」という顔をして、俺の方を見た。視線が合って、サナが笑った。
なんの話をしているか、だいたい想像がついたが、考えないことにした。
キョンは窓の方を向いて立っていた。MDプレーヤーを取り出していなかった。今日は人が多いから出しにくかったのかもしれない。
電車がキョンの最寄り駅に近づいた。
速度が落ちる。ドアが開く寸前、キョンが俺の方を向いた。
「土曜、カラオケ」
「行くよ」
「ユースケたちと一緒に来るの?」
「誘う。フミは来ないかもしれないけど」
「そっか」
ドアが開いた。キョンが降りた。残った人たちで少し位置を移動した。
ミナミが俺に向かって、こっそり親指を立てた。
やめてくれ、と思いながら、少し笑った。
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その夜、布団の中でガラケーを開いた。
キョンからメールが来ていた。さっき別れてから1時間も経っていない。
『今日の電車、なんかいつもと違った』
俺は少し考えてから返した。
『人が多かったからか?』
『それもあるけど、なんか違う。うまく言えないけど』
『いい方の違い方か、悪い方か』
少し間があった。
『いい方』
『それならいい』
また間があった。今度は少し長かった。
『リュウって、MDの音楽聴くのに耳を貸してくれるじゃない』
唐突だった。
『そうだな』
『あれ、嫌じゃない?』
『全然嫌じゃない。なんで急に』
『なんとなく確認したくて。私が一方的に渡してるだけだから、もしかして迷惑かなって』
迷惑なわけがなかった。むしろ毎朝の楽しみになっていた。でもそれを正直に言うのは、今の段階では少し前のめりすぎる。
『迷惑じゃない。あの時間が、毎朝の調子を決めてる気がしてる』
これは嘘じゃなかった。本当にそう感じていた。
また間があった。
『そっか。よかった』
それだけだった。
でも、「よかった」という言葉が、今日のキョンのどの言葉よりも少し温かかった。
ガラケーを閉じた。
布団の中で、天井を見た。
2005年12月の、やり直し5週目の夜だった。
毎朝の40分に積み重ねがある。土曜日のカラオケがある。アーティスト名はまだ教えてもらっていない。でも「よかった」という言葉がある。
それだけで、今夜は十分だった。
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*(第8話へつづく)*




