第32話 一筋の業火
黄金の鳥籠が『書庫』へと姿を変えてから、一ヶ月が経過した。部屋の絨毯の上には、王宮の奥底に眠っていたはずの禁書や魔導書が無造作に積み上げられ、さながら知識の城壁を形成していた。ジークリットはその中心で、鋭い眼光を放ちながら、古い羊皮紙に目を走らせている。彼女の頭脳は、食事と睡眠以外の全ての時間を『フォルビアの殺害』と『結界の破壊』のための演算に費やしていた。
「ジーク、夜食を持ってきたよ。今日は君の脳が糖分を欲していると思って、特製のザハトルテを……」
ガチャリ、と厳重な扉が開き、フォルビアが甘い香りを漂わせて部屋に入ってくる。
この一ヶ月、フォルビアは毎日結界を更新し続けた。ジークリットが古代語のバグを突いて結界の構造を緩めれば、翌日にはフォルビアが未知の複合術式でそれを塞ぐ。彼女が本の配置と光の屈折で物理魔法陣を組めば、彼は部屋の重力係数そのものを微細に弄ってそれを無効化した。それは、外の世界の優秀な魔術師たちが一生かけても到達できない、神々の領域での殴り合いだった。
「……そこに置いて。あと、その扉の『第七層』、魔力の波長が〇・二秒ズレているわよ。あの程度の編み込みで私を閉じ込めるつもりなら、お前は本当にただの無能ね」
「あははっ、厳しいな。わざと隙を作って、君がどう攻めてくるか試してみたんだけど……見破られちゃったか」
フォルビアは心底楽しそうに笑いながら、ケーキの乗ったトレイをテーブルに置いた。しかし、ジークリットは本から目を離さない。
彼女の左手にはめられた銀の指輪は、未だに彼女の魔力を絶え間なく吸い取っている。だが、彼女は一ヶ月間の禁書の海での思考の末に、ある一つの『解』に辿り着いていた。
指輪が魔力を吸い取るなら。……吸い取りきれないほどの『絶対矛盾』を、一瞬だけ指輪の回路に流し込めばいい。
ジークリットの金色の瞳が、スッと細められる。彼女は、さりげなく床に散らばらせていた数冊の魔導書の『特定のページ』に視線を這わせた。それは、禁忌呪術の原典に記された『概念崩壊』の術式の一部。彼女は本を物理的に配置することで、部屋の環境魔力を使い、指輪の吸収回路に対して『魔力は存在するが、存在しない』というパラドックスの論理式をぶつける罠を、三日かけて静かに組み上げていたのだ。
「さあ、ジーク。あーんして。甘くて美味しいよ」
フォルビアが、フォークで掬ったケーキを彼女の口元へ運んでくる。ジークリットは、無防備に近づいてきた彼の顔を見据え……その瞬間、自身の残された極小の魔力を、足元の『本の陣』へと弾き飛ばした。
バチィッ!!
「……ッ!?」
静電気のような鋭い音が鳴り、ジークリットの左手の銀の指輪が、強烈な論理矛盾を起こして一瞬だけ青白い火花を散らした。指輪の吸収機能が、ほんの〇・一秒だけ停止する。その刹那の隙を、太陽の天才が逃すはずがなかった。
「――燃えなさい」
ジークリットの指先から、一ヶ月ぶりに彼女自身の魔力が顕現した。それはかつてのような巨大な火球ではない。針の先ほどに圧縮された、純度百パーセントの『黄金の炎』。その一筋の業火が、弾丸のような速度でフォルビアの顔面へと放たれた。
「っ……!!」
ジュッ、と。
肉の焦げる悍ましい音が部屋に響いた。放たれた炎は、フォルビアが咄嗟に展開した防御障壁を紙のように貫き、彼の左頬を鋭く掠め、背後の壁を深く抉って消滅した。
静寂。
フォークからケーキが滑り落ち、絨毯を汚す。フォルビアは目を見開いたまま硬直していた。彼の美しい左頬には、一直線に赤い火傷の痕が刻まれ、そこから血がツーッと一筋流れ落ちている。あと数ミリ内側であれば、彼の眼球を焼き尽くし、脳まで到達していただろう。完全なる、死の淵。指輪の機能をショートさせ、たった一滴の魔力で彼を本気で殺しにきたのだ。
「……チッ。浅かったわね」
指輪の機能がすぐに回復し、再び魔力を失ったジークリットは忌々しげに舌打ちをした。しかし、その表情には、一ヶ月ぶりに自身の魔法を放ったという圧倒的な強者の自信と、冷酷な笑みが浮かんでいた。
「どう? 自分が無敵だと思っていた鳥籠の中で、首の皮一枚繋がった気分は。……次は必ず、その喉を焼き切ってあげる」
明確な殺意の籠もった言葉。
頬から血を流すフォルビアは、ゆっくりと震える手を伸ばし、自身の火傷の痕に触れた。
痛い。熱い。自分の血の匂いがする。
「あ……」
その瞬間、フォルビアの紫の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。恐怖からではない。痛みに耐えかねたわけでもない。
「ああぁ……っ!ジーク……!!」
彼は、火傷を負った顔のまま、歓喜に咽び泣きながらジークリットの足元に崩れ落ちた。そして、彼女のドレスの裾を強く握りしめ、顔を押し当てて狂ったように泣き笑い始めた。
「熱い……!君の炎、すごく熱いよ……っ♡君が僕を殺すために、こんなにも美しくて鋭い魔法を、僕のためだけに練り上げてくれた……!」
「……気色が悪い男。離れなさい」
「嫌だ!ああ、幸せだ♡世界中のどんな人間も、君のこんなに美しい炎を浴びたことはない!この傷は、君が僕にくれた、僕だけのものだ……ッ!」
ジークリットの魔法で殺されかけたというのに、フォルビアは火傷の痛みを『彼女の熱の残滓』としてありがたがり、至上の愛の証拠を刻まれたかのようにうっとりと陶酔していた。自分が死ぬかもしれない恐怖よりも、彼女の頭脳と炎が『自分ただ一人』を標的にして極限まで研ぎ澄まされているという事実が、彼の精神を完全な昇天へと導いていた。
「最高だよ、ジーク……♡君はやっぱり、僕だけの神様だ」
フォルビアは、涙と血で濡れた顔を上げ、狂おしいほどの愛執を込めて彼女を見上げた。
「もっと僕を焼き尽くして。もっと僕を絶望させて。……僕も、君のその美しい牙をへし折るために、今夜はとびきり凶悪な術式を組み上げてみせるから」
足元で恍惚と微笑む狂人を見下ろし、ジークリットは一切の同情も恐怖も見せず、ただ不敵に口の端を吊り上げた。
「ええ。せいぜいあがいてみなさい。……お前の全てを灰にするまで、私の炎は絶対に消えないわ」
血と甘いケーキの匂い、そして微かな焦げ臭さが漂う黄金の鳥籠。永遠に終わらない深淵の遊戯の底で、ますます深く、甘く、互いの狂気に絡め取られていくのだった。
つづく




