78 忍び寄るシャリウスの影
エドガーから報告されたゾレストの現状はほぼフリードリッヒの想定通りだった。町は辛うじて封鎖されずにいたが、主要道路では厳しい検問が行われていた。帝都デルレイアと違い、城壁に囲まれていないゾレストを完全に封鎖したくても、物理的に厳しいのだ。ただ海路は別で、全ての船で兵士達による厳重な立入検査が行われた。海路と主要道路が正常に機能しないとなると、ゾレストは実質上、陸の孤島となる。当然ながら物価は上昇し闇市が横行した。軍需物資の横流しなどの不正も行われ、ゾレストの治安は急速に悪化していた。
ゾレストの東にはガラキア大山脈がそびえる。このガラキア大山脈が曲者で、ガルフォンは大陸の西に広がる大国だが、北部に位置する大山脈が国を分断するように南西から東北の方に拡がっていた。北部は大山脈に押し出されような形に突き出た地形をしており、北からパルナン、ゾレスト、サンデルと並んでいる。中でも要所とされているのがゾレストであり、北部の重要拠点として、直轄領扱いでカスパードが統治していたのだ。
ゾレストの独立により北部間の物流が滞り、ルーヴェルなどは各方面への輸送の手配にかなり時間を割いていた。ただでさえ年末の忙しい時期にゾレスト問題、それにアールファレムのタヘノスへの御忍びが重なり、ルーヴェルは年末かなり多忙を極めていたのだ。
それはさておき、ゾレストには元々中央からの支配に反発する者が多い。それ故にカスパードが派遣された訳だが、そのカスパードが反旗を翻すという混沌とした状況に住民達は困惑していた。
行く宛のある者は予想される戦火を免れようとゾレストから逃亡していた。だが大半の民は不安の中で生活を続けるしかない。陰気な雰囲気が町全体を覆っていた。
「これからどうなるんだ」
「皇帝がまた攻めてきて終わりさ。それだけの事だろう」
「それだけって! これだけ物価が上がって、この上戦争だなんで冗談じゃない!」
「俺に怒るな! 文句ならカスパード陛下とやらに言えよ!」
酒場で口喧嘩を始めた男達を店主が慌ててたしなめた。ちょうど兵士の二人組が入店してきたのだ。男達は愛想笑いを浮かべ、兵士達が席につくまで黙ってやり過ごした。
兵士の一人が早速運ばれた酒を疲れた表情で勢いよく喉に流し込んだ。
「あまり無茶な呑み方をするなよ」
「これが呑まずにいられるか! あのデュークの野郎! 自分が皇帝になったと勘違いしているんじゃないのか?」
「声がでかい。落ち着けよ」
もう一人の兵士は気の弱い男のようで、周囲を見渡しながら小声で同僚を宥めた。
「あ、ああ。すまん。……しかしカスパード閣下はいったいどうなさったのだろうな」
「気を付けろ! 陛下とお呼びしろよ」
「俺が陛下とお呼びするのはアールファレム陛下だけだ」
「気持ちは分かるさ。だが俺ら下っ端にはどうしようもない」
その後も兵士達は互いに愚痴をこぼし、慰め合った。兵士達が出ていくと、暫くしてから隅にいた二人組の男女が席をたった。エドガーの部下の工作員達である。彼等はゾレストの至る所に潜り込み、情報を集めた。何人かは城内の潜入にも成功している。
どうやら士気はこの上なく悪く、無理矢理押さえつけられているようだ。ただ全体的に兵士達のカスパードに対する感情は悪くないらしい。それと仕方無い事だが、現地で徴兵された兵士と、派遣された兵士にはかなりの温度差があった。
フリードリッヒはゾレストの地図を眺めながらエドガーからの報告を受けた。
「カスパード自身の情報はないのか?」
「あまり顔を見せないようです。モーリッツ、普段はどうだった?」
エドガーがモーリッツに尋ねると、モーリッツは目を瞑りながら眉間を擦った。
「即位なさる前は普通だった。普段から明るい御方だったからな。兵士の前だけではなく、町中にも頻繁に通われ、民衆達と直接対話しようと努力なさっていた」
「モーリッツ!」
フリードリッヒは厳しい口調でモーリッツをたしなめ首を振った。モーリッツはいまだにカスパードに対して敬語を用いる。人前では気を付けているつもりだが、どうしても癖は抜けきらない。家族を人質に捕られているというのに、カスパードに対しては憎む気になれないのだ。
「申し訳ありません。……秋辺りから塞ぎこんで、デュークがでしゃばりだしたのも、この頃からです。即位の話も直接聞きませんでした。戴冠式には勿論本人も出ましたから、全てデュークの意思という訳ではないと思うのですが、あの頃から別人のようになっていました」
フリードリッヒの記憶にあるカスパードは自信家で、派手好きな男だ。ただアールファレムに対しては誠実に従っていたのだが、秋口からカスパードは不満を抱きだしたのだろう。
