第2話「2005年11月3日、午前8時14分」
目が覚めた。
最初に気づいたのは匂いだった。
味噌汁の匂いがした。それから、かすかな木の匂い。古い畳と、安い洗剤と、どこかから漂ってくる金木犀。全部、知っている匂いだった。でも、昨夜まで住んでいた地方のマンションとは、全然違う匂いだった。
天井を見た。
見覚えがある。シミの形が、蛍光灯の位置が、全部知っている。実家の、自分の部屋の天井だ。
おかしい。
俺は10年以上前にここを出た。今は地方にいるはずだ。昨夜は廊下を歩いて、階段で——
体を起こした。
六畳の部屋。勉強机の上に教科書とプリントの山。本棚にはゲームのソフトと漫画が詰まっている。机の隅に置いてあるのはMDコンポだ。MDコンポ。いつ以来だろう。
手を見た。
細い。シミも皺もない、高校生の手だった。
洗面所に走った。廊下を三歩で渡って、鏡の前に立つ。
知らない顔が映っていた。
いや、違う。知っている。知りすぎるくらい知っている。自分の高校時代の顔だ。少し面長で、眉が薄くて、まだどこか幼さが残っている。でもこれは確かに「俺」で、頭の中身は間違いなく38歳で、さっきまで地方のマンションの廊下で転びかけていたはずで——
ズボンのポケットに手が入った。
ガラケーがあった。折りたたみ式のやつを開くと、小さな液晶画面が青白く光った。
2005年11月3日、木曜日、午前8時14分。
文化の日。高校2年の秋。学園祭の翌日。
そして今夜——もともとの俺はこの日の帰り道に、告白するはずだった。
つまり俺はまだ、言っていない。
「龍、朝ごはんできてるよー」
台所から声がした。
母さんの声だった。
俺は鏡の前から動けなかった。頬を抓ってみた。痛かった。夢じゃない。もう一回抓った。やっぱり痛かった。
「龍? 聞こえてる?」
「……聞こえてる」
自分の声が高かった。変声期を抜けたばかりみたいな、若い声。38歳の声じゃなかった。
朝食の席に座った。
母さんはいつも通りだった。味噌汁を出して、テレビの天気予報を眺めて、「今日は片付けあるんだっけ」と聞いた。学園祭の話を覚えていてくれたらしかった。うちの母さんは昔からこういう人だ。子供の話を、ちゃんと覚えている。
白米を一口食べた。
うまかった。
なんでもない白米が、信じられないくらいうまかった。目の奥が急に熱くなって、俺は茶碗を持ったまましばらく動けなかった。
現在の母さんは、去年の夏に脳梗塞で倒れた。今は施設にいる。声を聞いたのは2ヶ月以上前だ。
この人が今、俺の目の前で普通に味噌汁をよそっている。
「……ただいま」
「え? どこかに行ってたの?」
「なんでもない」
俺は残りの白米を、ゆっくり食べた。急いで食べたくなかった。
部屋に戻って、ベッドの端に座った。
状況を整理しようとした。
まず事実の確認。俺は2026年の38歳で、今は2005年の16歳だ。体は高校生だが記憶は全部ある。高校時代の記憶も、それ以降の20年間の記憶も、どちらも頭の中に同居している。夢でも幻覚でもない。頬は痛い。飯はうまい。母さんの声がする。
次に、今日の話。
今日は2005年11月3日。学園祭の翌日だ。もともとの俺はこの夜、片付けを終えて帰り道にキョンと並んで電車に乗り、キョンの最寄り駅で突然降りて、ホームで告白して振られる。それが今夜起きるはずのことだった。
でも今の俺には、38年分の記憶がある。
あの告白がどれだけ準備不足だったか。2人で遊びに行ったことが一度もなかったのに、何の脈絡もなくホームで「好きだ」と言った。その上キョンがノンバイナリーだと、俺は20年後にSNSで初めて知った。自分の感情を言語化するのが得意じゃないキョンに、あんな突然の告白をぶつけた。そりゃ「ごめん」しか返ってこない。
今夜は——降りない。
それだけは決めた。
