第17話「新しいアルバムと、春の気配」
翌朝のホームで、キョンはいつもより少し早く来ていた。
俺が階段を上り切ったとき、すでに改札寄りの柱のそばに立っていた。白いマフラーをして、鞄を両手で持っていた。普段は片肩にかけているのに、今日は両手で持っていた。鞄の中にMDプレーヤーが入っていて、大事に持ってきた感じがした。
「早いな」
「新しいMD、早く聴かせたかったから」
「そのために早起きしたのか」
「違う。たまたま早く目が覚めた」
「そうか」
「でも、早く来てよかったと思ってる」
「なんで」
「リュウが来たとき、ちょっと嬉しそうな顔をしたから」
「してたか?」
「してた。ちょっとだけ」
38歳のアラフォーが感情を隠せていないのは、どうやら慢性的な問題らしかった。直す気はないが、少しは気をつけた方がいいかもしれない。
「聴かせてくれるんじゃないのか」
「聴かせる」とキョンが言って、鞄からMDプレーヤーを取り出した。いつものやつだ。でも今日はMDが新しかった。ケースに手書きでタイトルが書いてあった。
電車が来た。乗り込んで、ドア際に立った。
右のイヤホンが差し出された。
受け取った。耳に当てた。
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1曲目が流れ始めた瞬間、少し違うとわかった。
前のMDよりテンポが少し速かった。熊木杏里の声は変わらないが、アレンジが明るくなっていた。でも根底にある静けさは同じで、それがかえって良かった。
「どう?」とキョンが言った。
「前のより少し明るい感じがする」
「そう。新しいアルバム、全体的に春っぽい感じで。冬から春に変わるときの話が多くて」
「歌詞の話か」
「うん。変わっていくことへの不安と、でもそれを受け入れていく感じの歌詞が多くて。なんか今の自分に合ってると思った」
「今の自分に合ってる、というのは?」
「3年になるじゃない。クラスも変わって、進路もはっきりさせないといけなくて。なんか、変わることへの感情が今ちょうどあるから」
「不安と、受け入れることが混ざってる、ということか」
「そう」
俺は音楽を聴きながら、窓の外を見た。1月の末の空が白かった。
変わることへの不安、か。
キョンが口にしたそれは、キョン自身の話だけじゃない気がした。昨夜の「うれしい、かもしれない」という言葉もそうだった。何かが変わり始めているのをキョン自身が感じていて、それに対して不安と受け入れが混ざっている。
MDのアルバムに、今のキョンが重なっていた。
「2曲目も聴かせてくれるか」
「全部聴かせる」
「ありがとう」
「ありがとうって言うのはこっちだよ」
「どっちが言ってもいい」
「また言う」
「また聞いてる」
キョンが少し笑った。電車が揺れた。40分が流れた。
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2月になった。
生徒会の選挙活動が始まった。3年の会長選で、俺が立候補することになった。
立候補届を出したとき、現会長の先輩から「お前が出るなら安心だ」と言われた。生徒会に1年から入っていて、副会長として動いてきた実績があるから、信頼はあった。対立候補は1人いたが、2年生だった。
選挙活動は1週間だった。
朝、校門の前に立って挨拶をする。昼休みに所信表明のポスターを貼る。放課後に政見演説の準備をする。地味な作業の積み重ねだった。
「リュウくん、政見演説で何を言うか決まってる?」と、ある昼休みにミナミが聞いてきた。
「大体決まってる」
「何を言うの?」
「生徒会の活動を、もっと生徒の日常に近づけたい。今は会計とか書類仕事が中心になってるけど、実際に学校生活で困ってることに関われるようにしたい」
「具体的にはどういうこと?」
「購買のメニューを変える話し合いとか、部活と定期テストの時期の重なりを調整する提案とか。生徒が直接困ってることに関わる機会を増やす」
「それ、できるの?」
「全部できるとは言えないけど、動くことはできる。動かなければ何も変わらないから」
ミナミが「なんかちゃんとしてるな」と言った。「政治家みたい」
「政治家じゃなくて生徒会長の候補だよ」
「でもなんか、ちゃんとしてる。言葉に中身がある感じ」
38歳の経験値で作った所信表明だから、それなりにちゃんとしているのは当然だった。でも「ちゃんとしてる」と言われるのは悪くなかった。
キョンはその会話を横で聞いていた。俺と目が合ったとき、少し眉を動かした。
何かを言おうとして、やめた顔だった。
後で聞こうと思った。
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放課後の生徒会室で、演説の原稿を仕上げていると、キョンが1人で入ってきた。
ミナミたちはいなかった。珍しく、今日はキョン1人だった。
「仕事してる?」
「演説の準備」
「邪魔したくなかったけど、来てしまった」
「邪魔じゃない」
「ならいい」
キョンがいつもの棚の前に立った。生徒会誌を取り出す気配はなかった。ただ、棚の前に立って、窓の外を見た。
しばらく、静かだった。
「昼のミナミとの話、聞いてた?」と俺は言った。
「聞いてた」
「何か言おうとしてたか?」
「どうして」
「目が合ったとき、そういう顔をしてたから」
キョンが少し振り返った。
「よく見てるな」
「毎日見てるから」
「それ、私の言葉じゃないか」
「そうだな。返しておく」
キョンが少し笑った。それから、窓の外に視線を戻した。
