55 ルーヴェルただいま
家令のネロは内心驚愕して皇帝を出迎えた。なにせ病気の筈の皇帝が深夜突然現れたのだから驚くしかなかった。だが優秀な家令であるネロは落ち着き払った態度で、二人を応接室に案内した。
都合のいい事に、今夜はブルーノがいたため、ルーヴェルは早目に帰宅していた。ルーヴェルは夕食の席で、ブルーノから姓名以外の情報を聞き出そうとしたが、ブルーノは曖昧にはぐらかした。だが言葉の端々から、皇帝に対する敵意がにじみ出ていた。宰相としてのルーヴェルの事を、警戒しているようだが、やはり個人的な恨みはなさそうである。結局、詳しい事を話さぬまま、ブルーノは部屋に戻ってしまい、ルーヴェルも自室に引き上げた。
まだ時間も早い為、外出しようか迷うルーヴェルにネロが息を切らして皇帝の来訪を告げにきた。知らせを聞くなりルーヴェルは満面の笑みを浮かべ、部屋を飛び出した。
ルーヴェルは応接室まで走り、呼吸を整えてから扉を開けると、アールファレムが白い子犬を抱いて立っていた。
「アルファ様! お帰りなさいませ」
部屋に入るなりルーヴェルはアールファレムを抱き締めた。
「ただいま」
アールファレムは手を回したかったがジークが邪魔だった。アルスラーダがジークを受け取ると、アールファレムはルーヴェルの背中にしっかり手を回して抱き合った。
「ルーヴェル! 会いたかった!」
「お顔を見せてください。お元気でしたか?」
ルーヴェルはアールファレムの腰を左手で支え、顔を右手で撫で回した。
「ルーヴェル泣いているのか? ふふ、馬鹿だな」
そう言うアールファレムもつられてうっすら涙ぐんでしまった。
二人があまりにも長い間、他愛ない会話を交わし、いちゃいちゃするものだからアルスラーダが拗ねた。二人の間に強引に体を割り込ませ、ルーヴェルを睨み付けた。
「長過ぎるわ!」
「今までお前が独占していたんだから、ちょっとぐらいいいだろうが!」
「駄目だ! 旅の疲れが出たらどうするんだ」
「それもそうだな。先にお風呂になさいませ。その間に食事の用意をさせます。ところでアルス、その白いのは何だ?」
「ジークだ。アルファ様が拾ったんだ。預かっておいてくれ」
アルスラーダはぞんざいにジークをルーヴェルに渡し、二人は先に風呂に入る事にした。勿論別々にだ。
アールファレムが先に風呂から上がると、待ち構えていたルーヴェルは早速アールファレムの髪にブラシをかけだした。
「ルーヴェルは相変わらずだな。そういえばアルスから聞いたぞ。もう一つ好きな物があるらしいな」
「おや、なんでしょうか?」
「巨乳!」
ルーヴェルの手が一瞬止まったが、すぐに動き出した。
「違ったのか?」
「いや、まぁ、その。たしかにその傾向はあるかも知れませんが、好きというほどではないような」
ルーヴェルは頭の中でアルスラーダの首を絞め上げた。
アールファレムは両手で自分の胸を撫でて溜め息をついた。
「ルーヴェルの好みには程遠いな」
「アルファ様は晒しを巻いているせいですよ」
「それのせいだけじゃない」
「私の好みに合わせる必要はないでしょう。アルスの好みの方が大事でしょう」
アールファレムの顔が一瞬で赤く染まった。
「良かったですね」
ルーヴェルは後ろからふんわりと抱き締めた。言葉に出さなくとも二人に何があったのかは一目瞭然だった。
「ありがとう」
ルーヴェルは優しくアールファレムの頭を撫でて、最後に唇を押し当てた。アールファレムは泣き出してしまい、ルーヴェルはアールファレムを抱き上げ、長椅子に腰掛けると、アールファレムを膝に乗せてあやした。
「泣き虫になったんですか?」
「うっ、だって、ルーヴェルが優しくて……。」
しゃくりあげながら、必死に喋ろうとするアールファレムが可愛らしく、ルーヴェルは背中を撫でて落ち着かせた。
