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凡人婚約者は天才令嬢を逃がさない  作者: 柊原 ゆず


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第35話 偽りの箱庭


 ジークリットによる『怨念と殺意に満ちた看病』が始まってから、ひと月が経とうとしていた頃。

 フォルビアの胸に空いた大穴は、彼女の強引な治癒魔法と毎日の魔力供給によって、ついに完全に塞がった。残ったのは、彼の左頬にある火傷の痕と同じく、決して消えることのない赤黒い瘢痕だけだ。


「……これで最後よ。もうお前の胸に魔力を注ぐ必要はないわ」


 最後の包帯を解き、傷口の完治を確認したジークリットは、冷たく言い放って彼から距離を取った。彼女の金色の瞳には、看病が終わった安堵など微塵もない。あるのは、『これでようやく、気兼ねなくこいつを殺す術式の構築に戻れる』という、冷徹なハンターの光だった。


「うん、ありがとうジーク。君の極上の看病のおかげで、僕の身体は前よりもずっと魔力に満ち溢れているよ」


 フォルビアは、自身の胸に残った生々しい傷跡を指先でなぞり、うっとりと微笑んだ。そして、シャツを羽織りながら、ふと甘い声で彼女に告げる。


「ねえ、ジーク。僕を死の淵から救い出してくれた愛しい君に、今日は『ご褒美』を用意したんだ」

「……お前からの施しなど、これ以上受けるつもりはないわ」

「そう言わずに。……さあ、おいで」


 フォルビアは、ジークリットの細い手首を握ると、この一ヶ月間、彼女が決して越えることのできなかった『重厚な扉』へと向かって歩き出した。

 扉を開ける……!?違うわね。フォルビアのことだから、何かの罠かしら……?

 ジークリットの身体が緊張で強張る。

 ガチャリ、と魔法錠が外れる音がし、重い扉がゆっくりと開かれた。そこから続くのは、外の世界への出口――ではなく。一切の窓がなく、壁一面にびっしりと防衛術式が刻み込まれた、長く薄暗い石造りの廊下だった。


「逃げようとしても無駄だよ。この廊下も、僕の心臓と直結した結界の一部だからね」


 フォルビアは、警戒して足を踏みとどまる彼女の手を優しく引き、廊下の奥へと進んでいく。やがて二人が辿り着いたのは、両開きの美しいガラス扉の前だった。


「開けてみて、ジーク。君のための、新しいお部屋だよ」


 促されるままに、ジークリットは警戒しながらガラスの扉を押し開けた。

 ――その瞬間、彼女は息を呑んで立ち尽くした。


「……これは……」


 扉の向こうに広がっていたのは、見渡す限りの緑と、色とりどりの花々が咲き乱れる、広大で美しい『温室』だった。天井からは柔らかな人工の陽光が降り注ぎ、中央には白亜のテーブルと椅子が置かれ、最高級の茶葉の香りが漂っている。

 それは、彼女が王立学園で最も愛し、そしてフォルビアに永遠の枷をはめられた『あの温室』を、狂気的なまでの精度で完全再現した空間だった。


「君、ずっとあの薄暗い部屋で本ばかり読んでいたから。たまには太陽の光と、お茶の時間を楽しんでほしくてね。公爵家の最高の魔導技師たちを総動員して、この地下の最下層に作らせたんだ」


 フォルビアは、驚愕に目を見開く彼女の背後から抱きつき、その肩口に顔を埋めた。


「どう?そっくりだろう?……さあ、座って。君の好きな紅茶を淹れてあげるから」

「……狂ってるわ。こんな子供のおままごとのような箱庭を作って、私を喜ばせようとでも思ったの?」


 ジークリットは彼を冷たく突き放し、白亜のテーブルを睨みつけた。だが、フォルビアは傷つくどころか、楽しそうにクスクスと笑いながらティーポットを傾けた。


「喜ばせるためじゃないよ。……君に、『外の世界』の真実を教えてあげるための舞台さ」

「……真実?」

「うん。君がこの一ヶ月間、僕を殺すために一生懸命勉強している間にね……外の世界は、随分と平和になったんだよ」


 フォルビアは、紅茶の入ったカップを彼女の前に置き、悪魔のような笑みを浮かべた。


「僕の開発したポーションのおかげで、周辺諸国との争いは完全に無くなった。君のお兄様が治める領地も、僕の資金援助でかつてないほど豊かに発展している。……王都の民は皆、今の平和な時代を心から謳歌しているよ」

