第18話「バレンタインと、キョンの手作り」
2月に入ってから、廊下の空気が変わった。
女子がひそひそ話をしていることが増えた。購買のチョコレート菓子の棚が早い時間に空になるようになった。男子が「今年はもらえるかな」と言いながら緊張した顔で廊下を歩いていた。
バレンタインが近いらしかった。
38歳の感覚では、バレンタインは「ああ、そういう時期か」くらいの話だった。地方のマンションで過ごした38歳のバレンタインは、妻に何も言われなかった記憶しかない。それどころか、当日は怒鳴り声が台所から聞こえていた気がする。
今の状況は全然違った。
周りが浮き足立つ中で、俺は自分がどういう立場にいるのかを少し考えていた。
キョンとの関係は、今どこにある。
付き合っているわけではない。告白もしていない。でも「うれしい、かもしれない」という言葉が、1月にあった。「もうひとつの理由が私に関係することだったとして、うれしいことなの」という問いかけもあった。
明確な関係ではないが、何かがある。それだけは確かだった。
バレンタインに何かをするべきか、しないべきか。
38歳の記憶上、元の高校時代はキョンから何ももらわなかった。というより、キョンと2人きりで話したことすらほとんどなかったから、当然だった。
今回はどうなるか、予測がつかなかった。
---
2月13日の昼休み、ミナミが俺のところに来た。
「リュウくん、ちょっといい?」
「どうした」
「明日のことなんだけど」
「バレンタインか」
「そう。リュウくん、チョコとかもらう予定ってある?」
「予定は特にない」
「そっか」とミナミが言って、何かを確認するような顔をした。「キョンから何か聞いてない?」
「何も聞いてない」
「そっか、じゃあ秘密にしておく。でも明日、生徒会室にいてね」
「仕事があるから普通にいる」
「よかった。じゃあ、何もしなくていいから、いてください」
「何の話だ」
「秘密」
ミナミが走って戻っていった。
38歳のアラフォーには、だいたいの事情が推測できた。ミナミが「秘密にしておく」と言って「生徒会室にいてね」と言った。それはつまり、キョンが何かをするつもりで、ミナミがその手引きをしているということだ。
落ち着け、アラフォー。
期待して空振りするのが一番みっともない。普通に仕事をしていればいい。
---
2月14日、放課後。
言われた通り、生徒会室で仕事をしていた。3月の行事スケジュールの調整と、卒業式の準備委員会との連絡事項の整理だった。地味な仕事だったが、手を動かしていると頭が落ち着いた。
4時半頃、ドアがノックされた。
「どうぞ」と言うと、ドアが開いた。
キョンだった。
1人だった。珍しかった。いつもはミナミかサナが一緒にいるが、今日は1人で来た。
手に小さな袋を持っていた。
「仕事中?」
「してる。でも、どうぞ」
キョンが中に入った。棚の前ではなく、俺の机の前まで来た。袋をテーブルの上に置いた。
「これ」とキョンが言った。
「何だ」
「クッキー。作った」
「作ったのか」
「うん。昨日の夜」
俺は袋を見た。小さな袋で、中に箱が入っているらしかった。リボンが結んであった。
「開けていいか」
「開けて」
袋を開けると、白い小箱が出てきた。蓋を開けると、クッキーが6枚並んでいた。丸くて、端が少し焦げていた。不揃いだったが、それがなんとも言えなかった。
「手作りなのか」
「そう。不格好だけど」
「うまそうだ」
「食べてみないとわからない」
「食べていいか」
「食べてほしくて持ってきた」
俺は1枚取って、口に入れた。
バターの香りがした。甘さが控えめで、ざくっとした食感だった。端の焦げたところが少し香ばしかった。
うまかった。
普通にうまかった。不格好でも、端が焦げていても、ちゃんとうまかった。
「どう?」とキョンが聞いた。少し緊張している声だった。
「うまい」
「本当に?」
「本当に。バターの感じが好きだ」
「よかった」とキョンが言って、少し表情が緩んだ。
「誰かに作ったのは初めてか?」
「うん。料理はたまにするけど、誰かにあげるために作ったのは初めて」
「そうか」
「緊張した。うまく焼けるかわからなくて」
「端が少し焦げてるのが好きだ。わざとじゃないだろうけど」
「わざとじゃない。失敗した」
「失敗が正解だった」
キョンが「そういうことを言うな」と言った。でも少し口の端が上がっていた。
---
「ねえ、聞いていいか」と俺は言った。
「何」
「なんで俺に作ってきたんだ」
キョンが少し黙った。
「なんで、って」
「何かきっかけがあったのか、それとも前から考えてたのか」
「前から考えてた。でも、バレンタインは言い訳になると思って、今日にした」
