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凡人婚約者は天才令嬢を逃がさない  作者: 柊原 ゆず


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33/41

第33話 命の天秤

※流血要素あり。苦手な方は注意です。






 自身の魔法でフォルビアの顔を焼き、絶対の鳥籠に一矢報いた翌朝。

 ジークリットは、昨夜よりもさらに研ぎ澄まされた頭脳で、次なる『結界崩壊』の演算を続けていた。

 ガチャリ。

 重厚な扉が開き、フォルビアが朝食のトレイを持って姿を現す。


「おはよう、ジーク。よく眠れた?」


 いつものように、ふわりと気の抜けたような甘い声。だが、彼を一瞥したジークリットは、微かに眉をひそめた。


「……お前、その顔。なぜ治癒魔法をかけないの?」


 フォルビアの左頬には、昨夜彼女が放った黄金の炎による『火傷の痕』が、赤黒く生々しい状態のまま残されていた。公爵家の当主である彼が、高位の治癒ポーションを持っていないはずがない。


「治すわけないだろう? これは、愛する君が僕のためだけに練り上げてくれた、世界で一つだけのキスマークだ。……一生消えないように、傷跡を定着させる魔法をかけておいたよ」

「……本物の狂人ね。気持ちが悪いわ」


 心底嫌悪感を露わにするジークリットだったが、フォルビアは火傷の痕を愛おしそうに撫でながら、嬉しそうに目を細めた。そして、テーブルに朝食のトレイを置くと、ふと真顔になって室内を見渡した。


「すごいな。昨夜のうちに、また本の配置を変えたんだね。今度は光の屈折じゃなくて、本の魔力残滓を利用した『遅効性の重力崩壊』の陣……。本当に、君の頭脳は恐ろしくて、美しいよ」


 フォルビアは、ジークリットが徹夜で組み上げた新たな罠を、一目見ただけで看破した。だが、彼は焦るどころか、余裕の笑みを浮かべていた。


「でもね、ジーク。その陣はもう、絶対に起動しないよ」

「……何?」


 ジークリットは怪訝な顔をして、自らが配置した本へと視線を落とした。その瞬間、彼女は『決定的な異変』に気がついた。

 嘘……。魔力パスが、繋がらない……!?

 昨日まで、この部屋には微弱ながらも屋敷の地脈から漏れ出る『環境魔力(マナ)』が満ちていた。だからこそ、彼女は本や食器を触媒にして、外部の魔力を利用することができたのだ。

 しかし今、この部屋の空気はひどく重く、完全に『死んで』いた。


「お前……まさか、この部屋の地脈との接続を切ったの!?」

「ご名答」


 フォルビアはパチンと指を鳴らした。


「君は昨日、この部屋の環境魔力を利用して指輪をショートさせた。だから僕は、この部屋を外の世界の魔力循環から完全に切り離したんだ。今のここは、環境魔力ゼロの『完全な真空地帯』だよ」

「っ……! それでは、この部屋の結界を維持できないはずよ!魔力供給はどうしているの!?」

「簡単なことだよ」


 フォルビアは、自身の左胸――心臓のあたりをトントンと叩いた。


「僕の心臓と、この部屋の結界の(コア)を直接繋いだ。……この鳥籠は今、僕自身の生命力と魔力だけで稼働しているんだ」


 ジークリットは息を呑んだ。それは、防御術式としてはあまりにもリスクが高すぎる愚行だ。だが、同時に、彼女から『環境魔力を利用した反撃』という最強の武器を完全に奪い取る、絶対的な好手でもあった。


