第34話 歪んだ新婚生活
ドクン。……ドクン。
静寂を取り戻した部屋に、フォルビアの微かな、しかし確かな心音だけが響き始めた。
――数時間後。
「……ん、……」
フォルビアは、ゆっくりと重い瞼を開いた。視界に入るのは、見慣れた黄金の鳥籠の天井。胸には酷い鈍痛があるが、呼吸はできている。
……生きている?僕が……?
確かに心臓を貫かれたはずだ。死を確信し、幸せの中で意識を手放した記憶がある。フォルビアがゆっくりと視線を横に向けると、そこには。
「……ッ!」
ベッドの脇の絨毯に座り込み、ベッドの縁に頭を預けて眠るジークリットの姿があった。彼女の手は赤黒い血で染まり、その指先は、フォルビアの胸に描かれた血の魔法陣の中心に置かれたままだ。彼女の顔には疲労が色濃く刻まれ、息をするたびに華奢な肩が上下している。
彼女が、自分を治癒したのだ。自分を殺そうとした太陽が自分が死ぬことを許さず、その手で必死に命を繋ぎ止めてくれたのだ。
「……あ、ああ……」
その事実を理解した瞬間。
フォルビアの胸の奥底から、全身の毛穴が吹き飛ぶほどの、強烈な歓喜の波が押し寄せてきた。彼が仕掛けた『死の罠』を、彼女は突破した。彼を見殺しにせず、憎悪と殺意の力だけで彼を蘇生させ、自身の『生』を勝ち取ったのだ。
それはつまり。彼女がこの先彼を殺すためには、常に『彼の命を管理・保護しながら、結界を解除する手段を探さなければならない』という、究極のジレンマを強いることに成功したということ。
「……あははっ、ふふ、ふふふふっ……!!」
フォルビアは、痛む胸を押さえながら、音を立てずに狂ったように笑い続けた。
嬉しくて、愛おしくて、たまらない。
自分を殺したいほど憎んでいるジークが、皮肉にもこの世界で一番『僕が死なないように必死に守ってくれる存在』になってしまったのだ。
「ありがとう、ジーク。……君はやっぱり、最高の神様だ」
フォルビアは眠る彼女の血まみれの手をそっと取り、その指先に狂おしいほどの愛を込めて口付けた。
「僕の命は、君のものだよ。……君が本気で僕を殺せるその日まで、ずっと、君の手で僕を生かしてね」
フォルビアの心臓を貫き、そして自らの手で彼を強引に蘇生させた、あの一夜から数日。
黄金の鳥籠は、これまでにないほど奇妙で、悍ましい空気に包まれていた。
「……痛いよ、ジーク。もう少し優しく包帯を巻いてくれないかな」
「黙りなさい。お前の口を先に縫い付けてやろうか」
朝の光が差し込むベッドの上。上半身裸で横たわるフォルビアの胸に、ジークリットは忌々しげな顔で真新しい包帯を巻きつけていた。傷は彼女の強引な治癒魔法で塞がっているものの、失われた血液と損傷した細胞を完全に定着させるため、しばらくは絶対安静と定期的な魔力処置が必要だったのだ。
「そんな怖い顔しないでよ。せっかく僕の命の恩人になってくれたんだから」
「誰が恩人よ。お前が死ねば私も死ぬ、そのふざけた呪いのせいでしょう」
ジークリットは、包帯の端をわざと力を込めてキツく縛り上げた。
「うっ……!」
フォルビアが小さく呻くが、その表情は痛みによる苦痛ではなく、頬を赤く染めた恍惚そのものだった。
そう、この数日間。
ジークリットは、憎くてたまらないこの男を殺さないために、甲斐甲斐しく『看病』をさせられていたのだ。彼が死ねば、結界が暴走して部屋ごと圧殺される。彼が衰弱すれば、結界の核である彼の魔力が不安定になり、部屋の空気が薄くなって彼女自身が苦しむことになる。
