63 ルーヴェルの懊悩
「やれやれだな」
思わぬ展開にシルヴィンはくたびれた様子で冷めたお茶に口をつけた。
「フィリップに助けられたな。あの子が居なければどうなっていたか想像もつかない」
アールファレムは目を瞑り、右手で瞼の上から軽く両目を揉んだ。
「アルファ様、ブルーノを受け入れて下さり、ありがとうございます」
ルーヴェルは頭を下げたので、アールファレムの複雑そうな表情を見逃した。
「贖罪になるかは分からないが、出来うる限りの事はしていくつもりだ。ルーヴェルも後見人として面倒を見てやるんだな」
「はい。そう致します」
「ルーヴェル、もう一人の弟を呼んできてくれ。今頃やきもきしている筈だからな」
シルヴィンは追い払うような仕草でルーヴェルを追い出そうとした。反論しようとしたルーヴェルはシルヴィンの真剣な眼差しに圧され、大人しく部屋を出ていった。
暫く無言が続いたが、アールファレムは大きなため息を吐き出し、ぐったりと椅子の背にもたれ掛かった。
「すまない。気を遣わせたみたいだな」
「ルーヴェルに使い走りをさせてみたくなっただけです。他意はありませんよ」
シルヴィンは躊躇したが思い切って、アールファレムの頭を撫でた。アールファレムは驚いたものの、されるままに身を委ねた。
「狭量なのは分かっているんだ。ブルーノはいい子だ。苦労しただろうにあの子は自分の事はほとんど言わなかった。家族の事だけだ」
「アールファレム様にとってルーヴェルは特別な存在です。そしてルーヴェルにとってもです。他者が割り込む事はありませんよ」
ルーヴェルのブルーノに対する愛情は今までアールファレムのみに向けられていたものだ。それをまざまざと見せ付けられ穏やかでいられるほど、人間が出来ていないのだ。今までルーヴェルの女性関係の噂を耳にしても、平静でいられたのは本気でないと安心していたせいだ。子供じみた独占欲なのは分かっている。ましてブルーノに対しては、罪悪感すら抱いている。だからこそ、このような醜い感情を認めたくない。だがシルヴィンには筒抜けだったようだ。
「最近シウには世話になりっぱなしだな」
「私では代わりにはならないでしょうが、どうか頼って下さいませ」
アールファレムは僅かに頭をシルヴィンの方へ傾けて、信頼している事を体で示した。シルヴィンは全力で自制心を働かせる必要があった。ともすればあの日の記憶が蘇りそうになる。アールファレムの柔らかい感触を思い起こしてしまい、手を引っ込めようとするが、体はシルヴィンの意思に反し、何故か頭を撫で続けた。柔らかな髪にシルヴィンの指先が沈み、時折指で梳くようにしながら、形のよい丸い頭をゆっくりと撫で、こころゆくままに堪能した。それ以外の場所に手を触れる事だけはなんとか我慢できた。
アールファレムとルーヴェルの関係に亀裂が入れば、アールファレムの精神状態はたちまち不安定になってしまう。独り立ちするいい機会ではあるのだが、本人の意思ではなく、強制的に行われた為、反発してしまうのだろう。
シルヴィンは自分にルーヴェルの代わりが務まるなどと思ってはいない。それが出来るのはこの世で一人しかいない。ただその人物にそこまでの余裕があるかどうかが問題なのだ。
扉をノックする音が響き、シルヴィンは即座にアールファレムから手を離した。だが親密な空気は残り、アルスラーダはたちまち眉間にしわを寄せた。もっともシルヴィンの前では、大抵機嫌が悪いのでとっくに見慣れていた。アールファレムはシルヴィンに信頼以上の感情を持っていないので、疚しい事はない。だからこそ無頓着でいられるのだが、時としてシルヴィンの方がひやひやしてしまい、アルスラーダの眉が更につり上がる事になる。
