第37話 断絶の刃
精神の深淵から帰還して以来、温室の空気は以前にも増して重く、甘く、そして息苦しいものに変わっていた。
ジークリットは羊皮紙を何枚も無駄にしながら、脳裏に焼き付いた『命の同期』の術式図を完成させようとしていた。しかし、ペンを握る指先が時折、自身の意志に反して小さく震える。
目を閉じればあの紫の泥沼が、そしてそこから聞こえてきた無数の『自分を呼ぶ声』が、鼓膜の裏側で反響するのだ。
「……あいつを消せば、この声も消えるわ。あいつを殺せば、私は自由になれる」
自分に言い聞かせるように呟くが、その言葉はどこか空虚だった。彼の魂を覗いたことで、ジークリットは気付いてしまった。フォルビアにとって、彼女は『愛する対象』である以上に、彼がこの残酷な世界で正気を保つための『唯一の楔』なのだ。彼から自分を切り離すということは、彼という存在そのものを完全に崩壊させること。そして、その崩壊の余波は同期している彼女の魂をも無傷では済ませない。
「ジーク。……そんなに根を詰めないで。少し、休んだら?」
不意に背後から、温かな体温が近づいてきた。フォルビアが、看病の時と同じように自然な動作で彼女の肩に手を置く。かつてなら反射的に振り払っていたその手に、今のジークリットはピクリと反応しただけで、拒絶の言葉を飲み込んだ。
「……お前のせいで、計算が遅れているのよ。黙っていてちょうだい」
「ふふっ。僕の魂の中を、あんなに熱心に調べてくれたんだものね。……どうだった?僕の中の『僕』は。君が思っていたよりもずっと醜くて、重かっただろう?」
フォルビアは彼女の首筋に顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。彼の紫の瞳には以前のような『隠された狂気』ではなく、全てを晒した後の『全幅の信頼』という名の、より質の悪い光が宿っている。
「……ええ。吐き気がするほどにね。あんな場所には、二度と近づきたくないわ」
「でも、君はもう知ってしまった。……僕がどれほど君を必要としているか。そして、僕がいなければ今の君は『お前を殺すための天才』という役割すら失ってしまうことも」
フォルビアは彼女の左手を取り、銀の指輪の上から優しく自身の指を絡めた。
「君が僕の呪いを解こうと苦悩するたび、僕と君の魂の結び目はより深く、複雑に編み込まれていく。……ねえ、ジーク。君が僕を切り離そうと研ぎ澄ませているその『刃』は、そのまま僕たちの愛の形そのものなんだよ」
「……黙れと言ったはずよ、フォルビア!!」
ジークリットは、ついに爆発するように立ち上がり、彼を強く突き飛ばした。しかし、彼女の金色の瞳は、かつてのような純粋な殺意だけで満たされてはいなかった。そこには、初めて見る『戸惑い』と『恐怖』が混じり合っている。
彼を殺さなければならない。だが、彼を殺すために彼を理解すればするほど、彼女の思考はフォルビアという存在に侵食され、彼を構成する要素の一部として組み込まれていく。
彼を憎むことが、彼への執着になり。彼を拒絶することが、彼への理解に変わる。
「……私は、お前とは違う。お前の狂気に、呑み込まれたりしないわ」
「うん、分かっているよ。君は気高くて、強くて、美しい太陽だ。……だからこそ、僕の闇を焼き尽くしに来てくれるのを、ずっと待っているんだよ」
フォルビアは、床に膝をついたまま、恍惚とした表情で彼女を見上げた。
その瞳には、ハイライトが一切ない。ただ、彼女という光を反射して、沼のように深く、暗く輝いているだけだ。
「……次は、心臓の鼓動を同期させる術式の、最深部を解体するわ」
ジークリットは、震える手で再びペンを握った。
彼女は気付いている。次に彼の深淵に触れる時、自分はさらに深く、逃れられない場所まで引きずり込まれるだろうということに。それでも、彼女には止まるという選択肢はなかった。
彼を殺すために。
あるいは、自分を取り戻すために。
ジークリットは、自らの魂を削りながら、フォルビアという名の底なし沼へと、再び指先を伸ばしていく。
黄金の鳥籠、偽りの温室。
二人の天才が織りなす「殺意」と「共依存」のタペストリーは、もはや解くことも、断ち切ることもできないほど、一色の『絶望的な愛』へと染まりつつあった。
つづく
フォルビアとジークリットのお話は、残すところあと2話となりました。
最後まで楽しんでいただけたらと思います。