「演説の内容、ちゃんとしてるなと思って」
「それを言おうとしてたのか」
「うん。ミナミに先に言われたけど」
「言ってくれればよかった」
「なんか、ミナミが言った後に私が言うのは、二番煎じみたいで」
「そういうこと気にするのか」
「気にする。自分の言葉は、自分のタイミングで言いたい」
「そうか。じゃあ今言えばいい。ミナミがいないから、キョンのタイミングで言える」
キョンがまた少し振り返った。今度はこちらをちゃんと見た。
「演説の内容、ちゃんとしてると思った。言葉に中身がある。リュウって、ちゃんとやりたいことがあって、それを言葉にできる人なんだなって、改めて思って」
「ありがとう」
「それだけじゃなくて」
「うん」
「なんか、すごいなって思った。生徒会長になって、推薦で大学行って、やりたいことに向かって動いてるじゃない。私はまだ、親を説得したばかりで、専門学校に行けるかも決まってないのに、リュウはもう動いてる」
「キョンも動いてるだろ。オープンキャンパスに行って、親に話して、ちゃんと動いた」
「でもリュウの方が、先が見えてる感じがする」
「それは」と俺は少し考えた。「見えてるんじゃなくて、見ようとしてるだけだ」
「違いがわからない」
「見えてる、というのは、最初から答えが決まってる感じがする。でも実際は、動きながら見えてくるものの方が多い。俺もまだ全部は見えていない」
「でもリュウには、何かがあるじゃない。なんか、知ってることが多すぎる感じというか」
また核心に近いことを言ってきた。キョンはこういう鋭さを、たまにさらっと出す。
「まあ、いろいろ考えてきたから」
「考えてきた?」
「うん。先のことを、ずっと考えてきた」
「いつから?」
「……かなり前から」
「かなり前って、高校入る前から?」
「そういう感じだ」
キョンが少し首を傾けた。
「リュウって、なんか、ずっと先を経験してきた人みたいな話し方をするときがある」
「そうか?」
「うん。前にも言ったけど、一回失敗した人みたいな感じ。でも今日は特にそう感じた」
俺は何も言わなかった。
「聞いてもいい?」
「何を」
「リュウって、本当に16歳?」
俺は少し固まった。
真剣な顔だった。からかっている感じではなかった。本当に確かめようとしている目だった。
「16歳だよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「なんか、信じられない気がすることがある」
「なんで」
「普通の16歳が持ってないものを、リュウは持ってる気がするから。経験というか、視点というか」
「大人っぽいってことか」
「大人っぽいのとも少し違う。なんか、もっと奥にあるものが、リュウには見えてる気がする」
どこまで気づいているんだろう、と思った。
答えは言えない。全部話したとして、信じてもらえるかどうかもわからない。でも、キョンが「何かある」と感じているのは本当のことで、それを否定したくもなかった。
「いつか話す」と俺は言った。
「またか」
「タイミングがあるから」
「リュウのタイミング、いつ来るんだろ」
「来たときに来る」
「それがタイミングっていうもんか」
「そういうもんだ」
キョンが少し呆れた顔をして、また窓の外を見た。
「選挙、当選するといいね」
「ありがとう」
「応援してる」
「来てくれるか、演説」
「行く。ちゃんと聞く」
「それだけで十分だ」
キョンが少し俺を見た。
「充分って言うな」
「なんで」
「またこっちが困ることを言うから」
「キョンが応援してくれると言ったから、十分だと言った。本当のことじゃないか」
「本当のことが困るんだよ」
「そうか。それはどうしようもないな」
キョンが「どうしようもないと言うな」と言って、でも笑っていた。
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選挙は翌週の木曜日にあった。
政見演説を体育館でやって、翌日に投票があった。
結果は賛成多数で、会長に決まった。
放課後にホームルームで発表があって、教室から出たとき、廊下でキョンが待っていた。
ミナミとサナとリサも一緒だった。
「おめでとう!」とミナミが言った。
「ありがとう」
「演説、よかったよ。ちゃんと聞いた」
「来てくれたのか」
「行くって言ったじゃない」とキョンが言った。ミナミたちの後ろから、少し静かな声で。
「ありがとう」
「うん」
ミナミとサナが何かを言い合っていた。リサが「おめでとう」とだけ言って、本を開いた。
キョンは俺の横に並んで、廊下を歩いた。
「演説、聞いてて思ったんだけど」
「うん」
「リュウが会長になるの、なんか自然な感じがした」
「自然?」
「うん。リュウが前に立って話してるのを見て、ここにいるべき人だなって思った。うまく言えないけど」
「うまく伝わってる」
「そう?」
「うん」
キョンが少し前を向いた。
「4月から3年だね」
「そうだな」
「クラスが一緒になる」
「なるな」
「それも、なんか自然な感じがする」
俺は少し笑った。
「自然な感じが好きか」
「うん。作った感じより、自然な感じの方がいい」
「俺も同じだ」
キョンが少し俺を見た。
「じゃあ、3年もよろしく」
「よろしく」
廊下の窓から、2月の空が見えた。まだ寒かったが、光の角度がほんの少し変わっていた。
春が、少しずつ近づいていた。
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*(第18話へつづく)*