「言い訳?」
「バレンタインだから渡した、って思われるのが嫌で。でもバレンタインじゃない日に突然渡すのも変だし。だから、バレンタインだけど、本当は前から考えてたということにしようと思って」
「ということにしようと思って、か」
「うん。でも話したら正直に言ってしまった」
「正直でよかった」
「そう?」
「うん。言い訳みたいに受け取るつもりは最初からなかったから」
キョンがこちらを見た。
「なんで言い訳と思わないの」
「キョンが前から考えてたって、今の話し方でわかったから」
「……そういうとこが、なんか変だよ、リュウって」
「変か」
「変というか、ちゃんと見てる感じが、たまにこわい」
「こわいのか」
「こわいというか……なんか、全部わかられてる感じがして」
「全部はわかってないよ」
「でも、かなりわかってる感じがする」
「それは、キョンのことを見てきたからだ」
「どのくらい見てきたの?」
俺は少し考えた。
「かなり長い間」
「高校に入ってから1年半くらいしか経ってないのに?」
「1年半で、わかることはわかる」
「リュウって、時間の使い方が密度が高い感じがする。1年半で他の人の3年分くらい見てそう」
38歳の経験値で見ているから、密度が高いのは当然だった。でもそれは言えない。
「そういうもんかもしれない」
「なんか、それが不思議で。でも、わかられてることは、嫌じゃない」
「そうか」
「うん。嫌じゃない。むしろ……なんか、安心する」
「安心」
「うん。全部わかられてる感じがするのに、それで嫌われてない気がするから」
俺は少し黙った。
嫌うわけがない、と言おうとした。でもそれを言うと今日の話が一気に進みすぎる気がした。今日はクッキーを渡してくれた日だ。急かさない。
「クッキー、全部食べていいか?」と俺は言った。
「全部持ってきたから」
「ありがとう。うまかった」
「また作るよ、もし食べたかったら」
「作ってくれるか」
「うん。次はもう少し上手く焼く」
「端の焦げも残してくれ」
「それは失敗だって言ってるじゃん」
「失敗が好きだと言ってる」
キョンが「変なこだわりがある」と言って、少し笑った。
---
キョンが帰った後、生徒会室に1人でいた。
テーブルの上に白い小箱があった。クッキーが5枚残っていた。
手作りのクッキーを、キョンから初めてもらった。
元の人生では、こういうことは一度もなかった。バレンタインにキョンから何かをもらったことも、キョンが「前から考えてた」という話を聞いたことも、ぜんぶなかった。
2ヶ月半、積み上げてきた。
急かさないで、押しつけないで、キョンのペースに合わせながら、少しずつ近づいてきた。その結果が、今日のクッキーだった。
38歳のアラフォーが感傷的になるのは少し恥ずかしかったが、今夜だけは許してほしかった。
---
夜、ガラケーにキョンからメールが来た。
『渡せてよかった。緊張したけど』
『ちゃんと渡せてた。うまかった』
『本当に?』
『何回聞くんだ。本当にうまかった』
少し間があった。
『ねえ、リュウ』
『ん』
『私、自分の気持ちがよくわからないって言ってたじゃない』
『言ってた』
『でも今日、クッキーを渡したくて作ったのは、ちゃんとわかってた。誰かに渡したかったわけじゃなくて、リュウに渡したかった』
俺はガラケーの画面を見た。
キョンが、自分の気持ちを言葉にしようとしていた。
「わからない」から「わかった」に、少し近づいた言葉だった。
『わかってくれてよかった』と俺は返した。
『まだ全部はわからないけど』
『全部わからなくていい。今日のそれで、十分だ』
少し間があった。
『リュウ、また十分って言った』
『本当のことだから』
『ずるいよ、そういうこと言うの』
『ずるくない』
『ずるい。でも』
少し間があった。
『でも、ありがとう。いつも』
俺は少し考えてから、返した。
『こちらこそ。クッキー、残りは明日食べる』
『明日も食べるの?』
『全部食べる。6枚あったから、今日1枚、残り5枚を明日』
『そんなに大事に食べなくていいのに』
『大事に食べたい』
また間があった。
『……おやすみ、リュウ』
『おやすみ』
ガラケーを閉じた。
テーブルの上の小箱が、頭に浮かんだ。
端が少し焦げた、不格好なクッキー。
「リュウに渡したかった」
キョンが言った言葉が、今夜ずっと頭の中で繰り返されていた。
38歳のアラフォーが、高校生の布団の中で天井を見ながら、手作りクッキーの話を反芻している。客観的に見ると、かなり微妙な光景だった。
でも微妙でもなんでも、今夜は許してほしかった。
それくらい、よかった。
---
*(第19話へつづく)*