「これで、君はもう外部の魔力を使えない。指輪をショートさせることもできない。……僕の勝ちだね、ジーク」

「……卑怯な真似を」


 ジークリットはギリッと奥歯を噛み締めた。だが、フォルビアは彼女のその悔しそうな顔を見て、甘く、とろけるようなため息を吐いた。


「でもね。牙をもがれて、ただ僕に飼われるだけの君なんて、つまらないだろう?」

「……え?」

「君には、ずっと僕を殺そうとしていてほしいんだ。その気高い殺意で、僕の喉元に食らいついてきてほしい。……だから、君に『新しい武器』をあげる」


 フォルビアは、自身の右腕の袖をゆっくりと捲り上げた。現れたのは、太陽の光を知らない、病的なまでに白い手首。彼はその手首を、ジークリットの目の前へと差し出した。


「この部屋で唯一の魔力源は、僕だ。……僕の血には今、限界まで濃縮された魔力が巡っている」


 紫の瞳が、狂気と愛欲でドロドロに濁っていく。


「君の指輪は、君自身の魔力は吸い取るけれど、他者から直接取り込んだ魔力までは即座に処理しきれない。……分かるかい、ジーク?」


 彼が何を言いたいのか理解した瞬間、ジークリットの全身に総毛立つような悪寒が走った。


「僕の血を飲めば、君は数十秒だけ魔法が使える。……僕を殺したいなら。この檻を破るための魔力が欲しいなら。君はこれから毎日、僕の肌に牙を立てて、僕の血と魔力を啜らなきゃいけないんだ」


 それは、最悪のカウンターだった。彼女の反抗したいという意志を利用し、反抗するための『燃料』を、彼自身の肉体から直接摂取させるという、究極の隷属の強要。


「狂ってる……。誰が、お前の血なんか……ッ!」

「飲まないなら、君は一生魔法を使えないまま、ただの本に囲まれただけの女の子だよ。……でも、君は諦めないだろう?」


 フォルビアは、差し出した手首を彼女の唇のすぐそばまで近づけた。彼から漂う甘い香りが、魔力に飢えたジークリットの感覚を狂わせていく。


「さあ、ジーク。僕を殺すための魔力を、君のその美しい牙で、僕から奪い取ってよ」


 悪魔の囁き。ジークリットは、震える手でシーツを強く握りしめた。ここで拒絶すれば、彼女の反撃の手段は永久に失われる。彼を殺すためには、この屈辱を受け入れ、彼の血肉を自身の体内に取り込まなければならない。

 ……この、化け物が……!!

 屈辱と憎悪、そして絶対的な殺意。ジークリットは、金色の瞳を鋭く吊り上げると――迷うことなく、フォルビアの細い手首を両手で強く掴み取った。


「ッ……!」

「……ええ。奪ってやるわ。お前の魔力も、命も、全て」


 ガブッ!!

 一切の躊躇なく、ジークリットはフォルビアの手首に深く牙を突き立てた。皮膚が裂け、熱く、鉄の味がする甘い液体が彼女の口腔内に流れ込んでくる。それと同時に、枯渇していた彼女の魔力回路に、莫大なエネルギーが爆発的に充填されていくのが分かった。


「あぁっ……!は、あぁ……っ、ジーク……っ!」


 自身の血と魔力を吸い取られる激痛と喪失感。しかし、フォルビアは振り払うどころか、身震いしながら歓喜の悲鳴を上げ、彼女の頭を愛おしそうに撫でた。


「すごい……君が、僕を食べてる……僕の魔力が、君の中に入っていく……っ!」


 ゴク、ゴクと、喉を鳴らしてフォルビアの血をすするジークリット。彼女の金色の瞳は、血を飲みながらも、次の瞬間に放つ『必殺の魔法』の構築のために、冷徹に彼を睨み据え続けていた。彼の腕に深く牙を立て、その熱い血と共に流れ込んでくる膨大な魔力を、ジークリットは自身の魔力回路へと強引に引き摺り込んだ。


「……ッ、はぁあ、あああああッ!!」


 ジークリットの全身を、かつてない衝撃が駆け抜ける。他者の、それもこれほどまでに濃密で狂った執着の混じった魔力を取り込むことは、全身の血管に焼けた鉛を流し込まれるような激痛を伴った。だが、彼女はその苦痛すらも『復讐の対価』として飲み下し、血に濡れた唇をフォルビアの肌から引き剥がした。


「……はぁっ、はぁっ、……見ていなさい。これが、お前の望んだ『答え』よ」


 ジークリットの金色の瞳が、爆発的な輝きを放つ。指輪の吸収速度が追いつかないほどの魔力。彼女はそのエネルギーを指先に集中させ、空中に一瞬で複雑な魔法陣を描き出した。それは禁書で得た知識と、今しがた啜ったフォルビアの血そのものを媒体とした、公爵邸を根こそぎ消し飛ばしかねない超高密度の攻撃魔法。


「――『極光の槍(アポロン・ブレイズ)』!!」


 放たれたのは、太陽の輝きをそのまま凝縮したような巨大な光の槍だった。至近距離。回避不能。フォルビアの心臓を、そしてこの部屋の結界の『核』を貫くための必殺の一撃。

 ドォォォォォォォンッ!!

