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第1話「38年分の後悔と、あの子の声」

 右のイヤホンを、あの子はいつも黙って渡してきた。


 左耳にはMDの音楽。右耳には電車の走行音と駅のアナウンス。それだけで40分が満たされた。会話なんてほとんどしなかった。しなくていい時間だった。


 あの頃の俺には、それが「特別」だとわからなかった。


 38年生きて、ようやくわかった。遅すぎる話だ。


---


 2026年11月、月曜日の夜。


 6畳の寝室のドアを薄く開けたまま、俺はベッドの端に腰を下ろしてスマホを眺めていた。画面には仕事のチャットが20件。全部既読にした。返信はしていない。する気力がなかった。


 リモートワークというのは聞こえはいいが、要は「会社に行かなくてもどこにいても詰められる」ということだ。今日も午後3時から2時間、画面越しに上司に怒鳴られた。理由はよくわからない。最近はいつもそうだ。俺が悪いのか、あの人がおかしいのか、それとも両方か。判断する気力も残っていない。


 廊下の向こう、台所から声がした。


 妻の声だ。怒鳴っているが、何に怒っているかは聞き取ろうとしなかった。聞き取ったところで、どうにもならないとわかっているから。


 出会った頃は違った。あの頃の彼女は穏やかで、よく笑った。俺が地方に転勤になって、知り合いもなく、仕事もきつくて、完全に参っていたときに出会った。「誰でもよかった」というと聞こえが悪いが、正直に言えばそれに近かった。支えてくれる人なら誰でもよかった。


 その結果がこれだ。


 リビングから子供たちの笑い声がした。7歳と5歳。かわいい声だ。俺の声には似ていない。


 当たり前だ。俺の子ではないのだから。


 それを知ったのは半年前だった。妻のスマホを間違えて手に取ったとき、写真フォルダに見知らぬ男と子供たちが並んで笑っている写真があった。日付は長男が生まれる前。頭が真っ白になって、でも声は出なかった。その日から俺はずっと、言葉にできないものを体の中に飼っている。


 誰にも言えなかった。


 地方に来て10年。学生時代の友人たちとは、気づいたら疎遠になっていた。連絡先は残っているが、最後にちゃんと話したのがいつかも思い出せない。愚痴を言える人間が、この町には一人もいなかった。


 スマホを持て余して、何となくSNSを開いた。


 友人リストを上から眺める。更新が止まったアカウント、知らない顔、たまに流れる誰かの近況。スクロールする指が、ある名前のところで止まった。


 「京」


 アイコンは小さかったが、ショートカットの黒い髪が見えた。プロフィールを開いた。


 服飾デザイナー、東京。更新は3日前。


 高校の同級生だった。もう20年近く、一度も連絡していなかった。


 スクロールしながらプロフィール欄を読んでいて、俺の手が止まった。


 自己紹介の最後に、一行だけ書いてあった。


 「性別:Xジェンダー(ノンバイナリー)」


 しばらく、画面を見つめていた。


 知らなかった。


 20年近く、何も知らなかった。あの頃俺の隣で40分間MDを共有していた「京」が、性別という概念の外にいる人間だったことを、俺は今夜初めて知った。


 だからか、と思った。


 高校2年の学園祭の帰り道、いつも乗り続けるはずのキョンの最寄り駅で俺は突然降りた。「ちょっといいか」と言って、ホームで告白した。キョンは少し驚いた顔をして、それから静かに「ごめん」と言った。


 あの「ごめん」の温度が、今になってようやくわかる気がした。


 拒絶ではなかった。困惑だった。好きかどうかよりも先に、何かが噛み合わなかったのだ。


 38歳がこんな夜中に、20年前の告白の正解を解読している。なんとも情けない話だった。


---


 DMを送ろうか、やめようかを3分くらい迷って、結局送った。


 『久しぶり。元気? 高校の同級生のリュウです』


 既読がついたのは2分後だった。


 『リュウじゃん! 久しぶり。元気だよ。どうしたの急に』


 心臓が跳ねた。38歳にもなって、と思いながら、それでも嬉しかった。ぽつぽつとやり取りが始まって、俺は気づいたら愚痴をこぼしていた。仕事がしんどい、生活が、なんとなく疲れた、と。書きながら自分でも「こんなこと送るな」と思ったが、止まらなかった。


 キョンは責めなかった。「それは大変だったね」とだけ返してきた。


 たった9文字で、目の奥が熱くなった。


 しばらくして「電話していい?」とメッセージが来た。


 声は変わっていなかった。少し落ち着いた、大人の声になっていたが、芯の部分は何も変わっていなかった。あの、静かで、真っ直ぐな声。


 1時間ほど話した。内容はたいして重要じゃなかった。近況と、共通の知人の話と、高校時代のくだらない記憶と。俺は何度か笑った。久しぶりに、本当に笑った。


 「また話そうね」と言ってキョンが電話を切った。


 静かになった部屋で、俺はしばらく天井を見ていた。


 冷蔵庫から缶ビールを取り出した。普段ほとんど飲まない。でも今夜はなぜか飲みたかった。


 もし、と考えた。


 もしあの告白の夜、ちゃんと準備していたら。2人で一度でも遊びに行っていたら。雰囲気も何もないホームで突然降りるのではなく、ちゃんと言葉を選んでいたら。


 でも、そもそも俺はキョンのことを何も知らなかった。隣に40分いながら、好きな音楽のアーティスト名すら知らなかった。性自認がノンバイナリーだということも、今夜初めて知った。


 それで告白していたのか俺は。


 2本目の缶を開けた。3本目も開けた。


 頭がぼんやりしてきた頃、トイレに立った。廊下を歩いた。子供たちはもう寝ていた。妻の部屋のドアが閉まっていた。静かな深夜の家を、ふらふらと歩いた。


 階段の一段目に足をかけた瞬間だった。


 体が、傾いた。


 やばい。


 手すりを掴もうとして、空を切った。体が宙に浮く感覚。頭を打つと思った。


 でも、衝撃は来なかった。


 代わりに、世界が静かになった。廊下の蛍光灯が滲んで、遠くなっていく。体の感覚が消えていく。


 暗闇の中で、声が聞こえた気がした。


 さっきまで電話で話していた、あの声だった。


 *「……リュウ? なんで泣いてるの」*


 それきり、何も聞こえなくなった。


---


*(第2話へつづく)*

はじめまして、双子想です。

今回は初の恋愛ものになります。

よろこんでいただけると幸いです。

今回は一挙10話投稿です。

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