第15話「親への話と、キョンの勇気」
翌週の月曜日。
朝のホームに着くと、キョンはいつもの場所に立っていた。コートの襟を立てて、白いマフラーを巻いて、鞄を肩にかけていた。1月の朝は寒かった。
「おはよう」
俺が声をかけると、キョンが振り返った。
「おはよう」
いつもと同じ顔だった。日曜日にあんな話をしたくせに、月曜日の朝は何事もなかったように「おはよう」だった。
これがキョンだ。
感情を出したくなるときはちゃんと出す。でも必要以上に引きずらない。翌朝にわざとらしくした態度を取ったりしない。それが高校時代から変わらないキョンの性質だった。
俺も合わせた。
「昨日、学校に連絡したか? 就職データのやつ」
「した。昨日の夜のうちに。今週中には届くって言ってた」
「早いな」
「急いで送ってもらえるようにお願いしたから。今週末に親と話そうと思って」
「準備ができたら、一度俺に話してみろよ。練習台になる」
「練習台」
「本番の前に誰かに話すと、論点が整理されるから」
「そうか。じゃあ、届いたら見せる」
「いつでも」
電車が来た。乗り込んで、ドア際に立った。MDプレーヤーが取り出された。右のイヤホンが差し出された。
受け取って、耳に当てた。
熊木杏里の声が流れた。
今日は名前を知っている。知っている上で聴いている。それだけで同じ音楽が違って聴こえた。
「昨日のこと」とキョンが言った。小声だった。
「うん」
「変なこと言ったかな」
「変じゃない」
「なんか、思ってたより言いすぎたかもと思って」
「言いすぎてない」
「そう?」
「うん。言いたいことを、ちゃんと言えた方がいい。少なくとも俺は、聞けてよかったと思ってる」
キョンが少し黙った。
「リュウって、こういうとき、なんで受け止め方が上手いんだろ」
「上手いか?」
「上手い。なんか、こちらが言ったことを、ちゃんと受け取ってくれてる感じがする」
「受け取りたいから受け取ってる。それだけだ」
「また言う」
「何を」
「こっちが困ることを」
「もう困わせてるのか」
「もう困ってる。今朝からもう」
38歳のアラフォーが高校生の体で恋愛をしているわけだが、相手を困らせることには変わりがなかった。いいのか悪いのか判断しかねた。ただ、キョンが「また言う」と言いながら笑っているから、まあいいとした。
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木曜日の放課後、生徒会室でキョンから「資料届いた」とメールが来た。
放課後、図書室の隅のテーブルで2人で並んだ。
キョンが封筒を開けて、データのプリントを広げた。卒業後の就職先一覧と、業種別の割合が書かれた1枚だった。
「これが使えると思う」と俺は言った。
「うん。アパレルメーカーが一番多くて、次がブランドのアトリエ、フリーランス、教育関係って続いてる」
「お父さんが心配するのは、食べていけるかどうかだろ?」
「そうだと思う」
「だったらアパレルメーカーの欄を最初に見せる。名前がわかるくらいの規模の会社が複数あれば、それだけで印象が変わる」
「なるほど。名前で安心させる、ということか」
「感情を動かす話をするなら、まず相手が心配している部分を先に潰す。それからやりたいことの話をする。順番が逆だと、心配が先に立って聞いてもらえない」
キョンが俺を見た。
「またすごく具体的だな、リュウって」
「経験から言ってる」
「何の経験?」
「……まあ、いろいろ」
「いろいろって答えが一番謎」
「そのうち話す」
「そのうちばかりだな、リュウは」
「タイミングがあるから」
キョンが「はいはい」と言って、プリントに視線を戻した。呆れているのか、慣れているのか、どちらともとれる顔だった。
「練習、してみるか?」と俺は言った。
「今?」
「俺がお父さん役になる。キョンが説明してみる」
「恥ずかしい」
「恥ずかしくない。本番の前に一回やっておけば、当日落ち着ける」
「……やってみる」
「じゃあ、始め」
キョンが少し咳払いをした。俺は「うん?」という顔をした。お父さん役だ。
「えっと、服飾の専門学校に行きたいと思ってて。先週オープンキャンパスに行って、こういう卒業後の就職実績があって」
「これ、ちゃんと就職できるの?」
俺がお父さん役で返した。
「できる。アパレルメーカーへの就職が一番多くて、ここに名前が出てる会社は全部ちゃんとした規模のとこで」
「附属の大学に行けば、就職の心配をしなくていいんじゃないの?」
「附属の大学には服飾の学部がない。私がやりたいことは服を作ることで、それを専門的に学べる場所じゃないと意味がない」
「それって、趣味で続ければいいんじゃないの? 仕事にしなくても」
キョンが少し詰まった。
「難しいとこに来たな」と俺は普通の声に戻して言った。
「わかってた。ここが一番説得しにくい」
「ここの返し方は、感情で答えるしかない部分がある。データや論理で説得しきれる問いじゃないから」
「感情で、ってどういうふうに?」
「趣味と仕事の違いを、キョン自身の言葉で話す。なんで仕事にしたいのか。服を作ることが、自分にとってどういう意味を持つのか。それを正直に言う」
「……うまく言えるかな」
「練習してみればいい。今、言ってみろよ」
「今?」
「俺の前で練習する。お父さんに言う前に、一回言ってみる」
キョンが少し間を置いた。テーブルの上のプリントを見た。それから少し顔を上げた。
「服を作るときだけ、頭が全部そこに向かう感じがする。他のことを考えてるときと、集中の質が違う。趣味でやってても楽しいけど、それを仕事にした人たちの中でちゃんと学びたい。自分がどこまでできるかを、ちゃんと試したい」
