第14話「アーティスト名と、帰り道の話」
パスタを食べながら、キョンは今日のオープンキャンパスの話をした。
工房のミシンのこと、スタッフが見せてくれた卒業生の就職データのこと、個別相談で聞いた実習カリキュラムのこと。話しながら手帳を開いて、メモの内容を確認して、また話した。テンポが速かった。普段のキョンより、言葉が多かった。
「さっきより口数が増えたな」と俺は言った。
「そう?」
「うん。緊張してたときより、今の方がよく喋ってる」
「興奮してるのかも」とキョンが言った。少し考えてから、「変?」と聞いた。
「全然変じゃない」
「なんか、頭の中で整理がついてきた感じで。話すと余計に整理できるから、聞いてくれると助かる」
「いくらでも聞く」
「また言う」
「何を」
「いくらでも聞くとか、そういうこと」
「本当のことだから」
キョンがパスタを一口食べて、少し下を向いた。
このパターンが最近増えた。俺が何か言うたびに、キョンが少し下を向く。何かを感じているのに、まだそれが何なのかを自分でわかっていない顔だった。
焦るな、38歳。こういうときに畳み掛けると台無しになる。経験上知っている。
「親への話し合い、どう進める予定だ?」と話を変えた。
「今日の情報をまとめて、週末に話そうと思ってる。お父さんには前に少し言ってあるから、今回は具体的に話せると思う」
「何が一番の反論になりそうか、予測できるか?」
「就職できるのかどうか、っていう部分かな。服飾の専門学校を出て、ちゃんと食べていけるのかって心配すると思う」
「今日もらった就職データがそのまま反論になる」
「そうだよね。だからあのデータ、コピーしてもらえばよかった」
「もらえたのか?」
「聞いたら学校から送ってもらえるって言ってた。住所か連絡先を教えれば」
「じゃあ連絡しておけ。データがあると話し合いが具体的になる」
「わかった。今日の帰りにやる」
「今日中にやるのが一番いい。鉄は熱いうちに打て、という感じで」
「鉄は熱いうちに打て、って言葉、年寄りみたい」
「そうか」
「でも合ってる」
キョンが少し笑った。
38歳の感覚でついこういう言い方が出てしまう。でもキョンは「年寄りみたい」と言いながら否定しないから、まあいいかと思っていた。
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食事が終わって、店を出た。
1月の夕方で、もう空が暗くなり始めていた。駅に向かって歩きながら、キョンが手帳をカバンにしまった。
「ねえ、約束したこと覚えてる?」とキョンが言った。
「帰り道でアーティスト名を教えてくれると言った」
「覚えてるんだね、ちゃんと」
「忘れるわけないだろ」
「いつ聞いてもいいよ」
俺は少し考えた。
「今聞いていいか」
「どうぞ」
「誰の曲だ」
キョンが少し前を向いたまま、歩きながら言った。
「熊木杏里」
俺はその名前を頭の中で繰り返した。
知っている名前だった。2000年代の前半に活動していた、静かな声の女性シンガーソングライターだ。繊細な歌詞と、ゆったりしたメロディで、根強いファンがいる。あのMDの曲調に完全に合っていた。
「知ってるか?」とキョンが聞いた。
「知ってる」
「意外。あんまり知名度高くないのに」
「ちょっと前に聴いたことがあって」
「どこで知ったの?」
「……まあ、なんかの流れで」
「なんの流れだよ」
「ちゃんとは覚えてない。でも、いい声だと思ってた」
キョンが少し立ち止まった。俺も止まった。
「本当に知ってたの?」
「本当に」
「私の好きなアーティスト、知ってたのか」
「知ってた。でもキョンが好きだとは知らなかった」
「そっか」
キョンがまた歩き始めた。少しだけ、歩く速度が落ちた。
「なんでタイミングが今日だったんだ?」と俺は聞いた。
「うまく言えないけど」とキョンが言った。「今日、リュウがずっと後ろにいてくれたじゃない。邪魔しないで、でもそこにいる感じで。それが、なんか、うれしくて」
「うん」
「うれしい人に教えたかった、って感じ。うまく言えないけど」
「うまく伝わってる」
「そう?」
「うん。ありがとう、教えてくれて」
「こっちが言う台詞だよ、それ」
「どっちが言ってもいいだろ」
キョンが少し笑った。
駅が見えてきた。電光掲示板に電車の時刻が出ていた。俺たちが乗る路線のホームまで、あと少しだった。
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電車に乗った。
席が空いていたので並んで座った。キョンがMDプレーヤーを取り出した。
「今日も聴くか?」と俺は言った。
「聴く。今日は特に聴きたい」
「なんで」
「名前を教えたから。ちゃんとわかった上で聴いてほしくて」
右のイヤホンが差し出された。
受け取って、耳に当てた。
熊木杏里の声が流れた。
今まで何十回も聴いてきた曲だったが、名前を知った上で聴くと少し違った。ただ「知らない曲」だったものが、「キョンが好きな人の曲」になった。同じ音楽なのに、意味が変わった。