ガラケーを閉じて、窓の外を見た。11月の朝の空が、薄い青をしていた。金木犀の匂いがまだかすかにした。
やり直せる。
どこまでやり直せるかはわからない。なぜ戻ってきたかもわからない。でも今日この瞬間に俺が16歳で、キョンへの告白がまだ起きていないのは確かだ。
今日から、ちゃんとやる。
午後、学校に向かった。
学園祭の後片付けがあった。駅まで10分歩いて、電車に乗った。地方から戻ってきたわけじゃないのに、この景色が妙に懐かしかった。曲がり角にある駄菓子屋がまだある。潰れたはずのレコード店がある。信号のタイミングまで体が覚えていた。
校門を入ったとき、胸がきゅっとなった。
生徒たちが走り回っている。縁日の屋台を解体しているクラスがある。演劇部が衣装のまま廊下を歩いている。全部、知っていた。でも今日また見ると、光量が違って見えた。眩しかった。
「リュウ! 遅えよ、もう!」
声がした。振り返ると、体育館の入口にユースケがいた。
背が高くて、声がでかくて、笑うと目が細くなる。今の俺より20歳は若い顔で、手を振っている。隣にはフミとバータもいた。フミが静かにこちらを見ていた。バータが「何突っ立ってんだ」と言った。
「……ああ」
俺はしばらく動けなかった。
ユースケはこの先どうなるんだろう、とふと思った。体を壊して地方で隠居する前の、宇宙の夢を持ったままのユースケが、今ここにいる。フミは弁護士になりたかったんだよな。家計が苦しくて、バイトと勉強の両立ができなくて、夢を諦めた。バータは外部受験して、2浪して、海外で鬱になった。
この3人が、今は全員笑っている。
「お前、顔どうした。泣いてんの?」とユースケが言った。
「泣いてない」
「目赤いよ」
「埃が入った」
「嘘くさ」
バータが「まあ入れや、仕事残ってるぞ」と言って、俺の背中を叩いた。大きな手だった。体育館に連れていかれながら、俺は3人の背中を見ていた。
変えてやる。絶対に変えてやる。
椅子の片付けをしながらそう思った。
夕方、帰り道になった。
今日は珍しく4人そろって帰った。ユースケが補講で残ることもなく、バータが部活に出ることもなく、フミが図書室に寄ることもなかった。学園祭翌日の開放感があったのかもしれない。
学校を出て、10分歩いた。駅に着いて、改札を通って、ホームに上がった。各駅停車を待ちながら並んでいたとき、キョンたちが来た。
ミナミが俺を見て「あ、リュウくんも一緒」と言った。サナが「お疲れー!」と手を振った。リサが無言でこちらを一瞥した。
キョンは俺と目が合うと、少しだけ眉を動かした。
「お疲れ」
「お疲れ」
それだけだった。でも俺の心臓は、情けないくらいうるさかった。
電車が来た。7人全員で乗り込んで、ユースケたちとキョンたちがそれぞれ固まって話し始めた。俺は自然にキョンの隣になった。毎日そうだったから。
キョンが鞄からMDプレーヤーを取り出した。
折りたたみ式の白いやつだ。見た瞬間、何かが胸の奥でぎゅっとなった。本当に存在したんだな、このMD。20年後に懐かしいものとして記憶の中にあったものが、今は当たり前にそこにある。
キョンが右のイヤホンを、黙って俺に差し出した。
いつも通りだった。言葉もなく、当然のように。
俺はそれを受け取って、耳に当てた。
音楽が流れた。女性ボーカルの、ゆっくりしたポップスだった。知らない曲だった。
「誰の曲?」と俺は聞いた。
キョンは少し考えてから、「教えない」と言った。
「なんで」
「気が向いたら教える」
そう言ってキョンは前を向いた。横顔に夕日が差していた。黒いショートヘアが光を受けて、少し茶色く見えた。中性的な顔立ちで、笑っているのか笑っていないのかわかりにくいが、今日は少し笑っている気がした。
38歳の俺には、わかる。
今夜は降りない。でも、ここから始める。
左耳に音楽が流れる40分が始まった。
(第3話へつづく)




