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凡人婚約者は天才令嬢を逃がさない  作者: 柊原 ゆず


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第8話 亀裂の入る未来


 学園に入学してから、一ヶ月が過ぎようとしていた。ジークリットは早くも頭角を現し、『太陽の女神』と称されるほどになっていた。

 夜の帳が下りた男子寮の特別室。蝋燭の炎が揺れる中、フォルビアは音もなく現れた従者――サラからの報告を聞き、完全に動きを止めていた。


「……冒険者、だと?」

「はい。ジークリット様はサロンでの活動の傍ら、冒険者ギルドの規約や、魔物討伐に関する文献を密かに集めておられます。どうやら、十八歳で成人し、ギルドへの登録資格を得るその時を見据えて動いておられるかと」


 淡々と告げられたその事実は、フォルビアの足元を根底から揺るがした。下がっていい、とサラを手で制し、一人きりになった部屋でフォルビアはゆっくりと椅子に沈み込んだ。


「冒険者……。ジークが……?」


 政略結婚とはいえ、彼女は自分と結婚し、『マクファーレン公爵夫人』として共に一生を添い遂げるものだと、フォルビアは疑っていなかった。いや、そうであってほしかったのだ。たとえ自分に愛が向いていなくても、形だけでも彼女が自分の所有物であり、自分が彼女を守れる安全な場所に一生いてくれると、そう信じ込んでいた。

 しかし、彼女にとって結婚はゴールなどではなかった。十八歳で結婚し、公爵家という後ろ盾を得た後、彼女は冒険者として世界へ羽ばたくつもりなのだ。危険な魔物が跋扈し、自分の手の届かない、果てしなく広い世界へ。

 冒険者として名を馳せるジーク。……その時、僕は彼女の隣に立てるのか?

 答えは、火を見るよりも明らかだった。剣も魔法も乏しい無能な夫など、死と隣り合わせの冒険者の隣には不要だ。足手まといでしかない。彼女はきっと、自分を安全な屋敷に置き去りにして、一人で眩しい光の中へと飛び立っていく。あるいは、同じ高みにいる才能あふれる男たちと共に、肩を並べて戦うのだろうか。


「……離婚」


 ふと、最悪の二文字が脳裏をよぎった。貴族の法律では、婚姻から三年が経過しても跡継ぎができない場合、離婚が認められる。彼女なら、その法すらも利用して、自分という『しがらみ』を完全に切り捨てるかもしれない。


「駄目だ。絶対に駄目だ……っ!!」


 ドンッ! と、フォルビアは力任せにデスクを叩きつけた。離婚なんて絶対にさせない。彼女が僕の手の届かない場所へ行くなんて、絶対に許せない。彼女の世界から僕がいなくなるなんて、考えただけで息が止まりそうになる。


「でも、どうやって……?」


 力で彼女を閉じ込めることはできない。魔法で縛ることもできない。権力で冒険者になることを禁じれば、彼女は僕を心底憎み、力尽くで僕を殺してでも逃げ出すだろう。荒い息を吐きながら、フォルビアの視線がデスクの端を彷徨う。そこには、これまで書き溜めてきた黒革のノートが何冊も積まれていた。学園の生徒たちの弱みを握り、彼女を害する者を排除するために書き連ねてきた『彼女を守るためのノート』。

 しかし。力を持たない者が、圧倒的な力を持つ者を意のままに操るには、どうすればいい?彼女を『守る』ための知識は、裏を返せば、彼女を『害する』ための最悪の武器になるのではないか?

 フォルビアの震える手が、積まれたノートの一番下――最も古く、擦り切れた一冊のノートを引き抜いた。それは、彼がまだ幼かった頃。彼女の役に立ちたいと願い、公爵家の図書室で無我夢中に書き写した『最初のノート』だった。

 ページを捲る。そこに記されていたのは、かつて彼が「恐ろしい」と震えた、あの猛毒の記述。


『――紫闇の根から抽出される猛毒。摂取した者の魔力回路を完全に“破壊”し、二度と魔法を行使できなくする』


 フォルビアの紫の瞳が、その一文に吸い寄せられるように凍りついた。


「魔力回路の、破壊……」


 もし、彼女が魔法を使えなくなったら。剣を振るう筋力すら失ったら。冒険者になどなれるはずがない。危険な外の世界へ行くこともできない。自分を置いて、どこかへ飛び去ってしまうことも、絶対にない。けれど、フォルビアは首を振った。


「……でも、破壊は駄目だ。ジークの身体を壊すなんて、そんな乱暴なこと、僕にはできない」


 フォルビアはノートの文字を愛おしげになぞりながら、ブツブツと呟き始めた。その口元が、ゆっくりと、ゆっくりと、三日月のように歪に吊り上がっていく。


「……破壊するからいけないんだ。……魔法を、剣を、一時的に『眠らせる』ことができれば。いや、少しずつ彼女の力を奪って、完全に僕に依存させることができれば」


 そうだ、それなら彼女は傷つかない。僕が一生、彼女の手足となって世話をしてあげればいい。そうすれば、彼女は一生僕のそばにいてくれる。離婚なんて言葉、二度と思いつかないくらいに、僕なしでは生きられない身体にしてあげればいいんだ。


「あはは……なんだ、簡単なことじゃないか。僕が、ジークの『世界』になればいいんだ」


 薄暗い部屋に、狂気に満ちた、甘く低く笑い声が響き渡った。彼女を守るための盾になるはずだった純粋な決意は、たった今、彼女の自由を奪い去る最も恐ろしい『枷』へとその姿を変えた。机に置かれたアルコールランプの青白い炎が、本格的な『弱体化ポーション』の開発へと乗り出す青年の、ひどく恍惚とした横顔を照らし出していた。


つづく

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