48 ハンス、皇帝と仲良くなる
アールファレムはラジエンデ号での二日目の大半を、居間と専用デッキを往復しただけで過ごした。
ジークはアールファレムの暇潰しの相手としても、防寒具としても中々良い働きを見せた。アルスラーダはジークの働きを認め、珍しく誉めた。褒美がわりにたっぷりと撫で過ぎて、嫌がったジークが逃げ出し、アールファレムを大笑いさせた。
「だいたいアルスは愛情が足りないんだ。ジークだって馬鹿じゃない。それぐらい分かるさ」
「まったく無いものを足りないと言われても困ります。アルファ様の手を煩わせるだけの生意気な毛玉に好意を持てと? アルファ様の癒しになると思えばこそ、見逃しているのですよ」
たかが子犬相手によくそこまでむきになれるものだと、感心するハンスだったが、賢明にも言及は避けた。意外すぎるアルスラーダの素顔は、とても人間らしく好ましいものだった。ハンスの好意的な眼差しに気付いたアールファレムは、慈しむような微笑みを浮かべた。ハンスは顔を真っ赤にして、主君の笑顔に見惚れたが、慌てて首を振って気合いを入れ直した。
ハンスはそばかすの残った童顔をすごく気にしていた。今まで年齢通りに見られた事は一度もなく、永遠にそばかすが消えないのではと危惧していた。
栗毛色の髪に茶色い瞳の平々凡々などこにでもいるような青年が、近衛にまでなれたのは彼の努力の賜物だろう。僅か二十六歳でここまでの出世を遂げたのには、運も確かにあった。皇帝の即位とともに近衛が編成された。皇帝が若い為、近衛には大勢の若い兵士が抜擢された。実力と人柄が審査されたと聞いて、ハンスは誇りで胸が一杯になり、皇帝を守る事を仲間と共に宣誓した。あの日の誓いはハンスの魂に刻まれ、決して薄れる事はない。
宮殿で幾度か声を掛けられた事はあったが、こうして一緒の部屋で過ごした経験などはない。せいぜい室外の警護を命じられたぐらいだった。それすら近衛の中では、大変栄誉な任務ではある。近衛の重要な仕事の一つに、脱走した皇帝の捜索がある。皆、自分こそが皇帝の好みを理解しているとばかりに、必死に街中を捜索するのだ。見付けた連中は次回まで皆から羨望の眼差しで見られるのだ。ハンスも幾度か駆り出されたが、一度も見付けた事はなく悔しい思いをしていた。
今回の任務を仰せつかり、喜び勇んでタヘノスに来たまではよかったが、連日の失態でハンスは自己嫌悪に陥っていた。何故かいつも厳しいアルスラーダが、優しく見逃してくれ、アールファレムからも一度注意を受けただけで、その後は何もなかったように接してくれた。
あまり叱られないと、むしろ自分に叱る価値もないと落ち込みそうになるが、どうやらそうではないらしい。二人の中では既に終わった事らしく、普通に接してくれているだけのようだった。甘えるわけにはいかないと気を張るハンスだが、アールファレムに笑われた。
「ハンス、室内なんだ。もう少し気を抜くんだな。なんだったらジークでも抱いて落ち着け」
アルスラーダから逃げ出したジークをアールファレムは差し出した。
「少し抜けます。ハンス、暫く留守を頼む」
興味がない様子のアルスラーダは渋い顔をしたまま部屋を出ていってしまった。ハンスはジークを受け取り抱き上げた。ジークは人懐こい犬でどうやら誰にでも尻尾を振るようだ。アルスラーダはそこが一番気に食わないのだが、そんな事を犬が理解出来る筈がない。
「犬は好きか?」
「はい。大きい犬を飼っています。母に一番なついているようで、僕はどうやら下に見られています」
「ははは。ジークはどうなんだろうな。まさか私より偉いつもりでいるのではないだろうな」
アールファレムは屈みこんで、ジークの顔を覗いた。
(へ、陛下ー。お、お顔が近すぎますー!)
