第36話 深淵を暴く指先
地下最下層の広大な温室は、わずか数週間で、華やかな茶会の場から『狂気の魔術実験室』へとその姿を変貌させていた。美しい白亜のテーブルには、解読中の禁書が山のように積まれている。色とりどりの花々は無惨に摘み取られ、その茎や根は、床に描かれた複雑怪奇な魔法陣の『魔力伝導線』として利用されていた。人工の陽光を浴びて怪しく脈打つ植物たちは、今やジークリットの膨大な演算を補助するための、巨大な有機魔導回路の一部と化している。
「……駄目ね。三層目の魔力パスで、どうしても私の魔力とあいつの魔力が反発してショートする。……『命の同期』の呪いの結び目はもっと深い、魂の根源に近い部分にあるわ」
ジークリットは、インクで汚れた指先で羊皮紙に数式を書き殴りながら、苛立たしげに舌打ちをした。フォルビアを殺すためにはまず、自身の心臓とこの部屋の結界、ひいては彼の命を繋ぐ『同期の呪い』を完全に切断しなければならない。しかし、生き延びるために彼の血を啜り、魔力を共有し続けているせいで、二人の魔力はすでにマーブル模様のように複雑に絡み合い融合しつつあった。これを外科手術のように一糸乱れず分離する術式を編み出すことは、神の御業にも等しい難行だった。
「お疲れ様、ジーク。……すごいな。僕が趣味で育てていた植物を、まさか空間座標の固定触媒に使うなんて」
背後から、呑気な声が響いた。振り返ると、いつの間にか温室に入ってきていたフォルビアが、床に描かれたおどろおどろしい陣を避けるようにして近づいてくるところだった。彼の片手には、淹れたての紅茶が乗ったトレイがある。
「……私の思考の邪魔をしないで。今、いいところだったのに」
「ごめんごめん。でも、君があまりにも美しいから、つい見惚れちゃって」
フォルビアはテーブルにトレイを置くと、散乱する禁書と魔法陣の中心に立つ彼女を見渡し、うっとりと目を細めた。
「ねえ、ジーク。君は気付いているかい?」
「何が」
「もし君が外の世界にいたなら。君のその素晴らしい頭脳は、魔獣の生態研究だとか、新しい農業魔法の開発だとか、国や他人のために使われていたはずだ。……でも」
フォルビアの紫の瞳が、とろけるような熱を帯びて三日月型に歪む。
「今の君のその美しい脳内には、朝から晩まで、四六時中『僕』のことしかないんだよ。僕の魔法、僕の血、僕の心臓、僕の呪い……。君の世界の全てが、僕という存在だけで埋め尽くされている」
その指摘に、ジークリットはペンを握る手をピクリと止めた。
図星だった。彼女はここ数週間、外の世界の情勢や、かつて夢見た冒険者のことなど、一度たりとも思い出したことがなかった。
彼女の思考の百パーセントは、『どうやって目の前のフォルビア・マクファーレンを出し抜き、その首を掻き切るか』という命題にのみ支配されていたのだ。
「……それがどうしたの。お前という汚物を、私の世界から一秒でも早く排除するための掃除の計算よ」
「ふふっ。愛でも、殺意でも、そんなのはどっちでもいいんだ。君の全神経が僕だけに向いているという事実だけで、僕は死ぬほど満たされているからね」
フォルビアは、悪びれる様子もなく最高に幸せそうな笑みを浮かべた。外の世界との繋がりを断ち、憎悪という名の鎖で彼女の思考を完全に自身へと繋ぎ止める。それこそが、彼が完成させた『究極の純愛』の形だった。
「……気持ち悪い男。そこまで言うなら、お前のその狂った頭の中を、物理的に解剖してやろうか」
「いいよ。……『命の同期』の呪いを解きたいんだろう?」
フォルビアの不意の言葉に、ジークリットは鋭い視線を向けた。
「あの呪いの術式構造は、禁書をいくら読んでも載っていない。なぜなら、僕の魂の形そのものを編み込んで作った、僕だけのオリジナルだからね」
「……でしょうね。だから解読に手間取っているのよ」
「なら、直接見せてあげるよ。僕の『深淵』を」
フォルビアは、自身のシャツのボタンを外し、かつて彼女が治癒した『左胸の生々しい傷跡』を無防備に晒した。そして、両手を広げ、ジークリットに向かって甘く微笑みかけた。
「僕の魔力の根源に君の魔力を直接繋いで、中を覗いてごらん。……ただし、一歩間違えれば、君の精神は僕の狂気に呑み込まれて、二度と自我を保てなくなるかもしれないけどね」