「……それが、どうしたというの」

「分からないかい?」


 フォルビアは、テーブル越しに身を乗り出し、ジークリットの金色の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。


「世界はもう、完璧に平和なんだ。……圧倒的な力で悪を打ち倒す『特級探索者』も、人々を導く『太陽』も……もう、誰も必要としていないんだよ」


 ドクン、と。

 ジークリットの心臓が、嫌な音を立てた。


「君が命を懸けて救いたかった世界は、君がいないまま、僕の作った薬と金で勝手に救われちゃったんだ。……ねえ、ジーク。君が今更この鳥籠から抜け出したところで、もう外の世界のどこにも、君の居場所なんてないんだよ?」


 それは、物理的な監禁よりも遥かに残酷な、彼女の『存在意義』そのものを根底から破壊する言葉だった。世界は彼女を忘れただけでなく、彼女を必要としなくなった。彼女が誇りとしていた冒険者としての夢は、外の世界の平和という『絶対的な正解』によって、完全に無価値なものへと貶められたのだ。


「さあ、ジーク。もう無駄な足掻きはやめて、この美しい温室で、一生僕とお茶を飲んで暮らそう?外の世界には、もう君の帰る場所なんて……」


 フォルビアが、完全に心が折れるであろう彼女に甘く手を差し伸べようとした、その時。

 ガチャンッ!!

 ジークリットは、目の前に置かれた最高級のティーカップを、一切の躊躇なく床に叩き落として粉々に砕き割った。


「……えっ?」

「……ふふっ、あははははっ!」


 呆然とするフォルビアの前で、ジークリットは肩を震わせて笑い始めた。絶望の笑いではない。それは、自身を縛り付けるちっぽけな鎖を鼻で笑い飛ばすような、圧倒的な強者の哄笑だった。


「……何が『外の世界には居場所がない』よ。笑わせないで、フォルビア」


 ジークリットは、砕け散った陶器の破片をヒールの踵で踏み躙りながら、真っ直ぐに彼を睨み据えた。


「世界が平和になった?私が不要になった?……だからどうしたというの。私が外に出たいのは、そんなくだらない理由じゃないわ」

「ジーク……?」

「私はね、お前を殺したいの。お前が作ったこのふざけた鳥籠を跡形もなくぶち壊して、お前という存在をこの世界から完全に消し去って、私の自由と誇りを取り戻す。……それこそが、今の私の『唯一の存在意義』よ!」


 彼女の瞳に宿る黄金の炎は、少しも揺らいでなどいなかった。世界がどうなろうと関係ない。彼女の眼の前に立ちはだかる最大の敵は、最初からこのフォルビア・マクファーレンただ一人なのだ。


「それに……わざわざこんな広くて、植物や土、水といった『魔力の触媒』が山ほどある温室に私を案内してくれるなんて。お前、本当に馬鹿ね」


 ジークリットは、周囲に咲き乱れる花々を見渡し、獰猛な肉食獣のように舌舐めずりをした。


「ここは、お前を殺すための魔法陣を組むのに、最高の実験場だわ。……せいぜい、私がこの温室を使って、お前の心臓の結界を裏側から喰い破る日を楽しみにしてなさい」

「……ッ、ああ……!!」


 絶望させるための箱庭が、新たな戦場として再定義された瞬間。フォルビアは両手で顔を覆い、身をよじって歓喜の悲鳴を上げた。


「最高だ……!君の心は、君の誇りは、本当にどこまでも折れない……っ!!」


 世界から不要と言われても、自分への殺意だけを糧にして輝きを増す太陽。

 フォルビアは自らが用意した絶望が全く通用しなかったことに、この世の全ての幸福をかき集めたような絶頂を感じていた。


「いいよ、ジーク!君のその美しい牙で、この箱庭ごと僕を喰い破ってみせて!……僕も、君が絶対に逃げられないように、愛と魔力でこの温室をいっぱいに満たしてあげるから!」


 偽りの陽光が降り注ぐ、地下最下層の温室。

 血塗られた看病生活を終えた二人は広大な新たな鳥籠の中で、お互いの存在意義を懸けた、さらに過激で狂おしい『殺し合いのティータイム』を再開するのだった。


つづき

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