第3話「生徒会室の、南向きの窓」
翌朝。
目が覚めたとき、最初に確認したのはガラケーだった。
**2005年11月4日、金曜日、午前7時02分。**
2日目だった。夢じゃなかった。頬を抓らなくても今日はわかった。この部屋の匂いも、母さんの声も、全部昨日の続きだ。俺は本当に16歳に戻っている。
布団の中で天井を見ながら、少し笑った。
笑ってどうする、という話だが、笑わないでいられなかった。38年間で一番奇妙な朝だった。
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朝食を食べながら、母さんの話を聞いた。
天気予報のこと、近所のスーパーの特売のこと、龍のシャツに穴が開いていること。どれもたいした話ではなかった。でも俺は全部、ちゃんと聞いた。相槌も打った。施設に入る前の母さんは、こういう話をいつもしていたんだ、と今更思い出した。
「なんか今日、おとなしいね」と母さんが言った。
「そうか?」
「うん。学園祭終わって疲れてるの?」
「まあ、そんなとこ」
「無理しないでね」
母さんはそれだけ言って、流しで食器を洗い始めた。俺はその後ろ姿を少しだけ見ていた。
やり直しの2日目が、静かに始まった。
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学校に着いて、生徒会室に寄った。
俺は1年生の春から生徒会に入っている。高校1年の4月、特に理由もなく入部届を出した。流れで副会長になって、「来年は会長だな」とみんなに言われていた。でも元の俺は結局会長にならなかった。受験したかったから、という理由で断った。
今回は違う。
今回は会長になる。附属の国立大への推薦があって、経済学部に行けて、関東を離れなくて済む。そのためなら会長職くらい引き受ける。というか引き受けたい。もう地方になんか行きたくない。
生徒会室は南向きで、日当たりがいい。
午後になると西日が差し込んで、白いホワイトボードが橙色に染まる。黒板消しの粉が光の中を漂って、古い木の匂いがする。窓際の棚には歴代の生徒会誌が並んでいる。こじんまりした部屋だが、居心地は悪くなかった。
午前中の授業の合間に少し寄ると、3年の先輩が「お、リュウ。昨日の会計まとめてくれた?」と言った。
「今日中にやります」
「助かる。お前、来年会長やれよ。絶対向いてる」
「……考えます」
今回は本当に考えている。というかもう決めている。でも今日言う必要はない。
先輩が出ていったあと、俺は窓際に立って外を見た。校庭で体育の授業をやっている。昨日まで学園祭の屋台が並んでいた場所に、今日はもう何もない。
ここで1年半、やり直す。
たった1年半で、変えられることには限界がある。でも何もしないよりは、絶対にいい。38歳のときの記憶と経験を全部使って、できることを全部やる。
そう思ったとき、ドアが開いた。
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「お邪魔しまーす」
ミナミだった。
ミナミの後ろから、サナとリサが続いて入ってきた。そしてその後ろに、キョンがいた。
「あれ、リュウくんいるじゃん」とミナミが言った。「ちょうどよかった。暖房入れてもいいですか、先輩」
「どうぞ」
「やった。リサ、コンセント入れて」
ミナミが当然のように部屋の奥に進んで、サナが窓際の椅子を引いた。リサが無言でストーブのスイッチを入れた。キョンは入口で少し立ち止まって、俺を見た。
「邪魔じゃなかった?」
「全然」
「そっか」
キョンは窓際の棚の前まで歩いて、生徒会誌を1冊抜き取った。パラパラとめくって、立ったまま読み始めた。
俺はその横顔を、さりげなく、でもしっかり見た。
昨日の電車の中でもそうだったが、38歳の目でキョンを見ると、何か違った。高校時代の俺は「キョンは特別な友達だ」と思っていた。でもそれが何なのかを、ちゃんと考えたことがなかった。
今の俺には、わかる。
好きだった。ずっと好きだった。それだけのことだ。
ただ、今はまだ何も言わない。昨日の夜に決めたことだ。今の俺たちには積み上げが何もない。2人で遊んだことも、ちゃんとした会話も、ろくにしたことがない。そこから始めなければ何も変わらない。