「予想通りデューク宰相の評判は悪いようです。カスパードを傀儡として操っているようだとも噂されています」
「デュークが宰相か」
フリードリッヒの声には強い嫌悪が含まれていた。フリードリッヒはカスパードを唆したのは、デュークだと確信している。どうしても盟友を嵌めたデュークに対して虚心ではいられなかった。モーリッツは痛ましげに目を伏せ、カスパードに思いを馳せた。
「それと気になる報告があります。これを最初に申し上げるか迷ったのですが申し訳ありません。城内でシャリウス人の目撃情報があります。しかもどうやら秋にも訪れていたらしく、デュークと接触していたようです」
フリードリッヒは驚いて、モーリッツの方を向いたが、モーリッツは慌てて首を大きく振った。
「そんな話は初めて聞いた! 本当だ!」
「分かっている。お主が知っていたら、帝都で陛下に報告しただろうさ。しかし……カスパードの背後にシャリウスか。だがそれで納得いくか」
「納得ですか? フリードリッヒ様には思い当たる事がおありですか?」
フリードリッヒの顔には強い懸念の表情が浮かび上がり、テレーゼは不安そうな面持ちで尋ねた。
「カスパードは無能な男ではない。なのに何故殊更、戴冠式のような無用の事をしたのか気になっていたんだ。私が彼の立場ならまずサンデルとパルナンを押さえる」
「確かに警戒されるだけですからね。現にゾレストは包囲されて、身動きがとれなくなっています」
テレーゼは納得したが、エドガーはそれでも得心がいかぬ様子で首を傾げた。
「しかしシャリウスと手を組む事と、カスパード側の動きの悪い事がどう繋がるのか分かりません。どちらにせよ軍事行動を先に起こす方が理に適っています」
「狙いはサミュエル王子の戴冠までの時間稼ぎだろう」
先日ジェラルド王の訃報がサンデルに届いた。フリードリッヒはジェラルド王がカスパードと手を組むとは思っていない。
「つまりサミュエル王子は父親が死ぬのを待っていたと言うのか?」
モーリッツは驚いて、敬語を用いる事すら忘れて叫んだが、エドガーは更に酷い推測を述べた。
「待っていたとは限らん。同盟国を陥れるような真似をジェラルド王が容認するとは考えにくいです。最悪サミュエル王子が邪魔な国王を殺した可能性もあります」
「王子による父親殺し! そのような推測、証拠なしに論じる訳にはいかぬ」
フリードリッヒは否定したが、嫌な予感は拭えなかった。フリードリッヒは新年に合わせて、軍事行動を起こすつもりでいた。既にシルヴィンにも報告を行っている。フリードリッヒは思考を進める中、重大な危機が迫っている事に思い当たった。
「陛下が危ない! 年明けに陛下はシャリウスに弔問に訪れるそうだ。サミュエル王子は明らかに陛下に害意を抱いている!」
「ゾレストとシャリウスが繋がっているとして、まずゾレストに兵士を集中させ、デルレイアを手薄にする。そしてジェラルド王の死を餌に陛下をシャリウスに呼び寄せ殺害し我が国に攻め込む」
エドガーが最悪の予想を打ち立てた。フリードリッヒとしては否定したいが、それを否定できる材料がない。
実際はそれに加えてルドルフとデュークにも繋がりがあり、更に事態は混沌としているのだが、ルドルフ謀反の報せはこの時点でフリードリッヒには知らされていない。皇族の謀反などという報せを最前線にわざわざ報せ、士気を下げる筈がない。
「とにかく早馬でこの情報をデルレイアに届ける。今からならまだ間に合う。我々は戻る訳にはいかない。任務がある」
フリードリッヒは断腸の思いで決断した。アールファレムの危機に駆け付けられぬ身がもどかしく、気が狂いそうなほど胸が締め付けられた。だが責務を優先すべきなのは重々承知していた。
「陛下の気性では罠と知りつつ、シャリウスに向かわれるかも知れんな」
モーリッツの推測は正しいだろう。アールファレムが一度決めた事を曲げるとは思えない。まして大恩あるジェラルド王が殺害されたかもしれないと聞かされて、大人しく出来る筈がなかった。フリードリッヒは強く目を瞑り、アルスラーダとルーヴェルなら大丈夫と自らに言い聞かせた。あの二人がアールファレムの安全をないがしろにする筈がない。シルヴィンの事も頭をよぎったが、完全には信用出来そうにない。自分の命は預けられても、まだアールファレムの命を託せるほど信頼は回復していない。
「とにかくテレーゼ、早馬の手配をしてくれ。私は至急文書をしたためる」
フリードリッヒは返事も待たずに部屋を出ていった。テレーゼもすぐに後を追うように退室し、室内にはモーリッツとエドガーが残った。