「大丈夫ですよ。アルファ様、時間はたっぷりありますからね」
アールファレムは落ち着いてもルーヴェルから離れようとしなかった。
「泣き虫で甘えん坊ですか? まったくアルスはいったい何をしていたんですか?」
「煩い。アルファ様、食事にしましょう」
アルスラーダはとっくに部屋に入っていたのだが、ルーヴェルに目で合図され大人しくしていたのだ。
「そういえばお腹空いたな。ルーヴェル、ジークはどうした?」
「餌を与えてブルーノに預けました。喜んで相手しています」
「ブルーノ? 使用人か?」
アルスラーダが尋ねたが、ルーヴェルはどこから説明していいやら悩んだ。
アールファレムとアルスラーダは食事を始め、ルーヴェルは酒を呑みながら二人の話を聞いた。二人は旅の間に起きたさまざまな事件を話した。ルーヴェルは前もって使用人には出入りを禁止しておいた。いろいろとまずい話題も出るだろうし、何よりも三人だけの時間を楽しみたかったからだ。
「そうですか。ルドルフ様がそこまで追い詰められていましたか」
ルーヴェルはしみじみと言ったが、やはり意外性はなかった。
「取り合えずイグナーツに任せてきた。イグナーツも少しは成長したみたいだし、何年かは様子を見るつもりだ」
「それはよろしゅうございましたな」
「堅苦しい言葉を使うなよ」
「すいません。アルファ様」
ルーヴェルが笑い出すと、アールファレムとアルスラーダも笑いだした。
だがアールファレムの持ってきた話は笑えない内容がほとんどだった。特にケビンの話になるとアルスラーダの眉間にしわが刻まれた。
「襲撃はなかったのか」
「ああ。それらしい気配もなかった。武術大会に参加するようだ」
「それなら問題ないだろう。お前とシルヴィンが出るんだから、安心して見ていられるな」
「いや、それがそう単純な相手ではないらしい」
「おいおい、嘘だろう!」
アルスラーダが厳しい表情で頷くと、ルーヴェルは唸ってしまった。
「随分厄介な話だな。本選に残れば仕官という規定は今更変更出来んぞ」
「なるようになるさ。ケビンの狙いが何か興味あるしな」
「呑気な事を仰いますな。サミュエル王子の刺客かも知れないのですよ」
ルーヴェルがたしなめたが、アールファレムはまったく危機感を抱いていないようだった。
「アルファ様、お疲れでしょう。今日はそろそろお休みになられてはいかがですか」
アルスラーダが体調を気遣うと、アールファレムは頭に手を載せて考えこんだ。楽しい時間が終わるのが惜しかったのだ。
「そうだ! 今日は久し振りに三人で寝ないか?」
アールファレムが声を弾ませたが、ルーヴェルとアルスラーダは嫌そうに顔を見合わせた。
「アルスが余計です」
「こっちの台詞だ!」
「そうか。残念だな」
「またジークでも抱いてお休み下さい」
「そうだな。そういえばルーヴェル、ブルーノって誰なんだ?」
アールファレムは先程聞きそびれていたのを思い出した。
「昨日拾った少年です」
「はぁ?」
「拾った?」
アールファレムとアルスラーダは同時に声を上げた。
「犬じゃないんだから、簡単に拾うなよ」
「まぁまぁ。ルーヴェル、いったい幾つの少年なんだ?」
「十二歳です。衰弱しているようだったので保護しました。身寄りはないとの事で当分は預かるつもりです」
「そうか。会ってみたいな」
「今夜はもう遅いです。明日にしましょう」
「でもルーヴェル、ジークを預けているんだろう?」
「様子を見てきます」
ルーヴェルがブルーノの部屋を覗くと、案の定ジークを抱いたままブルーノは眠っていた。
「仕方無いですね。アルファ様、ジークは諦めてください」
ルーヴェルが申し訳無さそうに言うと、アールファレムはルーヴェルの右腕に抱き付いた。
「構わないさ。ルーヴェル、寝るまで話し相手になってくれ」