それは、究極の罠であり、同時に究極のショートカットだった。敵の魔力の心臓部に自身の意識をダイブさせるなど、自殺行為に等しい。彼の言う通り、あの底知れぬ狂気の海に呑まれれば、彼女の精神は完全に崩壊し、彼の操り人形になり果てるだろう。
だが。
ジークリットの口の端が、獰猛な弧を描いて吊り上がった。
「……上等よ。お前のその薄汚い魂の構造、隅から隅まで暴き出して、必ずへし折ってあげる」
一切の躊躇なく、ジークリットは歩み寄った。フォルビアの左胸の傷跡の上に、彼女は自身の右手を力強く押し当てる。
「ッ……!」
直後、ジークリットの視界が完全にブラックアウトした。現実世界の温室の光景が消え失せ、彼女の意識はフォルビアの魔力の深淵へと真っ逆さまに墜落していく。
――暗い。冷たい。そして、ひどく甘くて重い。
そこは、果てしなく広がる『純黒と紫の泥沼』だった。
『ジーク』
『愛してる』
『僕だけの太陽』
『逃がさない』
『誰にも渡さない』
『僕を殺して』
沼の底から、無数のフォルビアの声が這い上がり、ジークリットの精神に絡みついてくる。それは、彼が幼い頃から溜め込んできた彼女への狂おしいほどの執着が煮詰まった、純度100%の呪いの海。あまりの重圧と狂気に、並の魔術師であれば一秒で発狂し、この沼に沈んで自我を失っていただろう。絡みつく紫の泥が、彼女の気高い精神を侵食し、甘い絶望へと引きずり込もうとする。
……ふざけるな。こんな、生温い泥遊びで……私を呑み込めると思うな!!
ジークリットは、精神の世界で、己の魂を極限まで燃え上がらせた。彼女の全身から、眩い『黄金の炎』が爆発的に噴き出す。それは、彼への殺意と己の誇りだけで練り上げられた、絶対に屈しない太陽の輝き。
『――ッ!!』
ジークリットの放つ黄金の光が、絡みつく紫の泥を蒸発させ、フォルビアの精神世界に強烈な光を打ち立てた。その閃光に照らし出された沼の最奥。そこに、赤黒く脈打つ複雑な魔法陣――『命の同期』の術式の心臓部が、一瞬だけその全容を露わにした。
見たわ……!これが、お前の呪いの構造……!!
その複雑怪奇な結び目の法則を、彼女の天才的な頭脳が一瞬で網膜に、そして脳髄に焼き付ける。
「……はぁっ!!」
次の瞬間、ジークリットは現実世界に意識を引き戻し、弾かれたようにフォルビアの胸から手を離した。
「はぁっ……はぁっ……!」
額から滝のような汗を流し、肩で息をするジークリット。ほんの数秒のダイブだったが、精神力は限界まで削られ、立っているのもやっとの状態だった。しかし、彼女の金色の瞳は、かつてないほどの確かな『勝利への光』を宿して、目の前の男を睨みつけていた。
「……見たわよ。お前の、醜くて吐き気のする術式の構造。……時間はかかるけれど、これで完全に『解』を導き出せるわ」
「……あはっ、あははははっ!」
胸を押さえながら、フォルビアは床に膝をつき、笑い出した。彼の紫の瞳からは、嬉し涙がボロボロと溢れ落ちている。
「すごい……!本当にすごいよ、ジーク!僕の精神の底に触れて、それに呑み込まれるどころか君の光で僕の深淵を焼き尽くして見せた……!」
自身の魂の最も深い部分、誰にも見せたことのない狂気の底を、彼女に蹂躙された。普通なら防衛本能が働くはずのその行為すら、彼にとっては『彼女が自分の全てを知ってくれた』『自分の魂の底まで触れてくれた』という究極の精神的交わりに他ならなかった。
「最高だよ。君とこうして互いの命と魂を削り合う時間が、永遠に続けばいいのに……!」
「……黙りなさい。次に私がお前の深淵に触れる時は、お前の魂ごと完全に消滅させる時よ」
ジークリットは震える足でテーブルに戻り、脳裏に焼き付けた『呪いの構造』を忘れないうちに羊皮紙へと書き殴り始めた。
命の呪いを解き明かすための、決死のダイブ。彼女は確かに、フォルビアを殺すための最大の鍵を手に入れた。
しかしそれは同時に、彼女が『フォルビア・マクファーレンという男の最も深い部分』を誰よりも深く理解してしまったという事実の裏返しでもあった。互いを殺し合うための準備は皮肉にも、世界中のどんな恋人たちよりも深く、濃密に、二人の魂を一つの絶対的な形へと結びつけていくのだった。
つづく