「暫く人払いしておく。頼んだぞ」
シルヴィンはアルスラーダの肩に手を置くと、耳元で囁き、部屋を出ていった。余計なお世話だと思いながら、アルスラーダは忌々しげに見送り、アールファレムに視線を戻した。軽くルーヴェルからブルーノの事情は聞いていた。アルスラーダは先程までシルヴィンが座っていた椅子に座ると、アールファレムの髪に触れた。
「アルファ様、大丈夫ですか?」
アルスラーダが心配そうに尋ねると、アールファレムはアルスラーダにしがみついた。アルスラーダはアールファレムの背中に手を回しながら、体に負担が掛からないように、椅子の向きをずらした。
「アルス……」
アールファレムはアルスラーダの胸に顔を埋め、名前を切なそうに呟いた。シルヴィンに慰められている時はなんとか我慢出来たのが、アルスラーダの顔を見た途端に、抑えていた感情が溢れだした。暫くそのまま動かなかったが、アルスラーダの胸がじんわりと熱く湿り、アールファレムが涙を流しているのが分かった。アルスラーダは背中をゆっくりと擦り、落ち着くまでそのままの姿勢を保った。
やがてアールファレムは顔を上げて、潤んだ瞳でアルスラーダを見上げた。アルスラーダが吸い寄せられるように口付けしたのは、ごく自然の流れだった。少しだけ慣れてきたようでアルスラーダは何度もついばむように、アールファレムの唇を味わった。余りに長い間そうしていたので、アールファレムは呼吸を乱し、脱力してアルスラーダに体を預けた。
「もう大丈夫ですか?」
「……もう少しこのままでいたい」
「正直なところ、もう限界なのですが……。アルファ様、いっそ寝室に移りませんか?」
「なっ! 昼間から!」
「ここまで煽っておいて、夜までお預けは酷くないですか?」
「煽ってない! アルスの馬鹿!」
アールファレムは慌てて離れると、止める間もなく、部屋を飛び出していった。アルスラーダは呆然として見送り、どこで間違えたのか、首を捻って悩みだした。果たして今夜誘って大丈夫かどうか、今の様子ではどうも芳しくないようだ。悩んだ末にだした結論は、いつもの解決法だった。
「ルーヴェル、ちょっといいか?」
人払いをさせてまで、相談してきた内容にルーヴェルは呆れたが、経験の少ないアルスラーダであれば、やむを得ないかと納得した。
「もう少し女心を考えろ! 直接尋ねて、はいそうします、なんて恥ずかしい事言える女がいるか! ましてあのアルファ様だぞ。そのまま抱きながら寝室に連れていけ! あくまで男主導でやむ無しに事に及んだという体をとるんだ。言い訳を残しておくんだ」
「内緒の関係なのに、いったい誰に言い訳する必要があるんだ?」
「自分にだ。昼間から情事に及ぶのは、どうしても背徳感を覚えてしまう。男が強引に行ったと自分を納得させる必要があるんだ。少しは機微を学べ。いくら頭が良くてもアルファ様を傷付けていては何にもならんぞ」
途中で拗ねだしたが、アールファレムの名前を出されて、アルスラーダはしおらしく視線を落とした。
「それで今夜はどうすべきだと思う? 傷付けたのなら止めておいた方がいいよな?」
「恥ずかしがっているだけだ。強引に居座れ! ただし絶対に周囲に気取られるなよ。元より近衛ですら夜は区画内の立ち入りは禁止しているが、宮殿内では十分注意しろ。半端な相手にばれでもしたら殺す必要があるからな」
ルーヴェルの忠告に素直に頷くと、アルスラーダは礼を言って去っていった。
「まったく坊やはこれだから困る」
アルスラーダを叱りつけはしたものの、ルーヴェルは自分もアールファレムを傷付けた事を自覚していた。シルヴィンが非難するまでもなく、ルーヴェルには分かっていた。不安そうに自分の事を見詰めるアールファレムに気付かない筈はない。
