104 イグナーツの成長
特別貴賓室に戻ったイグナーツは長椅子に身を投げ出し、深い溜め息を付いた。道すがらリッケンから何度か声を掛けられたが無視を続けた。今もリッケンは心配そうに、だが少し距離をおいてイグナーツを見守っていた。
自己嫌悪に苛まれたイグナーツは右手で自らの両目を覆い、リッケンに気付かない振りをしてやり過ごした。何を言えばいいかも分からぬまま時間だけが過ぎ、ようやく気持ちの整理をつけてリッケンを見やると未だに同じ姿勢で立っていた。イグナーツは身を起こすと顔を上げて、リッケンと向き合った。
「ごめん。僕はいつになれば一人前になれるのだろうね。少しはましになれたと自惚れていた自分が恥ずかしいよ。こんな有り様では兄上に未熟者だと笑われても仕方無いね」
リッケンの前ではイグナーツは素の自分をさらけ出すことが出来る。言葉を飾らず、思うままに弱音を吐いても、リッケンだけは馬鹿にせず、いつでもイグナーツの味方でいてくれた。
死んだ兄の存在をイグナーツに未だに意識している。兄の仕事を肩代わりしている今の方がより強くなった。ルドルフが簡単そうに片付けていた案件ですら、今のイグナーツは四苦八苦しながらこなしているのだ。
だがそれは当然なのだ。ルドルフにはテオという優秀な部下がいて、何よりイグナーツもいた。今のイグナーツには心から信頼出来る部下はリッケンしかいない。だがリッケンは武官であり、イグナーツの為に頑張ってはいるのだが、領地経営に関してはイグナーツが一人で処理するしかないのだ。
兄の補佐をしていた頃は難なくこなしていたので少しは自信もあったのだが、全責任が自分にあるとなれば、おのずと慎重にならざるを得ない。
実際のところ引き継ぎなしにも拘わらず、繁雑な年度末を大過なく納めたイグナーツの手腕は部下からは中々の評判なのだが、本人の自己評価は低い。
「イグナーツ様が未熟者? ご冗談を! 今のイグナーツ様を見ればルドルフ様は誇りに思われるでしょう。陛下の前での堂々たる態度に感服致しました。もっと自信をお持ちください」
リッケンは励ましなどではなく本気で思っていて、自分の実力を認めようとしないイグナーツに対して怒りすら抱いていた。ルドルフの部下達が大人しくイグナーツに従ったのは、ルドルフの弟だったことが大きいだろう。だが今では一生懸命に領主として励むイグナーツに大半の者は好意を抱いている。
ルドルフは不得手な分野は部下に丸投げだったが、イグナーツにはそれがない。専門家に任せる方が効率がいいのは確かである。だがルドルフは良い結果以外を認めなかった。良くて当たり前、悪ければ責任のみを追求されるのでは部下達が萎縮するのは当然である。
イグナーツは分かろうと努力して、理解した上で部下に任せ、最終責任が自分にあることを部下にはっきりと明言してみせた。しかも手柄はきっちりと評価するのだから、自ずと士気も上がった。
同じ任せるのでも部下達のやる気が違うのは言うまでもない。こうして代替わりして一ヶ月未満しか経過していないにも拘わらず、部下達は積極的に仕事に打ち込むようになったのだ。これはイグナーツがもたらした結果であり、元々イグナーツ配下のリッケン小隊の面々などは、うちのイグナーツ様は素晴らしいんだと得意気に自慢するのだった。
イグナーツは謙虚だが、度が過ぎれば卑屈になりかねない。リッケンが度々注意して自信が出てきたところで、テオが事件を起こしてしまったのだ。兄の腹心のテオを見捨てるなど優しいイグナーツに出来る筈がなかった。勇気を振り絞ってアールファレムとの交渉に臨んだイグナーツにまさかの結婚話である。
王族など名ばかりと思っていたイグナーツだったのだが、逆に王族故に利用されようとしていたのだ。尊敬しているアールファレムにどうして逆らえようか。
アールファレムがイグナーツの意思を尊重すると言ったのは本音に違いない。年上の従兄弟は敵には非情になるが、味方に理不尽なことを強いるような人ではない。アールファレムが軽い気持ちで頼んだのだと頭では理解していた。