ハンスは声にならぬ悲鳴を上げた。勿論、皇帝が男であることは分かっていても、アールファレムほど綺麗であれば別だ。しかも心なしか以前より艶っぽさが増したような気がする。より中性的になったように思うのだが、今まではそれほど近くにいた訳ではないので、緊張して舞い上がっているだけかもしれない。
ハンスは早くアルスラーダに戻ってきて欲しいような、このまま二人きりでいたいような複雑な心境に苛まれた。
「近衛には私の留守は無事隠せているのか?」
「はっ、はい。お恥ずかしながら、ルーヴェル閣下とシルヴィン閣下に呼ばれるまではまったく気付きませんでした。陛下がご病気と聞いて心配していたので、お元気そうで安心致しました」
「留守を気取られる訳にはいかなかったからな。無駄な心配をかけてすまなかった。ハンス、帝都に着くまでよろしく頼む。頼りにしているからな」
アールファレムが笑顔で、ハンスの肩に手を置くと、ハンスは感激のあまり固まってしまった。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
アールファレムがハンスのおでこに手を当てると、ハンスは大きく後ろにのけぞった。
「すまん。嫌だったか」
「ち、違います。畏れ多くて恐縮してしまっただけでございます。自分のような未熟者を気にかけて下さるなど、勿体ない事でございます」
「そうか、そうか」
アールファレムはにんまり笑うと、ジークごとハンスを抱き締めた。
「へ、陛下ー!」
ハンスの叫びが聞こえたのか、アルスラーダが血相を変えて、部屋に飛び込んできた。
「何をしておいでですか?」
背筋が凍るようなアルスラーダの問い掛けに、ハンスは懐かしさを感じた。そうアルスラーダはこうでなくてはいけない。心の中で頷き、アールファレムの動きを待ったが、ハンスに抱き付いたまま動こうとはしなかった。
「どうもハンスがよそよそしいのでな。仲良くなりたいと思ったんだ」
「陛下、仲良しになりましたから、どうか離れて下さい!」
ハンスは涙声になって必死に訴えた。ジークを抱いたままで身動きがとれなかったのだ。
「そんなに嫌がらなくてもいいのに」
ぶつぶつ言いながらやっとの事でアールファレムは離れた。ジークは窮屈だったらしく、抗議するように鳴いて逃げ出した。
「ハンス。室内でもフィリップ様とお呼びするように昨日言った筈だ! 部屋の外まで叫び声が聞こえたぞ!」
ハンスは皇帝と補佐官が交わしていた日常的な会話の内容を覚えている。会話中アルスラーダはずっとアルファ様と呼んでいた。確かに禁止されたのはハンスであって、アルスラーダではない。しかしあまりに不平等ではないのか。身分が違うのは分かるが、アールファレムの正体がばれないように気遣う必要がアルスラーダにもあるはずだ。
「申し訳ありませんでした。ですが閣下……」
「ですが?」
「いえ、敬意を欠くような気がして、どうしても出来なかったのです」
こうまで睨み付けられて、正直に言える筈もなくなんとか無難な返答を捻り出した。アールファレムが割って入り、ハンスを後ろに庇った。
「元々私がからかったせいだ。ハンスを責めるな。それにアルスに人の事が言えるのか。今日お前の口から何回アルファと聞いたかな」
アルスラーダは痛いところをつかれ、言葉を詰まらせた。ハンスは心の中で皇帝万歳と快哉を叫んだが表情には出さない。
「ハンス、随分嬉しそうだな。まぁ私も言い過ぎた。今後は私も気を付ける。お互い気を抜かないようにしよう」
感情が顔に出てたらしく、ハンスは羞恥で顔を赤くした。
アルスラーダが手を差し出すと、単純なハンスはそれだけで胸を熱くし、力を込めて握手を交わした。アールファレムはにこにこしながら二人の手を両手で包んだ。どうやら仲間に入れてもらいたかったようで、アルスラーダは可愛過ぎて撫でたくなるのを必死で我慢した。
「フィリップ様、夕食にマイヤールとベッカーを誘いました。勝手な事をして申し訳ありません」
きっちり呼び名を変えてアルスラーダは一礼した。マイヤールの部屋はすぐ隣だ。道理で早く戻ってきた筈だった。
「それは楽しみだな。この部屋では少し手狭かな」
アールファレムの感覚は宮殿基準だ。一般的には十分過ぎる広さがあった。
「五人ぐらい問題はありませんよ」
「五人! 私は別でとります。そんな……」
ハンスは慌てて固辞した。昨日から三人は一緒に食事をとっており、その度にハンスは食べた気がしなかった。その上、客人まで同席するとなれば、叶うことなら遠慮したい。
「先程、気を抜かぬ様、約束したばかりだ。お側を離れるつもりか」
「いえ、警護に専念するつもりです」
「ならハンスはいつ食事をとるのだ?」
アールファレムは不思議そうに聞いた。勿論、宮殿では近衛が皇帝と共に食事をする事は一度もない。だが旅に出てからは、アルスラーダやリベリオはずっと一緒に食事をとっていた。昨日からはハンスも共にしていたので、普通になっていたのだ。本当は嫌だったのだろうかと、アールファレムは内心寂しさを感じた。アールファレムの表情が曇ったのに気付き、ハンスは深々と頭を下げた。
「後ほどいただきますので、どうかお気遣いなさらぬようお願い致します」
「効率が悪過ぎる。却下だ。既にマイヤールに頼んでいる。それとも何か、私が一緒では嫌なのかな」
アルスラーダはわざと嫌な言い方をして、ハンスを観念させた。肩を落として返事するハンスをアールファレムは慰めた。
「マイヤールもベッカーも中々いい男だぞ。楽しい食事になりそうだ」