「リュウって、会計の仕事してるの?」
サナが俺に話しかけてきた。窓際の椅子に座って、こちらを見ていた。
「そう。今年の文化祭の精算と、来月の予算案」
「えー、大変そう。でもリュウって生徒会っぽいよね。なんか頼りになる感じ」
「そうか?」
「うん。しっかりしてるっていうか。ねえミナミ、そう思わない?」
「思う思う」とミナミが言った。「リュウくんって、なんか落ち着いてるよね。同い年っぽくない感じがするときある」
38歳だから当然です、とは言えなかった。
「そんなことないよ」
「あるよ」とリサが静かに言った。本を読みながら、こちらを一切見ずに言った。「目が落ち着いてる。悪い意味じゃなく」
リサはこういう人間だった。無駄なことは言わないが、たまに核心を突く。
キョンはその会話を聞きながら、生徒会誌のページをめくっていた。こちらを見てはいなかったが、聞いていることはわかった。
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放課後、もう一度生徒会室に寄った。
午前中に手をつけられなかった会計書類の続きをやるためだ。電卓を叩きながら数字を確認していると、4時頃にまたドアが開いた。
キョンだった。今度は1人だった。
「ミナミたちは?」と俺は聞いた。
「今日は部活があるって。私は暇だから」
「そっか。どうぞ」
キョンは「じゃあ少しだけ」と言って、今朝と同じ窓際の棚の前に立った。今朝読んでいた生徒会誌を、また手に取った。
俺は書類を続けた。
しばらく、静かだった。ストーブの音と、校庭から届く部活の声と、たまに紙をめくる音だけがした。
「ねえ、これに載ってる卒業生、みんな今何してるんだろう」とキョンが言った。
「さあ。それぞれじゃないか」
「この人、東京藝大って書いてある。すごいな」
「何に興味があるんだ、そういう進路で」
少し間があった。
「……服、かな」
「服?」
「服を作ること。でも附属の大学には服飾の学部ないし、親は普通に大学行くもんだと思ってるし。なんかうまくいかなくて」
キョンは生徒会誌に目を落としたまま、ぽつりと言った。俺に聞かせるつもりがあったかどうかもわからないような、小さな声だった。
でも俺は、それを聞き逃さなかった。
「やりたいことがあるなら、やった方がいいと思う」
キョンがこちらを見た。
「そんな簡単に言える?」
「簡単とは思ってない。ただ、やらないで後悔するより、やって失敗した方が、ずっとましだと思ってる」
「なんで言い切れるの」
「……見てきたから。そういう後悔をしてる人間を」
キョンはしばらく俺を見ていた。何かを確かめるような目だった。
「リュウって、たまに変なこと言うよね」
「変か?」
「変というか、なんか、ずっと先まで見てきたみたいな言い方するから」
38歳だから当然なんだが、これは説明できない。
「そんなことないよ」
「うーん」
キョンは納得していない顔で、また生徒会誌に目を落とした。夕日が差し込んで、ページの上を橙色に染めた。
「服飾の専門学校、調べてみたら?」と俺は言った。「附属の大学じゃなくても、進路はある」
「親が」
「親に言う前に、まず自分で調べてみる。情報を持ってたら、話し合いやすくなる」
「……そうかも」
「卒業生の進路を見てるんだろ、その生徒会誌。ヒントになるかもしれない」
キョンがまたこちらを見た。今度は少し、目が違った。
「なんかリュウ、進路相談員みたい」
「そうか」
「悪い意味じゃない。ちゃんと聞いてくれてる感じがするから」
俺は電卓に目を戻した。少し照れていたが、顔には出ていないと思う。多分。
「また話してくれればいい。俺でよければ」
「……うん」
キョンは短く答えて、また生徒会誌のページをめくった。
西日が傾いて、部屋がだんだん暗くなっていった。ストーブの音がした。外で部活の笛が鳴った。
38歳の俺には、今日の帰り道でキョンと電車に乗ることが、もうわかっていた。右のイヤホンを渡されることも。40分があっという間に過ぎることも。
でもその「あっという間」の中に、今日みたいな会話を少しずつ積み上げていけばいい。
今はまだそれだけでいい。
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*(第4話へつづく)*