「俺は陛下を見損ないました。人の弱味につけこむような恥ずかしい真似をするとは、とても王者のそれとは……」
「リッケン黙れ! いや……すまない。お願いだから陛下を悪く言うのは止めてくれ」
とっさに出た叱責にさえイグナーツは謝り、リッケン相手に哀願するのだから、それ以上は何も言えなくなる。
「僕の為に怒ってくれてありがとう。でもいいんだ。ちょっと混乱しただけだからね。どうせそんな相手もいなかったんだがら、良かったかも知れないよ。僕には女性を口説くなんて器用なことは出来そうにないしね。姫様との縁談なんて想像もしてなかったから驚いただけだよ。あっ、まだ決まった訳じゃないか。早とちりしちゃたね」
いつになく饒舌になるイグナーツをリッケンがまじまじと見詰めると、イグナーツはてへっと笑い頭を掻いて視線を下に落とした。
「ごめん……ちょっと無理してた。でも大丈夫。突然だったから心の準備が出来ていなかったんだ。一応は貴族の端くれなんだから、小さい時から政略結婚する覚悟はあったさ。心配しないでくれよ。僕はそんなに頼りないかい?」
どうやらイグナーツは混乱から立ち直ったようで、本物の笑顔を浮かべた。リッケンは跪くと、イグナーツの手をとって、額に押し当てた。
「俺は何があってもイグナーツ様の味方です。だから絶対に俺には本音を話して下さい。一人では抱え込まないようにして下さい。俺じゃ力不足でしょうが、必ず何とかします」
イグナーツは泣きそうになって、リッケンの後頭部に自分のおでこをくっつけた。
「リッケンありがとう。さっきからありがとうとごめんばっかり繰り返している気がする。これからも頼りにしているね。後はテオも戻ってきてくれたらいいんだけどね」
二人は奇妙な姿勢をとっている。リッケンが頭を上げようとしたらイグナーツを押し上げてしまう。リッケンは首が凝りそうになるのを我慢しながら返事した。
「あいつなら大丈夫です。イグナーツ様、きっと全て上手くいきますよ。綺麗な姫様を領主夫人にお迎えしても、タヘノスが今よりもっと栄えても、俺やテオがイグナーツ様を支えていきます」
リッケンが言葉の限りを尽くしてイグナーツを励ましていると、前触れもなく扉が開いた。
「イグナーツ様! 喜んでくだ……! あれっ? ひょっとしてお邪魔でしたか?」
レイフが笑顔で室内に飛び込んできたが、イグナーツ達の親密な様子に、悪いことをしたかとリッケンの顔色を窺う。
「違うわ! この馬鹿! 何の用だ?」
わざとらしくイグナーツと距離をとり、大声で聞き返すリッケンを疑いの眼でレイフは見ていたが、イグナーツからも無言で催促され、はっとして、再び興奮した様子で報告を再開した。
「兵士の方からイグナーツ様への伝言を預かってきました。まだ時間は掛かるそうですが、今日中にテオさんを釈放するよう上からの命令があったようです。宮殿内は行動が制限されているので、この区画には入れませんが我々の部屋までなら許可が出ました。釈放され次第連れてくるそうです。その取り込み中だったみたいで本当にすいません」
隊員達の間ではリッケンの禁断の片思い説が人気を博しているのだ。そしてレイフは隊員の中で一番のお調子者である。口止めをしようものなら、レイフが更に大袈裟にして広めるに違いない。リッケンはあまりの馬鹿馬鹿しさに目眩がしそうだった。
「取り込み中というほどではなかったよ。リッケンは僕が落ち込んでいるのを慰めてくれていたんだ。レイフ、僕も皆と一緒にテオを待つよ。お邪魔していいかい?」
部下達が気楽に待機している部屋に自分がいっては気疲れしないかイグナーツは遠慮がちに尋ねた。
「隊長はともかくイグナーツ様を嫌がる奴はいませんよ」
「一言余分だ!」
レイフの頭に拳骨を一発落とすと、リッケンはイグナーツを振り返った。
「さぁ行きましょう!」
「うんっ!」
イグナーツは元気よく返事をすると、颯爽と部屋を出ていき、リッケンが嬉しそうに目を細め、付き従った。レイフはというと隊長分かっていますよと言わんばかりの視線を向けていたが、幸いなことにリッケンは気付いていなかった。気付いていたら、もう一発拳骨が追加されるに違いなかった。