「どう?」とキョンが小さな声で聞いた。
「さっきまでと、聴こえ方が変わった気がした」
「どう変わった?」
「前は音楽として聴いてたけど、今はキョンが好きだという理由が加わって聴いてる感じがする」
キョンがしばらく黙った。
「それ、うれしい言い方だな」
「そうか?」
「うん。私が好きなものを、そういうふうに受け取ってくれるから」
「これからもそうする」
「……また」
「何?」
「こっちが困ることを、あっさり」
「本当のことだから」
「それがずるいんだよ」
俺は少し笑った。キョンも笑った。電車が走った。1月の夜の街が窓の外を流れた。
40分が始まった。
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途中の駅でまとめて人が乗ってきて、席が埋まった。隣との距離が自然と縮まった。
キョンが少し俺の方に寄った。イヤホンのコードが短くなった。
「今日、来てよかったな、リュウは」とキョンが言った。独り言に近い声だった。
「俺もそう思ってる」
「なんか、今日ずっと、安心してた」
「そうか」
「うん。リュウがいると安心する。前から思ってたけど、今日は特にそう感じた」
「前から?」
「うん。なんでかわからないけど。毎朝の電車の40分もそうだし、生徒会室でも。リュウがいると、なんか落ち着く」
「それは」と俺は言いかけて、止まった。
「何?」
「いや、嬉しいと思った」
「なんで言いかけてやめたの」
「余計なことを言いそうだったから」
「余計なことって何?」
「今は言わない」
「タイミングじゃないやつか」
「そうだ」
キョンが少し考えた。
「リュウって、タイミングを待てる人だよね」
「そうか?」
「うん。アーティスト名も、ずっと待ってた。私が言うまで、一回も無理やり聞こうとしなかった」
「聞きたかったけど、キョンが決めることだから」
「それが、なんか好きだよ」
「どういう意味の好きだ」
「……また同じ聞き方する」
「クリスマスに俺が聞かれたのと同じことを聞いてる」
「うん、知ってる。今日は答える」
俺は少し固まった。
キョンが答えると言った。
「どういう意味の好きか、今日は言える?」
「うん」とキョンが言った。少し間があった。「友達として、の好き、なのかもしれない。でも」
「でも?」
「でも、なんか、それだけじゃないかもしれない、とも思ってる」
俺は何も言わなかった。
「うまく言えなくてごめん」とキョンが続けた。「自分でもよくわかってなくて。好きな人ってどういう感覚なのかが、私にはよくわからないから」
「謝らなくていい」
「なんかもどかしい。自分の気持ちがわかればいいのに、わからなくて」
「わからないまま、でいいよ」
「え?」
「わからないなら、わからないままでいい。焦って結論を出さなくていい。俺はどこにも行かないから」
キョンが俺を見た。
「どこにも行かない、って」
「このまま一緒に電車に乗って、キョンが降りるまで同じ音楽を聴いてる。それだけでいい。今は」
キョンが少し息を吐いた。
「……リュウって、なんでそんな言い方ができるの」
「なんで?」
「焦らせない。急かさない。でも、ちゃんとそこにいる。そういう人、あんまりいないと思う」
「キョンが焦らせないでいい相手だから、そうしてる」
「それは」
「何?」
「それは、また困る言い方だ」
「困らせるつもりはない」
「でも困る」
キョンが視線を前に戻した。少し下を向いた。MDの音楽が流れていた。
電車が速度を落とした。キョンの最寄り駅のアナウンスが流れた。
キョンが立ち上がった。イヤホンを俺に返した。
「今日、ありがとう。本当に来てくれてよかった」
「また誘ってくれ。どこにでも行く」
「またそういうことを」
「本当のことだから」
ドアが開いた。キョンが降りた。
ホームに立って、一度こちらを向いた。
「おやすみ、リュウ」
「おやすみ」
ドアが閉まった。
電車が走り出した。窓の外にキョンが見えた。コートを着て、リュックを背負って、ホームに立っていた。手を振らなかった。ただ見ていた。それだけだった。
すぐに見えなくなった。
俺は右のイヤホンを、もう一度耳に当てた。
熊木杏里の声が流れた。
「キョンが好きな人の曲」として聴く、最初の帰り道だった。
「友達として、の好き、かもしれない。でも、それだけじゃないかもしれない」
その言葉が頭の中に残っていた。
キョンは自分の感情がわからない、と言った。それは嘘じゃないと思う。ノンバイナリーのキョンにとって、「好き」という感情の入り口が、他の人と少し違う場所にある。みんなが当たり前のように感じることを、キョンはまだ言語化できていない。
でも「それだけじゃないかもしれない」と言った。
その「かもしれない」が、今夜の一番大事なことだった。
急かさない。でも、確実に近づいている。
それだけで、今夜は十分だった。
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*(第15話へつづく)*