静かな言い方だった。でも、力があった。
「それでいい」と俺は言った。
「本当に?」
「うん。それが一番正直な言葉だった。お父さんも、論理より先にキョンがそう思ってるということが伝わった方が動く」
「そうかな」
「そうだよ。親って、子供がそれだけ真剣に考えてると知ると、反論しにくくなる部分がある。もちろん全員じゃないけど、キョンのお父さんは話を聞いてくれる人だろ?」
「……うん。頭ごなしに否定はしないと思う」
「だったら大丈夫だ。データで安心させて、感情で伝える。この順番で話せれば、かなり違う」
キョンがプリントを折りたたんだ。
「ありがとう、リュウ」
「礼はいらない」
「また言う」
「礼はいらない」
「聞こえてる。でもありがとうって言いたいから言う」
「……わかった」
キョンが少し笑った。
「週末、報告するね」
「待ってる」
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土曜日の夜、ガラケーが振動した。
キョンからだった。メールではなく、電話だった。
「もしもし」
「リュウ、今いい?」
「いいよ。どうだった?」
少し間があった。
「言えた」
「そうか」
「全部言えた。データも見せて、なんで仕事にしたいかも話した。練習したとおりに」
「お父さんは?」
「最初はやっぱり心配してた。就職できるのか、とか、お前には合ってるのかって。でもデータを見て、少し変わって。最後に、やりたいなら応援するって言ってくれた」
「よかった」
「泣きそうになった」
「お父さんが?」
「私が」
「そうか」
「泣かなかったけど、泣きそうだった。お父さんに応援するって言われると思ってなくて」
「思ってなかったのか」
「なんか、もっと反対されると覚悟してたから。でもちゃんと聞いてくれて、最後に応援するって言ってくれて」
「キョンがちゃんと話したから、お父さんが聞いてくれたんだろ」
「リュウが練習に付き合ってくれたから、ちゃんと話せた」
「どっちかじゃなく、両方だ」
「……両方か」
「うん」
しばらく沈黙があった。電話の向こうで、かすかに息をしている音がした。
「ねえ、リュウ」
「ん」
「私、泣きそうになったとき、リュウに報告したいって思ったんだよね。一番最初に」
「一番最初に?」
「うん。お父さんに応援するって言われた瞬間に、リュウに電話しようって思った。その前に誰かに言おうとか、ミナミに言おうとか、全然思わなくて」
38歳の俺でも、これは素直に刺さった。
キョンが「一番最初に」報告したい相手だと思った。それはかなり重要なことだ。
「それは嬉しい」
「嬉しいって言うな、またこっちが困る」
「困ってるのか」
「困ってる。なんか電話してよかったのか急に不安になってきた」
「よかったよ。かけてくれてよかった」
「ほんとに?」
「ほんとに。報告、待ってたから」
「……待ってたの?」
「うん。週末に報告するって言ってたから」
「ちゃんと覚えてたんだ」
「覚えてるよ。キョンのことは、大体覚えてる」
また沈黙があった。
「リュウって」とキョンが言った。
「何」
「なんで、そんなふうに言えるの」
「本当のことだから」
「それがずるいんだよ、ずっと」
「ずるくない」
「ずるい。なんか、どこまで本気かわからなくて」
「全部本気だよ」
長い間があった。
「……わかった」
「わかったのか」
「全部は信じてないけど、半分は信じることにした」
「半分か。残り半分は?」
「もう少し見てから決める」
「見てくれるのか」
「見てる。ずっと見てる」
「知ってる」
「知ってるなら聞くな」
2人で少し笑った。電話越しで笑うのは、声だけが伝わる。それでもわかった。
「おやすみ、キョン。お父さんに話せてよかった」
「うん。おやすみ、リュウ。ありがとう、本当に」
「また明日」
「また明日」
電話が切れた。
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布団に入って、天井を見た。
キョンが一番最初に報告したい相手だと思ったのは、俺だった。
2ヶ月ちょっと積み上げてきた。毎朝の40分、生徒会室での会話、映画、クリスマスの生地屋、オープンキャンパス。全部が今夜の電話に繋がっていた。
急いでいない。でも、確実に前に進んでいる。
そのことが、38年分の記憶を持つ俺には、はっきりとわかった。
元の俺が告白した夜、キョンとの積み上げはゼロだった。だから「ごめん」しか返ってこなかった。今は違う。今夜の電話だけでも、こんなに積み重なっている。
ガラケーを開いた。
もう一度キョンとのやり取りを読み返した。
「一番最初に、リュウに電話しようって思った」
この言葉を、今夜は何度でも読み返してよかった。アラフォーがひとり布団の中でガラケーを開いて、再読している。客観的に考えると、かなり微妙な光景だ。でもやめられなかった。
ガラケーを閉じた。
2006年1月の夜。
来月から3年生に向けたクラス選択が始まる。文系か理系か。俺は文系を選んで、キョンと同じクラスになる。それは決めていた。
でも今夜の電話のあとでは、そういう計算を超えたところに、何かが動き始めている気がした。
焦るな。
でも、今夜はこのくらい浮かれていてもいい。
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*(第16話へつづく)*
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