第9話 毒の産声
国立魔法学園では、公爵家などの一部の高位貴族に限り、新入生であっても自身のサロンを設立することが許可されていた。入学早々、圧倒的な魔法の才と剣技を見せつけたジークリットがサロンを開いたのは、ごく自然な流れだった。彼女のサロンは和やかなお茶会ではなく、高みを目指す者たちのための厳しい『修練場』として、瞬く間に学園の中心となった。
しかし。
「……招待状、来なかったな」
放課後の薄暗い廊下で、フォルビアはポツリと呟いた。婚約者である自分の元には、彼女のサロンへの誘いは一切なかった。魔法の成績が底辺である自分がお呼びでないことは分かっていたが、それでも「自分は彼女にとって取るに足らない存在なのだ」という事実を突きつけられたようで、胸の奥が冷たく軋んだ。
足は自然と、彼女のサロンが開かれている修練場へと向かっていた。中に入ることはできない。フォルビアは太い柱の陰に身を潜め、そっと様子を伺った。
「ジークリット様、お時間を頂けますか。この炎魔法の術式展開なのですが……」
「貴方たち、なぜこんな初歩的な構築でつまずくの? 魔力の流れが根本から間違っているわ」
修練場の中央では、数人の男子生徒に囲まれたジークリットが、腕を組んで彼らを見下ろしていた。厳しい口調と冷ややかな金色の瞳。しかし、彼女の口から紡がれる助言は、魔法の理を的確に捉えた真剣なものだった。彼女自身が血の滲むような努力で得た知識を、一切の妥協なく伝えているのだ。だが、柱の陰からそれを見つめるフォルビアの紫の瞳は、どす黒い泥のように濁っていった。
「……気色が悪い」
フォルビアには分かっていた。ジークリットを囲む男子生徒たちは、神妙な顔で頷きながらも、魔法の指南など上の空なのだ。彼らの視線は、術式が描かれた黒板ではなく、ジークリットの艶やかな橙色の髪に、白く滑らかな首筋に、喋るたびに動く形の良い唇に釘付けになっている。ほんのりと頬を赤らめ、うっとりと彼女の美貌に魅入るそのだらしない顔。指導を口実に、少しでも『太陽の女神』にお近づきになろうとする浅ましい下心。ジークリット本人は、他人の才能や努力にしか興味がないため、彼らの熱っぽい視線に全く気づいていない。それがさらに、フォルビアの神経を逆撫でした。
あいつら……僕のジークに、なんて目を向けてるんだ。汚い。馴れ馴れしく話しかけるな。見つめるな。
ギリッ、と。柱に押し当てたフォルビアの爪が、白く鬱血する。
ジークは僕の婚約者だ。僕のものだ。なのに、どうして……っ!
嫉妬の炎が、内臓を焼き焦がすように暴れ狂う。今すぐ飛び出して行って、あの羽虫どもを叩き潰してやりたい。彼女をマントで包み隠して、誰の目にも触れない暗い部屋の奥底に閉じ込めてしまいたい。しかし、今のフォルビアには何の力もない。飛び出したところで、力のある彼らに嘲笑われ、ジークリットに呆れられるだけだ。ドクン、ドクンと、焦燥感が激しい警鐘を鳴らす。早くしなければ。早く彼女を無力化し、僕の腕の中に閉じ込めなければ。あんな有象無象の視線に晒される前に。彼女が誰かに奪われてしまう前に。
「……急がないと」
フォルビアは血の滲むような思いで修練場から背を向け、自室へと急ぎ足で向かった。机の上には、まだ未完成のポーション。効果は弱く、一時的なものしか作れていない。これでは駄目だ。彼女の魔力回路を完全に沈黙させ、僕なしでは生きられないようにする『完璧な枷』を、一秒でも早く完成させなければ。
「急ぐよ、ジーク。待ってて」
薄暗い部屋に飛び込み、アルコールランプに火を灯す。青白い炎に照らされたフォルビアの顔には、嫉妬と焦燥、そしてドロドロとした執着が入り混じった、狂気的な笑みが浮かんでいた。あんな羽虫どもが絶対に寄り付けない、泥の底の鳥籠を完成させるために。フォルビアは寝食を忘れ、更なる深淵の知識へと没頭していくのだった。
国立魔法学園での生活が数ヶ月を過ぎた頃。一学年の生徒たちは、学園の裏手に広がる『演習の森』での実戦訓練に臨んでいた。
「きゃあああっ!」
「下がれ! 陣形を立て直すんだ!」
予定外の高ランク魔物――四つの目を持つ巨大な黒狼の出現に、生徒たちはパニックに陥っていた。そんな中、無能な三男坊を演じるフォルビアは、いかにも怯えた様子で木の陰にへたり込んでいた。ガタガタと震えながらも、彼の紫の瞳だけは、戦場の中央を舞う一人の少女を、冷たく、そして熱を帯びた眼差しで正確に追っている。