 鼓膜を震わせる爆鳴と共に、目も眩むような閃光が部屋を埋め尽くす。最強の結界が悲鳴を上げ、黄金の扉がひび割れ、爆風が部屋中の禁書を舞い上げた。


「……やった、か……」


 肩で息をしながら、ジークリットは視界を覆う煙の向こうを凝視した。魔力を使い果たし、再び指輪がその機能を回復させようと彼女の体力を奪い始める。だが、心の中には確かな勝利の予感があった。今の魔法は完璧だった。あんなもの、直撃して生きていられるはずが――。


「……あはっ、……あはははははははッ!!」


 絶望を誘う、歓喜の笑い声。煙が晴れたそこには、胸を大きく貫かれ、鮮血を撒き散らしながらも……不気味なほど満面の笑みを浮かべて立ち続けているフォルビアの姿があった。


「な、……なぜ、立っていられるの!?心臓を、確かに貫いたはずよ!!」

「……うん。正解だよ、ジーク。僕の心臓は、今、確かに止まった……っ」


 フォルビアは、口から血を溢しながら、フラフラと彼女に歩み寄った。彼の胸の穴からは、常人なら即死するはずの出血が続いている。しかし、その傷口からは、赤い血と共に『黄金の糸』のような魔力が溢れ出し、無理やり肉体を繋ぎ止めていた。


「……言っただろう?この結界は、僕の『命』そのものなんだって。……君が僕を殺そうと魔法を放てば放つほど、僕の魔力と君の魔力が混ざり合って、結界がさらに強固になっていく」


 フォルビアは、震える手でジークリットの頬に触れた。彼の指先についた血が、彼女の白い肌を汚していく。


「君が僕の血を飲んだ時、僕たちの魔力回路は『同期』したんだ。……僕が死ねば、君も死ぬ。君が僕を傷つければ、その痛みの一部は、いずれ君にも返っていく。……ねえ、ジーク。これこそが、最高の『結婚誓約』だと思わないかい?」


「……ッ、お前……!どこまで、どこまで私を……!!」


 ジークリットは戦慄した。彼を殺そうとすればするほど、彼への依存度が深まっていく。物理的な鳥籠だけでなく、今や彼という存在そのものが、彼女の魂を繋ぎ止める呪縛となっていたのだ。


「いいんだよ、ジーク。もっと僕を殺していい。そのたびに僕達は一つになれる。……君の憎しみも、怒りも、放たれる魔法も、全部僕が飲み込んであげるから」


 フォルビアは、大量の血を流しながら、そのままジークリットを押し倒すようにしてベッドに沈めた。死にゆく者の冷たさと、狂気に燃える者の熱さが混ざり合う、悍ましい抱擁。


「愛してる。愛してるよ、ジーク。……さあ、次はどこを狙う?僕をどうやって苦しめてくれる?……一生かけて、僕を殺すための計画を練ってよ」

「……離せ、離しなさい……!!」


 ジークリットは、彼の胸の傷口に手をかけ、無理やり押し戻そうとする。だが、その手に触れる彼の血は、まるで生き物のように彼女の肌に吸い付き、離そうとしない。彼女の目から、屈辱と怒りの涙が溢れ出した。

 殺したい。今すぐにでもこの狂人の息の根を止めたい。

 けれど、彼を殺すことは、今の彼女にとって自分自身を殺すことと同義になってしまった。


「……あ、ああああ……っ!!」


 黄金の鳥籠に、絶望と殺意が入り混じった太陽の叫びが響き渡る。その叫びを、フォルビアは至上の子守唄のように聞きながら、自身の血を彼女に分け与えるように深く、深く抱きしめ続けた。


「……ッ、はは、あははっ……!」


 胸に大穴を開け、絶え間なく血を流しながらも、フォルビアはジークリットを押し倒したまま恍惚と笑い続けていた。だが、さすがに致命傷だ。彼の体温は急速に失われ、ジークリットを抱きしめる腕の力が、徐々に、しかし確実に抜け始めていた。


