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凡人婚約者は天才令嬢を逃がさない  作者: 柊原 ゆず


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第38話 終焉の解呪


 温室での狂気的な解析が始まってから、さらに二週間。

 ジークリットの足元には彼女の血と魔力、そして摘み取られた植物の命を練り上げて描かれた、巨大で複雑な『解呪の魔法陣』が完成していた。


「……出来たわ」


 血の気を失い、ひどく青ざめた顔で、ジークリットは呟いた。この数週間、彼女は自身の睡眠も食事も極限まで削り、ただひたすらにフォルビアの深淵と向き合い続けた。彼の歪んだ愛の構造を理解、同調し、それを逆算して破壊するための『黄金のメス』を己の命を削って研ぎ澄ませてきたのだ。


「お疲れ様、僕の神様。……本当に、君は世界一の天才だ」


 魔法陣の中央、かつてティータイムを楽しんだ白亜のテーブルの上。そこに自ら仰向けに横たわっているフォルビアが、シャツの胸元をはだけさせながら、心底嬉しそうな声で彼女を称賛した。彼は抵抗するどころか、彼女が自身の魂を解体しやすいように自ら進んで生贄の祭壇に寝そべっているのだ。その紫の瞳にあるのは、微塵の恐怖もない。自分の全てを暴き、破壊しようとする女への、おぞましいほどの『全幅の信頼』と『献身』。


「……これから、お前と私の心臓を繋ぐ魔力回路を、物理的かつ概念的に切断するわ」


 ジークリットは、テーブルの横に立ち、彼の胸の傷跡を見下ろした。彼女の右手には、極限まで圧縮された黄金の魔力が鋭い刃のように実体化している。


「少しでもお前の魔力が抵抗すれば、術式が暴走して、お前の心臓は内側から破裂する。……死にたくなければ、絶対に逆らわないことね」

「逆らうわけないだろう?君が僕の魂の奥深くまで入ってきて、僕の愛の結び目を一つ一つ解いてくれるんだ。……こんなに幸せなことってないよ」


 フォルビアは、恍惚とした笑みを浮かべ、無防備に両腕を広げた。

 「さあ、好きに解剖して」。そう言わんばかりの態度に、ジークリットはギリッと奥歯を噛み締め、黄金の刃を彼の胸へと突き立てた。

 ズチュッ……!

 物理的な肉体ではなく、魔力の根源を直接切り裂く不快な感触。ジークリットの意識が、再びあの暗く重い、フォルビアの精神の泥沼へと沈んでいく。

 ……切る。私が生きるために。この化け物から、私を切り離す……!

 泥沼の底。二人の命を繋ぐ、ドロドロとした赤黒い呪いの糸の束。ジークリットは黄金の刃を振るい、その糸を一本、また一本と容赦無く切断していった。


『あぁっ……!ジーク……っ、もっと……っ』

『痛い……君が、僕から離れていく……っ!でも、君の刃が熱くて、たまらない……!!』


 糸を切るたびに、泥沼全体がフォルビアの歓喜と苦痛の混じった悲鳴で激しく波打つ。その感情の激流が、同期しているジークリットの精神にもダイレクトに流れ込んでくる。彼の狂気が、愛が、執着が、糸を断ち切る刃を伝って彼女の脳髄を直接愛撫してくるのだ。

 ッ……吐き気がする……!でも、あと少し……!

 ジークリットは精神を侵食されそうになるのを必死に堪えながら、最後の一番太い呪いの結び目に、黄金の刃を深々と突き立てた。


「――消えなさいッ!!」


 カァァァァァァッ!!

 温室全体が、目を開けていられないほどの黄金の閃光に包まれた。強烈な魔力の反発が起き、床に描かれた陣が焼け焦げ、周囲のガラス扉が粉々に砕け散る。


「はぁっ……!はぁっ……っ!!」


 ジークリットは弾き飛ばされるように後ずさり、床に膝をついた。全身が鉛のように重い。だが、心臓の鼓動を確かめると、これまで常に感じていた『フォルビアの魔力の脈動』が完全に消失していた。

 成功した。

 命の同期は断ち切られた。彼が死んでも、彼女は死なない。部屋も潰れない。今なら、この場であの男の首を掻き切れば、彼女は完全に自由になれるのだ。


「……あはっ、……はは、はははははっ!」


 テーブルの上から、掠れた笑い声が聞こえた。フォルビアが、ゆっくりと身を起こす。魔力回路を強制切断された代償で彼の口や鼻からは大量の血が溢れ出していたが、その顔には過去最高の、聖人のような美しい笑みが張り付いていた。


「すごい……本当に、僕の呪いを解いてみせたね、ジーク。……僕の命は今、完全に君のものだ。……さあ」


 フォルビアは自身の左胸を押さえながら、ふらつく足でテーブルから降り、ジークリットの目の前に膝をついた。そして、床に落ちていた鋭い『ガラスの破片』を拾い上げると、それをジークリットの手の中にそっと握らせたのだ。