「……炎槍、展開!」
凛とした声が響く。ジークリットだ。彼女は怯える男子生徒たちを庇うように前に出ると、鮮やかな手柄で炎の槍を何本も生成し、黒狼の急所を正確に穿った。断末魔を上げて崩れ落ちる魔物。土煙が晴れた後、微かに汗をかいた彼女が振り返ると、助けられた男子生徒――高位の侯爵家の子息が、頬を真っ赤にして彼女を見上げていた。
「ジ、ジークリット様……っ、ありがとうございます! 貴女のその力と美しさ、まるで戦乙女のようで……!」
「当然の対処をしたまでよ。貴方たち、少し実力不足が過ぎるのではないかしら」
冷たく言い放つジークリットだったが、その整った横顔には、自分の力で危機を乗り越え、称賛を浴びたことへの誇り高い優越感が微かに滲んでいた。
……ああ。また、僕のジークが誰かを魅了している。
木の陰で、フォルビアは自分の唇を血が滲むほど強く噛み締めた。彼女の輝きが増せば増すほど、彼女に焦がれる有象無象が増えていく。彼女自身も、その『外の世界』からの称賛に喜びを見出している。
僕の手の届かない場所へ、彼女がどんどん高く羽ばたいていく。早く。早くしなければ。
その日の深夜。男子寮の特別室は、かつてないほどの薬品の匂いと、ドロドロとした熱気に包まれていた。フォルビアは血走った目で、フラスコの中でコポコポと沸騰する透明な液体を見つめていた。
「……できた」
歓喜の震えが、彼の全身を駆け抜けた。それは、完成品には程遠い。ほんの数時間、魔力回路の巡りを悪くし、身体に気怠さを残す程度の『試作品第一号』だ。しかし、これは紛れもなく、彼が初めて生み出した『彼女を鳥籠に繋ぎ止めるための鎖』だった。フォルビアは、それを最高級の茶葉に一滴残らず染み込ませた。
翌日の放課後。珍しく、ジークリットがフォルビアの誘った茶会に顔を出していた。前日の実戦訓練で大きな魔力を消費したため、サロンを休み、少し休息を取りたかったのだろう。彼女は、休息を取りたい時にしかフォルビアの誘いに乗らなかった。
「お疲れ様、ジーク。昨日の君、すごくかっこよかったよ」
「……見ていたのなら、貴方も少しは戦う努力をしたらどうかしら。木の陰で震えているだけなんて、公爵家の人間として恥ずかしくないの?」
「ご、ごめん……」
いつものようにオドオドと謝りながら、フォルビアはティーポットを傾けた。トクトクと、琥珀色の液体がカップに注がれる。芳醇な香りの裏に潜む、無色透明の猛毒。
「はい、君の好きな紅茶だよ」
「……」
ジークリットは何も疑うことなくカップを手に取り、優雅な所作でそれを口に含んだ。コクン、と。彼女の白い喉が鳴り、液体が体内に落ちていく。その瞬間、フォルビアの心臓がドクンと大きく跳ねた。
飲んだ。飲んでくれた。僕が彼女のために、僕の全てを懸けて作った愛の結晶を、彼女は自分の身体の奥深くまで受け入れてくれたのだ。
「……ん?」
ふと、ジークリットが微かに眉をひそめた。カップを置き、自分の左手を不思議そうに見つめる。
「ジーク? どうかした?」
「……いえ。少し、身体が重いような……。昨日の訓練の疲労が残っているのかしら。魔力の巡りが、なんだか……」
薬が、効いている。確実に、彼女の力の一部を蝕み始めている。
「大丈夫!? 無理しちゃ駄目だよ、ジーク。僕でよければ、肩でも揉もうか……?」
フォルビアは心配そうに身を乗り出し、いかにも頼りない婚約者として振る舞いながら――その実、テーブルの下でギュッと自身の膝を掴み、狂気的な歓喜に震える身体を必死に抑え込んでいた。
「結構よ。貴方に触られたら余計に疲れるわ」
「そ、そっか……ごめんね。でも、ゆっくり休んでね。君が辛いと、僕も悲しいから」
冷たく突き放す彼女を見つめるフォルビアの紫の瞳は、これまでにないほど甘く、ドロドロとした熱を帯びていた。
いいんだ。今はまだ、僕の言葉なんて響かなくていい。君が『疲労』だと勘違いしているその気怠さは、僕の愛だ。君はもう、僕がいないと生きられない身体へ向けて、一歩踏み出してしまったんだよ。もっと、もっと君に飲ませてあげる。そしていつか……。
「美味しいわね、この紅茶」
「……うん。君のために、特別に用意したからね」
夕日に照らされた温室で、二人の歪な茶会は静かに続く。誇り高き太陽は、自身の身体を蝕む微熱の正体に気づかないまま、彼が用意した毒という名の蜜を、最後の一滴まで飲み干したのだった。
つづく




