第10話 微細な綻び
国立魔法学園での生活が始まり、数ヶ月が過ぎた頃。ジークリットは、学園の修練場でふとした『違和感』を覚えていた。
「……炎槍!」
短い詠唱と共に放たれた炎の槍は、的のど真ん中を正確に貫き、爆炎を上げた。
「さすがジークリット様! 完璧な威力と速度ですわ!」
周囲の生徒たちが感嘆の声を上げる。外から見れば、それは紛れもなく『天才の完璧な魔法』だった。しかし、術者であるジークリット本人だけが、微かな、本当に微かなノイズを感じ取っていた。
……今、魔力の練り上がりが、ほんの〇・一秒ほど遅れた?
威力が落ちたわけではない。ただ、自分の身体の奥底にある魔力回路へのアクセスが、一瞬だけ泥に足を取られたように重かったのだ。その日の夜、彼女は自室で一人、密かに魔法を試してみた。だが、今度は何事もなく、指先から流れるように魔法が発動する。何度試しても、昼間に感じたあの遅れは再現されなかった。
気のせい……?疲労が溜まっていただけ……?
ジークリットは怪訝に眉をひそめながらも、それ以上深く考えることはやめた。自分が不調に陥るなど、あり得ないことだからだ。
――しかし、その「気のせい」は、月に数回の頻度で、不規則に彼女を襲うようになった。ある日は剣が少し重く感じる。だが翌日には普段通りに振るえる。ある日は魔力の出力が九十九%しか出ない気がする。だが次の瞬間には百%に戻っている。他人が見ても絶対に分からない。彼女自身の超感覚だけが捉える、微細すぎるノイズ。それは、誇り高い彼女の精神に「私がおかしくなったのか?」という、正体不明の焦燥感を少しずつ植え付けていった。
「……今日は、毒はなし。鎮静剤だけを一滴」
一方、男子寮の特別室。フォルビアは、ジークリットとの茶会に持参する茶葉を前に、スポイトの先端を慎重に操っていた。彼のデスクには、彼女の体調や魔法の精度、そして茶会の日程を事細かに記したカレンダーが置かれている。彼が作った試作段階の『弱体化ポーション』は、あえて効き目を極限まで薄めてある。急激に力を奪えば、プライドの高い彼女であっても優秀な治癒術師や医者を頼るかもしれない。そうならないために、フォルビアはわざとポーションを使ったり、使わなかったりして、彼女の身体と精神を撹乱していた。
本当に病気なら、症状は常に続くはず。でも、日によって治ったり悪くなったりすれば、ジークは絶対に『ただの疲労だ』と自分に言い聞かせる。
彼女は誰にも相談できない。弱みを見せることが出来ない人だから。そうやって彼女が一人で焦燥感を募らせ、神経をすり減らしていくことこそが、フォルビアの真の狙いだった。卒業までの三年という月日をかけて、彼女の心をじっくりと、確実に『この鳥籠』へと依存させるための、緻密な調律。
「お待たせ、ジーク」
学園の温室。フォルビアは、今日もいつもの頼りない笑顔でティーポットを傾けた。向かいに座るジークリットは、腕を組み、僅かに目元に疲労の色を滲ませている。自身の内なる不調に苛立ち、誰の目にも触れないこの場所へ、無意識のうちに逃げ込んでくるようになっていた。
「……遅いわ。早く淹れなさい」
「ご、ごめんね。はい、君の好きな紅茶だよ」
差し出されたカップを、彼女は無造作に手に取り、口に運ぶ。今日の紅茶には、魔力を奪う毒は入っていない。ただ、彼女の苛立ちを優しく溶かす『鎮静剤』だけが、ほんの少しブレンドされている。一口飲むと、張り詰めていた神経が嘘のように解れ、ジークリットはホッと微かな吐息を漏らした。
……馬鹿みたい。私が、こんな無能な男が淹れるお茶で安堵するなんて。
心の中で己を嘲笑いながらも、彼女はカップを手放すことができなかった。フォルビアは、そんな彼女の様子をテーブル越しにじっと見つめている。
「最近、少し疲れているみたいだね。無理しないでね、ジーク」
「……何度も言わせないで。貴方に心配される筋合いはないわ」
冷たく突き放す言葉とは裏腹に、彼女の金色の瞳は、ほんの少しだけ強がりが揺らいでいるように見えた。フォルビアは、テーブルの下でギュッと自身の膝を掴み、狂気的な歓喜に震えそうになるのを必死に堪えた。
いいよ、ジーク。その調子で、ずっと一人で迷って、僕のところへ逃げておいで。君の不調も、君の安らぎも、全ては僕の掌の上でコントロールされているんだ。
夕日に照らされた温室で、オドオドと愛想笑いを浮かべる青年の瞳だけが、獲物が完全に罠にかかるその日を待ちわびて、泥のように甘く、そして暗く濁っていた。
つづく