「エドガー、とにかく情報を集めてくれ。特にシャリウス関係の情報が必要だ」
「ああ勿論だ。だが計画に変更はない。新年早々に救出作戦を試みる」
「俺の家族より陛下のお命が……」
「落ち着け!」
エドガーは興奮するモーリッツの言葉を遮り、両肩を強く掴んで揺さぶった。
「どのみち陛下の事で我々が出来る事はない。我々は与えられた任務を果たすだけだ。フリードリッヒ閣下も俺もお主の家族を助ける為に全力を尽くしている」
「エドガー……。俺はどうやって詫びればよいのだ。俺のせいで何人もの兵士が危険に晒されるのに」
「お主のせいだと! 本気でそう思っているのか? 下らんな。俺は連中の卑劣な真似が我慢ならん。この帝国でその様な事を見逃せるか。それだけの事で別にお主の為ではない」
エドガーは存外に熱い男らしく、モーリッツは意外な素顔を見せる同僚の事を好ましく思った。
「ありがとう」
「話を聞いているのか? 礼を言われるような事は……。うわっ! 離せよ。気持ち悪い!」
モーリッツはたまらずエドガーに抱き付いたが、すぐに振りほどかれた。
「冗談だろうが」
「テレーゼならともかく男に抱き付かれるのは御免だ」
「女に興味があるのか?」
モーリッツの発言は失礼過ぎるだろう。エドガーは反論しようとしてモーリッツが真面目に問い掛けているのに気付いた。
「お主は俺を何だと思っているのだ」
「怒るなよ。あまり人間味がないから感情などないのかとな」
「俺みたいな仕事をしていると隙を作る訳にはいかないんだ」
「味方にもか?」
「味方だからさ。お主のようなお人好しには分からんさ」
諜報活動は何も敵相手に限った話ではない。エドガーからの情報はシルヴィンだけでなく、アルスラーダやルーヴェルまで重宝がって活用していた。
「俺がお人好し? フリードリッヒならともかく俺は普通だぞ」
親友の下で嬉々として働いているような男がお人好しでなくて誰がお人好しだというのか。エドガーは呆れたが、フリードリッヒとモーリッツ、それにハリーの三人は似た者同士なのだと妙に納得した。三人とも人が良く、友人の為なら労苦を厭わない。裏仕事をしているエドガーからすれば眩しく、ともすれば妬ましくすらある。だからこそ守りたくなるのだろうか。エドガーは首を振って、らしくない思考を強引に中断した。
「モーリッツ、もう少し人を疑った方がいいぞ」
「……今回の事で十分懲りた。だがこんな状況だからこそみんなの優しさが身に染みた」
「確かにうちのお偉方は揃いも揃ってお人好しだな。まぁ一番上の三人が狡猾だからそこは心配いらないかな」
「狡猾? ルーヴェル閣下はお優しいだろうが」
モーリッツは一応反論したが後の二人に関しては否定しなかった。シルヴィンとアルスラーダは自他共に厳しい。部下達は骨身に染みて実感している。
「優しい宰相なぞ帝国に必要ない。その事は閣下が一番理解なさっておいでだ。お主は分かってないな」
「分かりたくない。人を疑うのは嫌だ」
デュークからすればこのモーリッツを嵌めるのは赤子の手を捻るより易かっただろう。モーリッツの妻子は城に捕らえられている。デュークにとっては幾つもの布石の中の一手に過ぎない。だからこそエドガーはそこにつけこむつもりだった。シャリウスの動きに合わせているのかゾレスト側の動きは非常に鈍い。陽動で軍を動かし、その隙に潜入させた特殊部隊が一気に救出作戦に掛かるのだ。既に拘禁場所の特定は済んでおり、妻子共に健在なのは確認している。作戦には地の利を得ているモーリッツ、それにエドガー自身も参加するつもりである。フリードリッヒの参加は当然全員が反対した。大将が城内に入り込むなど正気の沙汰ではない。
「もうすぐだ。もうすぐ家族に会えるからな」
「ああ」
モーリッツは万感の思いで頷き、妻子の顔を思い浮かべた。エドガーは遠い目で窓の外を眺めるモーリッツの背中を軽く叩き、部屋を出ていった。
「リタ、フィル……。待っていてくれよ」
モーリッツは窓の外の雪景色を眺めながら、ひとりごちた。昨夜から降りしきる雪がモーリッツの視界を白く塗り潰す。モーリッツは白い景色に赤く染まる幻影を見てしまい、慌てて目を瞑った。兵士を犠牲にしてまで家族を救出する事に胸が傷むが、もう引き返す訳にはいかない。家族を取り戻す、例え何を犠牲にしてもだ。
モーリッツの決意を雪は優しく無音で包み込む。胸に手を当てると、自らの鼓動を強く感じ、ぎゅっと拳を握った。妻の、そして息子の鼓動を再び聞くまで、立ち止まる事は許されないのだ。再び目を開けた時、そこに迷いはなかった。