「アルファ様、私も一緒に……」
「アルス、お休み」
アールファレムはアルスラーダの言葉を遮った。
「……お休みなさいませ」
アルスラーダはアールファレムに挨拶しながら、ルーヴェルの首を後ろから絞めた。
「自分の部屋で寝ろよ」
「分かってる」
ルーヴェルはにんまり笑うと、アルスラーダを追い払った。この調子ではアールファレムが一緒に寝ると言い出すのは間違いなかった。
「少しだけ呑んでから寝ようか」
アールファレムは部屋に入るなり、ルーヴェルにおねだりした。
「そういえば食事中呑んでいませんでしたね。旅の間我慢なさっていたんですか?」
ルーヴェルはすぐに使用人を呼んで持ってこさせた。二人分の酒をグラスに注ぐと、無事の帰還を祝って乾杯した。
「そうそうシルヴィンが禁酒しているんですよ」
「ほほう。何か仕出かしたのか?」
ルーヴェルはシルヴィンが酔い潰れた話や、マルクスが獅子像に粗相してモニカに叱られた話などを聞かせた。アールファレムは楽しそうに笑い転げた。
「じぃは相変わらずだな。どうせライナーが後始末したんだろう」
「勿論です。ライナーがいるから、じぃは好き放題出来るのでしょうね」
「だよな。今後もあの二人は引き離さないように気をつけよう。でないと犠牲者が出るからな」
「ライナーが聞いたら憤慨しますよ。でもまぁビクトールなんかは上手い事逃げますね」
そのルーヴェルの発言こそ、シルヴィンが聞いたら、人の事が言えるか、と罵るだろう。
「早く皆に会いたいな。明日が楽しみだ!」
「フィリップが喜びます。ずっと寂しそうにしていましたからね」
「悪い事をしたな。今度は連れていってやろう」
「次もあるのですか?」
「ああ。年明けにシャリウスに行くからな」
「そうでしたね。そうそうフィリップといえば、昨日ブルーノを拾ったのをシルヴィンの部下に見られたのですが、ブルーノがフィリップより年上と勘違いしていました」
「実際はフィリップの方が一つ上だろう? ブルーノが大きいのか?」
「痩せてはいるのですが背は高めですね。でもどちらかというとフィリップが標準より小さいような。不在中はアルファ様達の分の食事を頑張って食べていますから、ちょうど良かったかも知れませんね」
「うっ、それは大変そうだな。随分迷惑をかけているようで悪い事をしたな。たっぷり謝っておこう」
「是非そうなさいませ。アルファ様、そろそろお休み下さい。もう遅い時間ですよ」
「そうだな」
「部屋には鍵をかけています。晒しをとって寝ても大丈夫ですよ」
「……うん。その方が楽なんだが、もしもを考えると落ち着かないんだ」
「宮殿でもいつもそのままですからね」
アールファレムは言われた通り、晒しをはずした。ルーヴェルは視線を逸らしたが、特にアールファレムは気にしなかった。裸を見られても気にしない唯一の男性だからだ。
アールファレムはさっさと寝台に潜り込むと、当然のように隣を空けた。
「アルスに知られたら絶対に拗ねますよ」
「一緒に寝ないと私が拗ねるぞ」
ルーヴェルは笑いだし、アールファレムの空けた隣に体を滑り込ませた。最初からそのつもりだったのだ。
「お休みなさい。アルファ様」
ルーヴェルはアールファレムのおでこや頬などあちこちに口づけた。
「ふふ、くすぐったいな」
アールファレムはがばっとルーヴェルに覆い被さると、耳元でお休みと囁き目を閉じた。
ルーヴェルはアールファレムの胸の感触が気持ちよく、にっこり顔を綻ばせた。こうなるのが分かっていたから、晒しをはずすように言ったのだ。着々と成長しているようで一安心である。
ルーヴェルはアールファレムが一番大事だった。実のところ他の女はどうでもよかった。性欲は人並み以上にあるので、ほぼ毎晩のように違う女を抱いていたが、愛情が伴う事は一切ない。別に巨乳好きという訳ではなかったのだが、気が付けばそのような女性を選んでいるのも事実だった。母親が恋しい訳ではないと思う。
