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第6話「2人で、初めて」



 木曜日の夜、キョンにメールを送った。


 送る前に5分くらい画面を見ていた。ガラケーの小さいキーボードで文字を打って、消して、また打った。


 『今週末、暇だったりする?』


 送信した瞬間、少し後悔した。唐突すぎるかもしれない。距離感を間違えたかもしれない。でも送ってしまったものは消せない。これがガラケーの時代の残酷なところで、既読機能もなければ取り消し機能もない。送ったら送りっぱなし、返信が来るまで結果がわからない。


 ガラケーを閉じた。


 開いた。


 また閉じた。


 返信が来たのは35分後だった。


 『暇だよ。なんで?』


 なんで、か。ごもっともだった。俺とキョンはこれまで、2人きりで約束して出かけたことが一度もなかった。クラスの打ち上げで同じ席になったことはある。帰りの電車で偶然一緒になったことは毎日ある。でも「2人でどこかに行こう」という約束を、俺はキョンと一度もしたことがなかった。


 元の告白がいかに無謀だったか、改めて突きつけられる。


 積み上げが何もないところから「好きだ」と言っても、相手は困るだけだ。


 『映画でも行かないかと思って』と送った。


 今度は20分後に来た。


 『映画か〜。リュウと2人で?』


 確認してきた。「2人で」という部分を、わざわざ言葉にして確認してきた。意識している証拠か、単純に意外だったのか、キョンのことだから両方ある気がした。


 『そう。もちろん嫌なら別にいいけど』


 退路を作った。押しつけがましくなりたくなかった。


 10分後。


 『いいよ。何観るの?』


 断られなかった。


 38歳が高校生の体でガラケーを握りしめながら、一人の部屋で「よし」と呟いた。情けないとわかっているが、よしと言わずにいられなかった。


---


 土曜日の午後1時、駅前のロータリーで待ち合わせた。


 キョンは俺より3分早く来ていた。黒いコートを着て、鞄を肩にかけて、ロータリーの端に立っていた。制服ではない私服のキョンを見たのは、クラスの打ち上げ以来だった。


 学校以外の格好をしたキョンというのは、なんというか、少し違って見えた。


 悪い意味ではまったくない。ただ違った。落ち着いた色のコートで、派手なところが何もない格好だったが、そういう選び方がキョンらしかった。


 「待ったか?」


 「3分くらい」


 「すまない」


 「謝らなくていい。リュウが来るの見えてたから」


 「そうか」


 「うん」


 少し間があった。2人とも少し緊張していたと思う。俺は38歳の記憶があるが、それでも緊張する。キョンとの最初の2人きりの外出だ。緊張しない方がどうかしている。


 「映画館、こっち側だったっけ」


 「あっちじゃない?」


 「あ、そうか」


 方向を確認してから、並んで歩き出した。最初の5分くらいはお互いあまり話さなかった。


---


 映画はキョンが「気になってた」と言っていたアニメ映画にした。


 前日に「何観たい?」とメールで聞いたら、「なんでもいいよ」と返ってきた。「なんでもいい」は困る、とこれも38年で学んだことのひとつなので、「じゃあこれはどう?」と候補を3つ送ったら、そのうちの1つに「これちょっと気になってた」と返信が来た。


 迷わずそれにした。


 2時間の映画だった。暗い中で並んで座った。隣からかすかにキョンの気配がした。腕が触れない程度に近い距離だった。スクリーンを見ているつもりで、視界の端にキョンの横顔があった。見ないようにしていた。見ないようにしながら、ちゃんと映画も観た。器用なものだと我ながら思った。


 映画が終わって、外に出た。


 「どうだった?」と俺は聞いた。


 「よかった。最後の展開は思ってたのと違ったけど」


 「違った、というのは予想を外れたのか、期待を外れたのか」


 「予想を外れた。期待は外れてない」


 「じゃあいい方の違い方だったんだな」


 「うん、そう」


 キョンが少し顔を上げた。外の光の中で、映画館の中よりはっきり顔が見えた。


 「リュウって、映画の話ちゃんとできるんだね」


 「そうか? 普通のことだと思うけど」


 「男子って、感想を聞いても『よかった』か『微妙だった』くらいしか言わない人多いから」


 「そういう人間だと思われてたか、俺」


 「思ってなかったけど、確認できてよかった」


 キョンが少し笑った。


 俺は内心でガッツポーズした。38歳の記憶上、男子が映画の話でキョンと会話を続けられたことがほとんどなかったのを知っていた。だから「映画の感想を話せる男」というだけで少し差がつく。姑息かもしれないが、これが未来を知っている優位性というやつだ。


