54 アールファレム念願の御者席へ
早朝アールファレムが目を覚ますと、一緒に寝た筈のジークの姿が見えなかった。のそのそと起き上がり、後ろの方を見ると、まだマイヤールは眠っているようだった。アルスラーダが見当たらないので、もう目覚めたのだろう。アールファレムは大きく伸びをして、馬車から降りた。
「おはよう」
「おはようございます。よく眠れましたか?」
アルスラーダが笑顔で出迎え、早速アールファレムの髪にブラシをかけだした。
他の面々は挨拶はしたものの、馬の世話に朝飯の支度と忙しなく動きまわっていた。
「なんか私だけ楽して悪いな」
「フィリップ様が気になさる事はありません」
「フィリップ様か、早く本物に会いたいな。ジークを連れて帰ったらきっと喜ぶぞ。ふふふ」
アールファレムは楽しそうに笑いだしたが、そのジークの姿が先程から見当たらず、アルスラーダに尋ねた。
「ハンスの見回りについていきましたよ」
「そうか。アルスが捨てたんじゃないかと心配したんだ」
「その手がありましたね。置いていきましょうか?」
「可愛いと思わないのか? 若旦那なんか結構気に入っていたぞ」
「もこもこして手触りはいいんですが、気に食わないですね」
まさかジークに妬いているなど、正直に言える筈がない。
「アルス、酷い事はしないでくれよ」
「ジークがフィリップ様に噛み付かない限りは、手出ししません」
「甘噛みくらいはいいだろう」
「今のうちに躾ないと大きくなったら困るでしょう。甘やかせばいいというものではないのですよ」
「ジークはどこまで大きくなるかな?」
「さぁ。雑種でしょうし、そこそこ大きくなるでしょうね。犬はだいたい一年で成犬になりますから、すぐに分かりますよ」
「たった一年で! 成長早過ぎないか?」
アールファレムが驚いていると、ハンスがジークと一緒に戻ってきた。ジークはアールファレムの元へ駆け寄り、アールファレムは全身を撫で回した。
「ジーク、ゆっくり大人になるんだぞ」
ジークは嬉しそうに吠えてアールファレムに答えた。一応あれで会話が成立しているようだ。
アルスラーダは冷ややかな眼差しで、アールファレム達を見ていた。アールファレムは小さい生き物が大好きなのだ。フィリップにも大人になって欲しくないようで、よく頭を撫で回しながら、大きくならないようにと呪いの言葉を呟いて嫌がられていた。
アルスラーダはフィリップにはやきもちを妬かない。フィリップはジークと違って、ちゃんと気遣いが出来るし、謙虚で特別扱いされていても、決して増長しない。その点、ジークはアールファレムの愛情を当然のように受け取っている。
そんなアルスラーダを見るハンスの眼差しもたいがい冷ややかだった。
「アルス様、ジーク相手に大人げないですよ」
「噛み付かないか監視しているだけだ」
「左様でしたか。それはそれは失礼しました」
ハンスもアルスラーダ相手に嫌味を言えるぐらいには、打ち解けていた。
「その様子では異常はないようだな」
「ええ。この季節は普通の旅人なら宿に泊まれるように調整しながら進みますからね。よっぽど金がないか我々のような訳ありぐらいしか野宿を選びませんよ」
「その訳ありが厄介なんだ。とっとと出発するとしよう。マイヤールを叩き起こすとしよう」
「任せろ!」
アールファレムが喜び勇んで馬車に向かったが、残念ながらマイヤールは丁度目覚めたところだった。
「ジークをけしかけようと思ったのにつまらん」
「勘弁してくださいよー」
目をしょぼしょぼさせながら、マイヤールは馬車から出てきた。
「ぐうたらな商人だな。そんなことでは儲けを逃すぞ」
アルスラーダの脅しはマイヤールには効果覿面だった。
「はいはい! 早く食べましょう」
マイヤールは一番遅いくせに張り切り出した。
「マイヤールはいいよな。髪を整える時間がいらないんだから」
「フィリップ様。朝からその話題はやめませんか」
しょんぼりするマイヤールは、アールファレムの髪に手を伸ばそうとして、アルスラーダに叩かれた。
「何とか今日中に帰るぞ。急げ!」
「はいっ!」
アルスラーダはさりげなくアールファレムの頭を撫でて、バンダナを取り出して丁寧に巻いた。
「はい。急いでくださいませ」
「ああ。ありがとう」
ハンスは二人の仲睦まじい様子がまるで恋人のように見えてしまい、慌てて目を擦った。陰で禁断の噂が立つのも頷ける親密ぶりだった。だが皇帝補佐官が忠義を尽くすのは至極当然の事で、邪推するのはアルスラーダに対して失礼だろう。ハンスは深く恥じ入り、心の中でアルスラーダに謝罪した。
食事も素早く済ませ、いざ出発という段階でアルスラーダはアールファレムに相談した。
「フィリップ様、あまり遅くなるようでしたら、直接宮殿に入らない方がいいかも知れませんね。ルーヴェルが帰っている可能性もありますし、前もってハンスに宮殿の様子を探らせてもいいかも知れません」
「確かにそうだな。予定日より大分早くなった事だしな。向こうに近づいてから考えるとしよう」
午前の行程は拍子抜けするぐらい何事もなく順調だった。
「ベッカーの話では奴は馬を持っていないようでしたし、万一ログプールで馬を調達出来たとしても、これだけ飛ばせば追い付けないでしょうな」
小休止の合間にマイヤールが安心した様子で、アルスラーダに話し掛けた。
「うーん。そのようだが、油断は禁物だ」
背後でアールファレムの眼がきらりと光っていた事を迂闊にもアルスラーダは気付かなかった。