だがブルーノには自分の庇護が必要なのだ。今後宮殿で生きていくのが、ブルーノにとっていい事だとは思う。だがルーヴェルとの親密な仲を見せ付けられるアールファレムの事を思えば、どうしても胸が痛んだ。ましてやブルーノに負い目を感じているアールファレムは遠慮してしまうだろう。
今夜ルーヴェルはアールファレムと一緒に寝るつもりでいた。アールファレムに対しての愛情に陰りはない事を分かって欲しかった。ただそれはルーヴェルの自己満足に過ぎない。アルスラーダがいれば、その方がアールファレムは喜ぶに違いなかった。
ブルーノを拾った事でアールファレムを手離す事になるのなら、拾わなければよかったのか? ルーヴェルは慌てて頭を振った。それはあまりにも身勝手過ぎる考えだった。ブルーノに対しても愛情はある。アールファレムに対するものとは別で比べようもない。そこまで思考をすすめ、ルーヴェルは愕然として目を見開いた。
(比べる? 馬鹿な! アルファ様を誰かと比べるなど有り得ない)
「流石の宰相閣下も悩みだしたか。お主も人間だったのだな」
シルヴィンに声を掛けられ、ぼんやりと焦点を友人に合わせた。視界に入っていたのだが、反応できずにいたのだ。
「文句をいいにきたのか?」
珍しく余裕のないルーヴェルの様子にシルヴィンは愉快になったが、その点は指摘せずにおいた。普段の意趣返しをしたくなったが、弱味につけこむのは気がひけた。いつからお人好しになり下がったのかと自分でも意外に思うが、ルーヴェルは大事な友人だ。そして恩人でもあった。まだルーヴェルに対しても、皇帝に対しても恩義を返しきれていない。
「自覚はあるようだな」
シルヴィンが行儀悪く執務机に腰掛け、ルーヴェルの方を向くと、ルーヴェルは顔をしかめて不快感を示した。
「そろそろ諦めろよ。アールファレム様の事はアルスラーダに任せておくんだな」
「あいつに任せられるか!」
ルーヴェルは机を拳で叩き付け、仇敵のようにシルヴィンを睨み付けた。折しも雨が降りだし、まるでルーヴェルの機嫌と連動するように激しい雨音が室内まで聞こえてきた。
「それがお前の本音か? アルスラーダが一人前になれないのはお前のせいじゃないのか。お前はアールファレム様を自分のものだと勘違いしていないか」
「違う! アルファ様を幸せに出来るのはアルスだけだ。兄として見守るのが私の務めだ」
「そう言い張るなら別にこれ以上は口を出さないさ。ルーヴェル、あまり溜め込むなよ」
「私は大丈夫だ。あまり余計な気を回すな」
「そいつはどうも!」
シルヴィンはルーヴェルの髪を鷲掴みにして、至近距離まで顔を近付けた。にやりと笑うシルヴィンに嫌な予感しかしないルーヴェルは逃げようとしたが、力では到底敵わず、頭はぴくりとも動かない。シルヴィンは身構えるルーヴェルの額目掛けて、力一杯自身の額をぶつけると、ひらりと机から降りた。
「痛っ! 何の真似だ! この野郎!」
「俺も痛いんだ。我慢しろ。邪魔して悪かったな」
後ろ向きのまま手をひらひらとさせ、出ていこうとするシルヴィンを呼び止めた。
「結局何の用だったんだ?」
「余計な気を回しにきただけだ。気にするな」
目障りな銀色が視界からようやく消えた。ルーヴェルは額を擦りながら、残像を睨み付けていたが、ついに我慢できなくなり、大きな声で笑いだした。
「くそったれが!」
普段は絶対に使わないような汚い言葉で罵ると、不思議とますます気が楽になった。ルーヴェルは部下を呼ぶと、いつもの調子で仕事に取り掛かった。




