第5話「フミのこと、少しだけ」
月曜日。
朝のホームに着いたとき、すでにキョンがいた。
改札を抜けて階段を上ると、ホームの真ん中あたりに黒いショートヘアが見えた。紺のブレザーに白いマフラーを巻いて、鞄を肩にかけて、ぼんやり線路の方を見ていた。
俺の足が少し速くなった。自分で気づいて、意識して戻した。
38歳の自慢できない部分のひとつとして、好きな人の前で早足になるという癖がある。情けないとわかっていても、足が言うことを聞かない。
「おはよう」
俺が言うと、キョンが振り返った。
「おはよう」
「早いな」
「うん。なんか目が覚めちゃって」
それだけだった。並んで電車を待った。11月の朝は冷えて、息が少し白かった。キョンが鞄の中をごそごそして、MDプレーヤーを取り出した。白いやつだ。金曜日と同じやつ。
右のイヤホンが、差し出された。
俺は受け取った。耳に当てた。金曜日と同じ曲が流れてきた。
「まだ同じMD?」
「うん。まだ飽きてない」
「アーティスト名、教えてくれないか」
「まだ」
「まだって、いつ教えてくれるんだ」
「気が向いたら」
「気が向く基準は?」
「ない」
キョンがすこし笑った。「ない」って言いながら笑うのは、この話題が嫌いじゃないということだ。38歳の読解力で言えば、これは「引っ張りたい」という意思表示に近い。
電車が来た。乗り込んだ。席には座らず、ドア際で並んで立った。イヤホンのコードが2人の間に垂れている。これが毎朝の光景だった。
40分が始まった。
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昼休み。
購買のパンを買って、中庭のベンチに4人で座った。いつものメンバーだ。ユースケ、フミ、バータ、俺。
ユースケが早速「英語の話、本気で考えてきたぞ」と言った。
「本当か」
「本当。土日ちょっと調べた。宇宙系の研究職って、英語論文読み書きするだけじゃなくて、国際学会でプレゼンもしなきゃいけないんだな。知らなかった」
「そうだよ。だから読み書きだけじゃなくて、スピーキングも含めて早めに鍛えた方がいい」
「お前、本当に詳しいな。なんで知ってんの」
「前に読んだ記事で」
「どんな記事だよ」
「進路関係のやつ」
フミが弁当を食べながら、こちらをちらりと見た。何も言わなかったが、聞いていることはわかった。
「リュウが教えてくれるなら、やってみる」とユースケが言った。「放課後、週2くらいで付き合ってもらえる?」
「構わない。ただ、俺も生徒会の仕事があるから、日程は都度合わせよう」
「了解。バータはどうする、一緒にやるか?」
「俺は数学に力入れたいから、英語はパスする」とバータが言った。「外部受験するなら数学でひっくり返したい」
「どこ受けるか決まってきたか?」
「まだ。でも経営か商学部方向で考えてる。なんか会社とか起業とかに興味があって」
「起業か」と俺は言った。
「笑う?」
「笑わない。面白いと思う」
「高校生が言うことじゃないかもと思ってたけど」
「全然。具体的に何をやりたいかは決まってなくても、その方向に進む価値はある。経営や商学は潰しも利くし、何より自分の興味があるところで学んだ方が伸びる」
バータが「なんかお前の言葉って妙に重みがあるな」と言った。「親父みたい」
「親父より少し年上だよ」
「え?」
「なんでもない」
フミがまたこちらを見た。今度は少し長く。
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放課後、生徒会の仕事を片付けてから、廊下でフミに呼び止められた。
「ちょっといい?」
「どうした」
「話があって」
2人で空き教室に入った。フミが窓際に立って、外を見た。校庭で野球部が練習している。打球の音がした。
「リュウ、最近変じゃない?」
「変?」
「ユースケへの話とか、バータへの話とか。なんか、知りすぎてる感じがして」
「調べたことが色々あって」
「それだけじゃない気がする」
フミはこういう人間だ。証拠も理屈もなく、感覚で人の変化を言い当てる。16歳のときから、こういうところがあった。
俺は少し考えた。
全部は話せない。でも何かは言えるかもしれない。
「……フミは、将来何がしたい?」
話を変えた。でも意図がある。
「急に何」
「なんとなく聞きたくて」
フミは窓の外を見たまま、少し黙った。野球部の声がした。
「弁護士、かな」
「かな、って曖昧だな」
「なりたい、に変える。なりたい。小さい頃からそう思ってた」
