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凡人婚約者は天才令嬢を逃がさない  作者: 柊原 ゆず


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番外編 冒険者を夢見る少女の青写真


 王立学園に入学して間もない、春の夕暮れ。

 ジークリット・プラタナスは、学園の制服の上から目立たない黒色の外套を深く被り、王都の裏通りにある建物――『冒険者ギルド』の重い木扉を押し開けた。

 酒と汗、そして魔物の血の匂いが染み付いた喧騒の中、外套のフードを下ろした彼女の黄金の瞳が、冷静にギルド内を見渡す。貴族の令嬢など絶対に立ち入らないような場所に現れた彼女を、荒くれ者の冒険者たちが物珍しそうに、あるいは値踏みするように見つめていたが、彼女から放たれる特級の魔力の気配に気圧され、誰一人として不用意に近づこうとはしなかった。


「……受付は、ここかしら」


 ジークリットは、受付のカウンターに銀貨を数枚置き、驚いた顔をしているギルド職員を見据えた。


「高ランク魔物の出現地、および未踏破の魔境に関する最新の調査資料をちょうだい。それから……腕利きの情報屋を紹介してほしいのだけれど」


 なぜ、未来を約束された天才である彼女が、このような裏社会の真似事をしているのか。それは、彼女が『プラタナス伯爵家の令嬢』としてのみ生きることを良しとしていなかったからだ。


「……お待たせしました、お嬢さん。こちらが要求された資料です。情報屋については、あそこの隅のテーブルにいる男に声をかけてください」

「ええ、ありがとう」


 職員から受け取った分厚い羊皮紙の束を手に取り、ジークリットはそのままカウンターの端で素早く資料に目を通し始めた。

 ……なるほど。南部の『茨の谷』に、Aランク指定の双頭竜(キマイラ・ワイバーン)の目撃情報。軍の討伐隊はまだ編成されていない、か。羊皮紙に描かれた不正確な魔物のスケッチと、冒険者たちが走り書きした周辺の地形図。それを見た瞬間、ジークリットの頭脳は恐るべき速度で回転し、完璧な討伐の算段を導き出していく。

 双頭竜は火炎のブレスを吐くけれど、その直前、肺に大量の魔力を集める数秒の隙ができる。谷の地形を利用して風の魔法でブレスを押し返し、その隙に足元から『氷槍(アイシクル・ランス)』の陣を展開すれば……単独でも、三分で沈められるわね。

 他にも、未踏破とされる東の魔境の毒瘴気も、彼女の結界魔法の出力をもってすれば容易く突破できる。学園の座学などでは決して得られない、生死を懸けた実戦のシミュレーション。彼女は、自分の中に満ち溢れる強大な魔力が、これらの脅威をあっさりと凌駕できる事実を冷静に、そして確信を持って分析していた。

 だが、今の彼女が実際に討伐へ赴くわけにはいかなかった。フォルビア・マクファーレン公爵令息の婚約者でもある彼女が、護衛もつけずに危険な魔境を徘徊しているとバレれば、『貴族の令嬢としてあるまじき素行不良』とされ、逆に立場を悪くしてしまう。あくまで『軍の要請や学園の行事などの公的な場』で、誰の目にも明らかな形で華々しく活躍しなければならない。

 また、彼女が今ギルドで情報を集めているのは、『軍が手を焼いて助けを求めてきた時』に、即座に最短ルートで完璧な討伐を成し遂げ、自身の価値を最大限に高く売り込むための『事前準備(シミュレーション)』だ。

 今はまだ『その時』ではないと、ジークリットは冷静に判断していた。

 ……マクファーレン公爵家の三男との婚約。あれは、ただの時間稼ぎに過ぎない。

 資料から目を離し、彼女は自身の左手の薬指――今はまだ何もない、真っ白な指先を冷ややかに見つめた。

 フォルビアとの婚約は、父が決めた政略だ。公爵家との繋がりを維持するため、魔力を持たない無能な三男坊の『箔付け』として自分が利用されることくらい、彼女も理解している。

 あの庭園で出会った彼は、おどおどとしていて、自分がいなければ何もできないような、ひどく頼りない少年だった。

 彼を嫌いなわけではない。だが、私の生涯の伴侶としては、あまりにも不釣り合いだわ。……結婚したら、三年だけ耐えてやる。私がこの力で圧倒的な武功を立て、誰もが認める英雄の地位に登りつめれば、発言権は完全に私へと傾く。そうすれば、この『白い結婚』を終わらせることができる。

 それが、彼女の描く未来の青写真だった。

 無能な彼を守るふりをしながら、自身の絶対的な価値を高め、誰も逆らえない圧倒的な武功を立てる。そのための情報収集として、彼女は王立魔導院の公式記録だけでなく、冒険者ギルドの『生きた情報』を求めたのだ。

 フォルビア。可哀想だけどあなたは、私がもっと高く飛ぶための、ほんの小さな踏み台でしかないのよ。

 ジークリットは、資料を鞄にしまい、外套の裾を翻して情報屋の男との交渉の席についた。

 彼女の黄金の瞳は、自信と野心に満ち溢れ、これから始まる栄光の未来だけを真っ直ぐに見据えていた。

 ――だが、この時の彼女は知る由もなかった。

 自分が『無能な踏み台』だと思い込んでいるあの気弱な少年が、彼女の想像を絶する深くて黒い泥沼であり、彼女が羽ばたこうとしているその空ごと全てを囲い込むための『巨大な鳥籠』を、すでに密かに編み始めているということを。

 気高き太陽は、自身の完璧な計画がたった一人の凡人によって知らぬ間に絡め取られ、鳥籠の中へ囚われる結末など微塵も疑うことなく、眩しいほどの自信に満ちた笑みを浮かべていた。


Fin.

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