「ジーク……綺麗だ。君の魔法で死ねるなら、本望、だよ……っ」

「……ッ、黙りなさい!この、狂人が……!」


 ジークリットは、彼の下敷きになりながら必死にもがくが、フォルビアの重い身体はビクともしない。

 紫の瞳から徐々に光が失われていく。

 そして。


「……僕の命、君に……あげる……」


 最後にふわりと、心底幸せそうな微笑みを浮かべると――フォルビアの瞳は完全に閉じられ、その身体は力なく彼女の上に崩れ落ちた。脈は触れない。呼吸も止まった。物理的には完全に『死』を迎えた状態だった。


「……フォルビア?……おい、フォルビア!!」


 ジークリットは、血まみれになった彼を力任せに突き飛ばした。ドサリとベッドの横に転がり落ちた彼の身体は、ピクリとも動かない。

 やった。……殺した。私が、あいつを……。

 震える手を見つめ、ジークリットは息を呑んだ。だが、勝利の余韻に浸る暇など、一秒たりとも与えられなかった。

 ゴゴゴゴゴォォォォッ!!


「なっ……!?」


 突如として、部屋全体が激しい地震のように揺れ始めた。見れば、部屋の出口である重厚な扉から、ドロドロとした黒い泥のような魔力が溢れ出し、部屋の壁という壁を侵食し始めているではないか。

 『術式を無理やりこじ開けようとすれば、自壊して一時的に扉が物理融合する防衛機構』……ッ!?

 ジークリットは、以前自分が看破した結界の防衛機構を思い出し、顔を青ざめさせた。結界の核であるフォルビアの心臓が停止したことで、システムが『外部からの完全破壊』と誤認し、部屋そのものを圧縮して物理的に封鎖・圧殺する最終防衛フェーズに移行したのだ。

 おまけに、彼女の心臓もひどく不整脈を打っていた。

 『僕が死ねば、君も死ぬ』。

 フォルビアの血を飲んで魔力回路を同期させた代償が、彼を殺した直後に襲いかかってきているのだ。


「ふざけるな……。こんなところで、お前なんかと心中してやるものか……ッ!!」


 ジークリットは、ふらつく足でベッドから飛び降り、フォルビアの死体の横に膝をついた。そして、床に散らばっていた禁書の山から『古代治癒魔法の原典』を強引に引き抜き、ページを乱暴に捲る。

 心臓は完全に破壊されている。でも、あいつの魔力がまだ黄金の糸になって、細胞をギリギリで繋ぎ止めている。……なら、まだ間に合う!

 彼女は、自身の指にべったりとついた『フォルビアの血』を触媒にし、彼の胸の大穴の周りに、直接血文字で複雑な魔法陣を描き殴り始めた。

 憎い。殺したい。今すぐこのまま放置して、彼が腐っていくのを眺めていたい。

 けれど、自分が生き延びるためには、この狂人を自分の手で『蘇生』させなければならない。これ以上の屈辱があるだろうか。


「死ぬな……死ぬんじゃないわよ!!お前の命は、こんなくだらない呪いで終わらせていいものじゃない!」


 ジークリットは、自身の残された全魔力を、両手を通じて彼の胸の魔法陣へと叩き込んだ。それは、慈愛の治癒魔法などではない。『絶対に私以外の要因で死ぬな』という、純度100%の呪いと殺意に満ちた、強引な細胞再生術式。


「私がお前を殺すのよ!私が、私の意志で、完璧にお前を叩き潰すの!勝手に死んで、勝手に満足して逃げるなんて……絶対に許さない!!」


 カッ!と眩い光が弾け、黄金の糸が千切れた心臓の組織を強制的に縫い合わせていく。ジークリットは血を吐くような思いで、フォルビアの血を啜り、魔力を注ぎ込み続け――やがて、部屋の崩壊音はピタリと止んだ。それと同時に、彼女は完全に体力を使い果たし、フォルビアの胸の上に倒れ込んだ。


つづく

今回はかなり苛烈な二人を書きました。流血表現苦手な方はすみません。

フォルビアとジークリットの二人が作者としてはとても好きなので、楽しんでもらえたらいいなと思っています。

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