「よしっ! 出発するぞ!」
アルスラーダの掛け声で、馬車に乗り込んだ一行だが、アールファレムは御者席に座ったのだ。
「おや、フィリップ様。御者に挑戦ですか?」
「まだまだ急ぐらしい。馬の扱いは私に任せろ!」
「させるな!」
馬車から不穏な会話が聞こえ、アルスラーダが制止したが、既に手遅れだった。
急発進した馬車は暴走を始めた。数人の悲鳴が聞こえるが、どうせ途中から叫ぶ元気もなくなる事をアルスラーダは経験上知っていた。
「追うぞ!」
茫然としている用心棒二人に声を掛けると、アルスラーダは馬車を追い掛け、遅れて用心棒達もその後に続いた。
アールファレムの活躍により夜には帝都が見えてきた。帝都に近付くにつれ往来も激しくなり、アールファレムが速度を緩めた隙にハンスが強引にアールファレムと交替した。
「お姿を見られると大変です。中に隠れて下さいませ」
「そうだな。頼んだぞ」
アールファレムは満足したようであっさりと引き下がった。
アルスラーダは馬を寄せて、ハンスにそのまま止まるよう指示すると、馬を下りて馬車に乗り込んだ。
「アルスどうかしたのか?」
「やはり時間が遅すぎるので宮殿に入るのは明朝にした方がよろしいかと思います」
「そう言えば今朝そんな事を言っていたな。どうしようかな。……よしっ! ルーヴェルの所に押し掛けよう」
「なるほど。手っ取り早いですね。ハンスは宮殿に戻って、ルーヴェルかシルヴィン大将軍に知らせてきてくれ。いなければモニカに明日戻る事を伝えてくればいい」
この二人がルーヴェルの迷惑など考慮する筈がない。
アルスラーダが御者席に座り、アールファレムを座席に下がらせた。ハンスはマイヤール達に向かって頭を下げると勢いよく馬に跨がり、一足先に帝都に向かった。マイヤールはげっそりした顔でハンスを見送った。
「はぁ。大したものですな。私などはふらふらで動けませんよ」
「おいおい、馬車に座っているだけで、何でそんなに疲れているんだ」
アールファレムは呆れ顔でたしなめたが、ジークまでぐったりしていた。マイヤールは可哀想なジークをアールファレムに渡した。
「馬車の御者席には二度と座ってはいけません! 分かりましたね!」
アルスラーダにきつい口調で言われたアールファレムは、しょんぼりとジークを撫でた。
「皆、すまなかった」
「い、いや、大丈夫です。も、もうすぐ着きますから。はい」
マイヤールはどもりながらも、アールファレムを慰めようとしたか、顔色の悪さは隠せなかった。
「ジークもごめん」
ジークはくぅーんと力なく鳴いて、アールファレムの手を舐めた。
流石のアールファレムも反省し、ゆっくりとジークを撫で擦った。
「えっとルーヴェル閣下の邸宅は中央付近ですよね」
「心配するな。先に寄って下ろしてやる」
マイヤールの本店はデルレイアの南の大通りに面していた。アルスラーダは元よりそのつもりである。マイヤールの店からルーヴェルの邸宅までは目と鼻の先である。用心棒なしでも問題はないだろう。
そうこうする内に南門が見えてきた。
「ようやく帰ってきましたな。いやなんかもういろいろありすぎて何年も離れていた気分ですよ」
マイヤールが懐かしい街並みを目の前にしみじみ言うと、アールファレムも同意した。
「そうだな。本当にいろいろありすぎた。マイヤールに会えて楽しかった。感謝している。次の機会があればよろしく頼むぞ」
アールファレムがマイヤールの肩に手を回すと、マイヤールは感激して目を潤ませてしまった。
「そ、その時はまたフィリップ様ですかな」
涙をごまかす為、マイヤールは無理におどけてみせた。
「次はフィリップも連れてきてやりたいな。そうなったら名前はどうしようかな」
「次は堂々となさったらいかがですか」
アルスラーダの提案はもっともだった。
「確かにな。結局ラジエンデ号もほとんど見学出来なかったし、やり残した事は多いな」
「次は是非とも船内をご覧いただきたいですな」
「いや次は私の旗艦が完成している筈だ。そちらで船旅をしよう」
「軍艦で旅行なさるのですか?」
「構わんだろう。楽しみだな」
「まだ建造予定すら立っていませんよ。来年は諦めて下さいませ」
アルスラーダは勝手な事を言うアールファレムに釘を差した。
「フィリップ様、デルレイアの空気ですぞ」
マイヤールがはしゃいで深呼吸すると、アールファレムも真似をした。
「本当に帰ってきたんだな」
馬車の中まで町の喧騒が聞こえてきた。喧騒などどこの町でも変わらない筈だが、懐かしく感じてしまう二人だった。
アルスラーダは慎重に馬車を進めた。南門からマイヤール商会の本店まではかなり距離がある。南が商業区画だが、中央に近付くにつれ、大手が目立つ。その中でもマイヤール商会は一番大きな建物で扱っている商品も他とは比べ物にならないくらい種類が豊富だった。
「ありがとうございます。いずれ宮殿にお礼を申し上げに伺います」
「楽しみにしているぞ」
マイヤールと用心棒を下ろすと、アルスラーダはそのままルーヴェルの邸宅に向かった。騎乗の用心棒が二人とも最後まで護衛をすることになった。
無事に到着してアールファレムは護衛の二人に握手しながら礼を述べた。二人はとても感激して、恐縮しながら帰っていった。
「ルーヴェル驚くぞ!」
「ですね」
二人は悪戯を思い付いた子供のように無邪気に笑いながら、扉の前に並んだ。