「約束通り、僕を殺して。……君を苦しめた僕の喉笛を、君のその美しい手で、今度こそ完全に噛み千切ってよ」


 それは、究極の降伏であり、究極の愛の証明だった。自分の命が完全に相手の手の中にあることを喜び、彼女の手によって世界から消し去られることを、彼は心の底から切望していた。


「……ええ。お望み通りに」


 ジークリットは、血に濡れたガラスの破片を握り締め、彼の首筋へと冷たく突きつけた。刃の先が皮膚を破り、ツーッと一筋の赤い血が流れ落ちる。あと数センチ押し込めば、頸動脈を切り裂き、この悪夢は全て終わる。外の世界が彼女を必要としていなくても、彼女は自身の誇りを取り戻すことができる。

 ……はずだった。


「……」

「……どうしたの、ジーク。早く。僕の血で、君を美しく染め上げてよ」


 フォルビアは、自ら首を刃へと押し当てながら、うっとりと目を閉じた。

 だが。

 ジークリットの手は、そこから一ミリたりとも動かなかった。

 ……なぜ?

 ガラスを握る彼女の手が、小刻みに震えている。

 殺したい。憎い。この男のせいで、私の人生はめちゃくちゃになった。

 殺意はある。呪いも解けた。条件は全て揃っている。

 だが、その刃を振り抜いた後、この温室で『一人』取り残された自分を想像した瞬間。彼女の心に、底知れぬ『虚無』がぽっかりと口を開けたのだ。

 こいつを殺したら……私の頭の中を埋め尽くしているこの熱は、どこへ行くの?

 この数ヶ月。彼女の頭脳は、彼を殺すためだけにフル回転していた。彼の血を飲み、彼の魔法に触れ、彼の魂の底の底までを理解した。

 外の世界の平和も、冒険者としての夢も、もはやどうでもよくなっていた。彼女の人生というキャンバスは、すでに『フォルビア・マクファーレンという極彩色の狂気』によって、一寸の隙間もなく塗り潰されてしまっていたのだ。

 彼を殺すということは、自分自身の存在意義、今の彼女の全てを喪失することと同義だった。


「……ぁ……あ……っ」


 ジークリットの口から、掠れた嗚咽が漏れた。

 物理的な鎖を断ち切ったことで、彼女はついに、自分の中に張り巡らされた『本当の鎖』の存在に気づいてしまったのだ。

 カラン、と。

 彼女の手から、血に濡れたガラスの破片が滑り落ち、硬い音を立てて床に転がった。


「……っ、ジーク……?」


 フォルビアが、ゆっくりと目を開ける。目の前には、刃を落とし、両手で顔を覆って、絶望に打ち震える太陽の姿があった。


「ああ……そういう、ことか……」


 事態を正確に理解した瞬間。フォルビアの紫の瞳に、この世の全ての真理を悟ったかのような、至高の歓喜が満ち溢れた。


「君は、僕がいないと、もう生きていけないんだね」


 彼は、震えるジークリットの身体を、狂おしいほどの愛おしさを込めて強く、深く抱きしめた。


「殺したいほど憎いのに、僕がいなくなれば君の心には何も残らない。……だから、刃を落とすしかなかった。……ああ、なんて美しいんだろう。これこそが、僕がずっと欲しかった『永遠の愛』だ……!」


「……違う、私は……私は……っ!!」


「違わないよ。君は僕を理解しすぎた。僕の狂気を、君のその気高い魂で飲み込みすぎてしまったんだ」


 フォルビアは彼女の耳元で、甘く、悪魔のように囁く。


「もう逃げられないよ、ジーク。魔法の呪いなんて、最初からただの飾りにすぎなかったんだ。……君の心そのものが、もう僕という『鳥籠』の形になってしまったんだから」


 ジークリットがフォルビアを殺そうと足掻けば足掻くほど、彼の毒は彼女の精神の根幹へと深く染み込んでいた。物理的な呪いを解いたことで完成したのは彼女の自由ではなく、決して抜け出すことのできない『精神の鳥籠』だったのだ。


「……あ、あぁああぁぁっ!!」


 自身の敗北と、取り返しのつかない変質を悟ったジークリットは彼の腕の中で、ついに完全に崩れ落ちた。憎しみすらも彼への依存へとすり替わってしまった、絶望と狂気の泣き声が、壊れた温室に響き渡る。

 その気高い太陽の残骸を、フォルビアはまるで世界で一番尊い神の像を抱きしめるように、うっとりと撫で続けた。

 二人の知恵比べは終わった。

 凡人の執着が天才を喰らい尽くし、憎悪という名の極上の愛で溶け合った果て。

 ここから先は誰にも邪魔されることのない、永遠に狂おしい『完璧なハッピーエンド』だけが続くのだった。


つづく

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― 新着の感想 ―
さいっこう! こういう堕とすやり方もあるのかと勉強参考になります!
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