つまり、ジークリットがこの鳥籠の中で万全の状態で反撃の機会を窺うためには、フォルビアの健康状態を常に『最高』に保ってやらなければならないのだ。
「はい、お薬の時間だよ、僕の専属お医者様」
フォルビアは、自身の細い手首を嬉しそうに彼女の口元へと差し出した。ジークリットはギリッと奥歯を噛み締め、屈辱に震えながらも……その手首を取り、ガブッと牙を立てた。
「んっ……、はぁっ……」
フォルビアの甘い血を啜り、自身の体内に魔力を補給する。そして、その魔力をフォルビアの心臓に注ぎ込み、彼の細胞の再生を促すのだ。血を奪い、魔力を与え合う。まるで一つの心臓を二人で共有しているかのような、悍ましくも甘美な儀式。
「……あぁ、本当に嬉しいな……♡」
血を吸われながら、フォルビアはジークリットの頭を愛おしそうに撫でた。
「君が僕のために、毎日こうして僕の傷を気遣って、僕の血を飲んで、僕に魔力を注いでくれる。……君がこんなに献身的な妻になってくれるなんて、思わなかったよ」
「勘違いしないで。これは、お前という豚を最高に太らせてから、確実に屠るための『飼育』よ」
ジークリットはフォルビアの手をはたき落とし、血に濡れた唇を拭いながら、冷酷な金色の瞳で彼を睨み下ろした。
「私が毎日お前を生かすのは、結界と命のリンクを完全に切り離す術式を完成させるため。……その準備が整った瞬間、お前のその心臓を今度こそ完全に抉り出して、私の靴の裏で踏み潰してあげるわ」
「うん、知ってる!だから最高なんだよ!!」
フォルビアは、満面の笑みで彼女の手を両手で握りしめた。
「僕を殺すために、僕を生かす。僕を憎みながら、僕の世話をする。……ああ、ジーク!君のその矛盾した優しさが、僕の心を狂わせてどうにかなってしまいそうだよ!」
自分を殺意の目で睨みつけるジークが、自分の傷口を丁寧に消毒し、包帯を替え、魔力を注いでくれる。
それは、フォルビアが当初描いていた『一方的に飼い殺す』という未来よりも、何百倍も刺激的で、彼を絶頂へと導く究極のシチュエーションだった。
「さあ、ジーク。次は食事の時間だ。僕、怪我をしていて腕がうまく上がらないから……また、君が食べさせてくれる?」
フォルビアは、これ見よがしに怪我人ぶって、甘えるように首を傾げた。
嘘だ。先ほどの魔力処置で、腕くらいとうに動かせるようになっているはずだ。
しかし、ジークリットは冷たい溜息を一つ吐くと、ベッドの脇に用意された食事のトレイから匙を手に取った。
「……本当に、反吐が出るほど世話の焼ける男ね。口を開けなさい」
「あーん」
かつて、餓死しようとした彼女に彼が無理やり食事を与えた光景が、今度は全く逆の立場で再現される。ただ違うのは、食事を与えているジークリットの瞳には『いつか必ず殺す』という絶対の殺意が宿り、食事を与えられているフォルビアの瞳には『殺意すらも愛おしい』という絶対の狂気が宿っていることだ。
「美味しい。君に食べさせてもらうと、何倍も美味しく感じるよ」
「黙って咀嚼しなさい。喉に詰まらせて死なれたら迷惑よ」
「ふふっ、心配してくれてありがとう」
どこまでも噛み合わない、けれど完全に歯車が噛み合ってしまっている二人。
殺意と献身。監禁と看病。
黄金の鳥籠の中で、血と魔力を共有し合う二人の狂おしい日常は、もはやどちらが支配者でどちらが囚人なのか分からない、深淵の泥沼へと沈み込んでいく。
太陽の女神は今日も、いつか狂人を完璧に殺し尽くすその日のために、最も憎むべき相手に極上の愛(という名の飼育)を注ぎ続けるのだった。
つづく