 「ご飯食べてく?」と俺が言った。


 「うん。あそこのファミレスでいい?」


 「いいよ」


---


 カウンター席に並んで座った。


 ドリンクバーを頼んで、メニューを眺めた。キョンはオレンジジュースを取ってきて、俺はコーヒーにした。


 「学校以外でリュウとご飯食べたの、初めてだな」とキョンが言った。


 「そうだな。打ち上げ以外では初めてだ」


 「なんか、新鮮」


 「いい意味で?」


 「うん。リュウって学校だとわりと忙しそうにしてるから、こういうふうにゆっくり話したことなかった」


 「俺も同じこと思ってる」


 「そうなの?」


 「学校だと生徒会の仕事とか授業とかで、ちゃんと話せてないなと思ってた」


 「へえ」


 キョンがオレンジジュースのストローを回しながら、少し考えるような顔をした。


 「リュウって、なんで生徒会入ったの?」


 「1年のときに流れで。でも今は、会長もやってみようかと思ってる」


 「え、会長やるの? やらないって聞いてたけど」


 「気が変わった」


 「なんで」


 「やりたいことができたから、附属の推薦を使えるようにしようと思って」


 「やりたいこと、って?」


 「経済を勉強したい。ちゃんと学んで、将来に活かしたい」


 キョンがこちらを見た。


 「急に具体的だね」


 「最近いろいろ考えることがあって」


 「ふーん」


 「キョンは? この前少し話してたけど、服飾の専門学校のこと、調べてみたか?」


 「ちょっとだけ」とキョンが言った。「都内にいくつかあって、オープンキャンパスもあるみたいで」


 「行ってみたいか?」


 「行ってみたい、かも。でもまだ親に言えてないから」


 「オープンキャンパス行くだけなら、まだ親に言わなくていいと思う。まず自分が何を学べるかを見てきてから、それから話し合えばいい」


 「そうか。そういう順番にするか」


 「一緒に行こうか、もし行くなら」


 キョンが少し目を丸くした。


 「え、いいの?」


 「暇なら行く。全然」


 「暇ってことはないでしょ、生徒会あるのに」


 「キョンの都合に合わせる」


 「……なんで」


 「行ってみたいと思ってるのに、1人だと腰が重いんだろ。そういうときは誰かと行った方がいい。それだけだ」


 キョンはしばらく俺を見ていた。


 何か言おうとして、言葉を探している顔だった。


 「リュウって」


 「ん」


 「前からこんな感じだったっけ」


 「どんな感じ?」


 「なんか、気が利く感じ。電車で一緒に帰ってるのに、こういう話をしたこと、あんまりなかった気がして」


 それは本当のことだった。元の俺はキョンの隣で40分過ごしながら、ろくに話しかけていなかった。MDのイヤホンを共有して、ただ並んでいただけだった。


 「俺も変わろうとしてる」


 「変わろうとしてる?」


 「なんとなく、このままじゃだめだと思って」


 嘘はついていない。38歳の記憶から言えば、このままは本当にだめだった。


 「そっか」とキョンが言った。


 また少し間があった。今度の間は、最初のぎこちない間とは質が違った。悪くない間だった。


 「リュウって、今好きな人いる?」


 突然だった。


 「なんで急に」


 「なんとなく。なんか今日、そういうふうに見えたから」


 「そういうふうに?」


 「ちゃんとしてる感じがするから。誰かを意識してるときって、人ってちょっとちゃんとする気がして」


 38歳の分析力を引っ張り出して考えると、これはかなり鋭い観察だった。実際その通りだ。俺は今日、キョンを意識してちゃんとしていた。


 「……いる」


 「そっか」


 「そっか、だけか」


 「誰か聞いてほしかった?」


 「聞いてくれてもよかった」


 「誰?」


 俺は少し考えた。


 「今は言わない」


 「なんで」


 「タイミングじゃないから」


 キョンが「ふーん」と言って、オレンジジュースを飲んだ。


 追及しなかった。それがキョンらしかった。踏み込みすぎない。でも無関心でもない。


 「キョンは?」


 「え?」


 「好きな人、いる?」


 キョンが少し黙った。


 「わからない」


 「わからない?」


 「誰かを好きになる、っていうのが、よくわからなくて。なんか、みんなが言うみたいな感覚になったことが、あんまりなくて」


 さらっと言った。でも俺には重かった。


 2026年のSNSで知ったキョンの「性別:Xジェンダー(ノンバイナリー)」という一行が、今のこの言葉と繋がった。


 キョンが「好きになる感覚がわからない」のは、怠けているからでも、鈍感だからでもない。恋愛の感情の入り口が、みんなと少し違う場所にある可能性がある。


 今の俺にわかっているのは、それだけだ。


 「そういうものかもしれないな」と俺は言った。


 「変じゃない?」


 「変じゃない。みんなが同じ感覚を持ってるわけじゃないし」


 「……そっか」


 キョンが少し息を吐いた。緊張が抜けたような、安心したような吐き方だった。


 「なんかリュウって、こういうとき否定しないよね」


 「否定することじゃないから」


 「そういうとこが、なんか、好き」


 キョンがさらっと言った。


 俺の心臓が一拍余計に跳ねた。


 「どういう意味の好きだ」


 「友達として」


 「そっか」


 「それ以外の意味だったら困る?」


 「困らない」


 「そっか」


 キョンがまた笑った。からかっているのか、本気なのか、判断しにくい顔だった。これがキョンだ、と思った。こういう人間だった。


 2人でファミレスにいた時間は、気づいたら3時間になっていた。


---


 帰り道、改札の前で分かれた。


 「また映画行こうね」とキョンが言った。


 「次はキョンが選んでいい」


 「じゃあ選ぶ」


 「ちゃんと連絡してくれ」


 「するよ」


 キョンが改札を通った。振り返らなかったが、歩く速度がいつもより少し早かった気がした。


 俺は改札前でしばらく立っていた。


 今日のことを頭の中で整理した。映画、ファミレス、キョンの「誰かを好きになる感覚がよくわからない」という言葉、「そういうとこが好き」という言葉、3時間。


 悪くなかった。


 というか、かなり良かった。


 元の俺は、この段階がまるごと抜けていた。1度も2人で出かけずに告白した。そりゃだめだった。


 今回はちゃんとやっている。


 もう少し積み上げる。もう少し、キョンを知る。キョンが俺を知る。そういう時間を作る。


 急かすな。38年で学んだ一番大事なことを、ここで忘れるな。


 俺は改札を通って、ホームに降りた。


 2005年11月、やり直しの第一週が終わった。


---


*(第7話へつづく)*

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