ルーヴェルの初恋の相手はアールファレムの母親のミデアだった。アールファレムとミデアは生き写しと言えるほど似ていた。
ルーヴェルの記憶にあるミデアはよくアールファレムの髪を梳かしていた。男として生きる事を強要されたアールファレムを不憫に思い、せめて髪だけでもと毎日綺麗に梳かしていた。体の弱いミデアが出来る唯一の母親としての務めだった。アールファレムは本当に嬉しそうで、そんな二人を見ているルーヴェルも幸せだった。ルーヴェルがアールファレムの髪を梳かすのを好むのは、その時の記憶からきているのかも知れない。
自分はいまだに初恋を忘れられないのだろうか? 自分が初恋を引きずるような軟弱者とは思いたくない。だがルーヴェルはいつしかミデアの顔を思い出せなくなっていた。今のアールファレムに似ていたように思うのだが、はっきりしなかった。儚げなミデアと生命力に溢れたアールファレムでは、まったく印象が違う筈だった。今ではミデアの事を思い出す方が稀だ。
自分がアールファレムに惚れる事はない。命より大切でいとおしい存在だが、そういった対象になり得ないのは本能で分かっていた。それは双方にとって都合がよかった。もしルーヴェルに告白されれば、アールファレムがどのような反応をするか想像もつかなかった。
アールファレムの可愛らしい寝息がルーヴェルを現実に引き戻した。安心しきった寝顔を見ると、心が穏やかになる。ルーヴェルは眠るのが勿体ないくらい幸せで満ち足りていたが、アールファレムの程よい重さが心地好く、ずり落ちないように背中に手を回すと、重くなった瞼を閉じた。
隣室ではアルスラーダが眠れぬ夜を過ごしていた。二人が一緒に寝ているのは間違いなかった。いくら耳をすませても扉の開く音が聞こえてこないのだ。
ルーヴェルとアールファレムにその気がないのは分かっている。だがそれでも嫌だった。ルーヴェルにまで嫉妬するのは自分の器が小さいせいだろう。アルスラーダにとってルーヴェルは、アールファレムの全てを受け止める大きい男だ。アールファレムから無条件に信頼されるルーヴェルが羨ましく、一生勝てそうになかった。
アールファレムがアルスラーダを愛しているからといって、アルスラーダが優れている訳ではない。
アルスラーダはもっと自信を持つべきなのだが、どうしても不安になるのは、過ちを犯した罪悪感からくるのだろう。何故カスパードを嵌めたのか冷静になって考えれば、まったくの愚行でしかない。アールファレムがあのような事を望む筈がなかったのだから。
今シャリウスとの間に微妙な緊迫関係が生じようとしている最中、ゾレスト問題を抱えるガルフォンは非常に難しい対応が求められるだろう。
アールファレムはむしろそれを楽しんでいるようなところがある。つまりアルスラーダが敵を用意する必要はなかったのだ。
後悔はいくらしても足りなかったが、今更どうにもならない事は分かっていた。だが目を背けず、自分の罪を償うつもりだ。アールファレムに討伐軍の参謀に命じられた時、アールファレムの真意が分からず、納得出来なかった。だが今ではアールファレムが何故自分にあの命令を下したのか理解できた。
アールファレムはアルスラーダに自分の犯した罪に向き合う機会を与えてくれたのだ。それだけの事を理解するのに、これほどの時間が必要だったのだ。器の違いを実感し、忸怩たる思いを抱いた。
強さが欲しい、アルスラーダの人生で、今ほど強さを欲した事はないだろう。強靭な精神、それにケビンに勝てるだけの力が必要だった。
アルスラーダは強い決意を胸に抱き、人知れず窓から見える冬の月に誓いを立てた。