「法学部に行くつもりか」
「行きたい。でも」
「バイトのこと?」
フミがこちらを向いた。少し驚いた顔だった。
「なんで知ってる」
「週3、4でバイト入ってるの、前から気づいてた」
「……そっか」
「家のこと、聞いてもいいか」
フミは少し間を置いた。外の打球の音が、また響いた。
「別に隠してるわけじゃない。うちは父親がいないから、母親が一人で働いてて、それで俺も少し入れてる。特別しんどいとかじゃないけど、勉強に全振りとはいかない」
「そうか」
「リュウに話すつもりなかったけど、なぜか話してた」
「聞きたかったから聞いた」
「そういう聞き方をされると、断りにくい」
フミが少し眉を動かした。不満なのか、照れているのか、判断しにくい顔だった。
「奨学金、ちゃんと調べたか?」と俺は言った。
「給付型のやつは倍率高いし」
「返済不要のやつ、いくつか種類がある。成績基準が高いものもあれば、家庭状況で選考するものもある。今の成績なら通るやつが複数あると思う」
「なんで知ってる」
「調べたことがある」
「またその答えかよ」
「本当のことだよ」
フミはしばらく俺を見ていた。読めない目だった。
「リュウ」
「ん」
「お前、本当に同い年か」
「何が言いたいんだ」
「わからない。でも、なんか、目が違う。16歳の奴の目じゃない」
俺は答えなかった。
フミは「まあいい」と言って窓に向き直った。
「奨学金の話、もう少し聞かせてくれるか」
「今日は時間があるか?」
「バイトまで2時間ある」
「じゃあ図書室で調べよう。俺が知ってる範囲で話せることを話す。フミが自分で申請するための情報を整理する。それだけだ」
「……ありがとう」
フミが静かに言った。
フミが「ありがとう」と言うのは珍しかった。本当に思ったときしか言わない。だから重かった。
「礼はいらない。行くぞ」
図書室まで2人で歩きながら、俺は廊下の窓から外を見た。
夕焼けが始まっていた。オレンジ色の光が校舎の壁を染めていた。
フミが弁護士になれるように。そのために今日できることを、ひとつやった。それだけでいい。全部を一気に変えようとしなくていい。今日ひとつ、明日ひとつ。
それが積み重なれば、いつか変わる。
38年かけて学んだことの中で、これが一番確かなことだった。
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図書室で1時間ほど調べた。
給付型奨学金の種類、申請時期、成績基準、家庭状況の条件。フミは最初黙って聞いていたが、途中から自分でもメモを取り始めた。
「これ、来年度の申請に間に合う?」
「春に申請するやつは、3月頃から動けばいい。成績の証明書が必要だから、今学期の成績は大事だぞ」
「わかった」
「バイトを全部やめろとは言わない。でも、週2に減らせれば、勉強時間が月に20時間以上変わる。その差は大きい」
「週2か……」
「無理ならもう少し落としてもいい。奨学金が通れば、減らせる可能性が上がる」
フミがメモを見ながら、少し考えていた。
「リュウ、一個だけ聞いていいか」
「なんだ」
「なんでそんなに俺のことを気にするんだ。昨日まで、こういう話をしたことなかっただろ」
俺はしばらく黙った。
「……お前には弁護士になってほしいから」
「なんで」
「向いてると思うから。人の変化に気づいて、感情に流されず、本質を見るのが得意な奴が、法律を武器にしたら強い」
フミが俺を見た。
「それ、褒めてる?」
「そのつもりで言った」
「……変なやつだな、お前」
「よく言われる」
フミが小さく笑った。声は出なかったが、口の端が上がった。フミが笑うのは珍しかった。ちゃんと見られて、少し得した気がした。
図書室を出ると、フミはバイトに向かった。
俺は駅まで歩きながら、もう一度ノートの中身を頭の中で確認した。
ユースケ、英語を始める気になった。フミ、奨学金を調べ始めた。バータ、起業への興味を口にした。
3日で3人、全員に少し動いてもらえた。
悪くないペースだった。
ただ、キョンとはまだ何も積み上げられていない。
今朝の40分と、生徒会室での短い会話だけだ。
急ぐな、と自分に言い聞かせた。
急いで告白したから、あの夜のホームの「ごめん」がある。今回は違う。時間をかける。キョンが自分の感情に気づくよりもっとゆっくり、でも確実に近づいていく。
それがやり直しの、唯一のルールだった。
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*(第6話へつづく)*




