第31話 命の対価
深夜。公爵邸の最深部にある、当主以外は何者も立ち入ることの許されない地下実験室。そこには、王宮の華やかな夜会で見せる公爵としての顔も、ジークリットの前で見せる恍惚とした表情も捨て去った、一人の男の凄惨な『足掻き』があった。
「……はぁっ、……っ」
フォルビアは、震える手でフラスコの中の赤黒い液体を見つめていた。
数時間前。ジークリットは自身の魔力を一切使わず、たった数本の銀の食器とランプの光だけで、彼が命懸けで築いたはずの結界を粉砕してみせた。
あの黄金の瞳。自分を一瞥し、虫ケラのように排除して外の世界へ戻ろうとした、あの冷酷で気高い光。
ジークは本気だ。彼女にとって、この鳥籠はただの『不快な障害物』に過ぎないのだ。彼女は隙あらば何度でも食い破り、自分を置き去りにして太陽の輝く空へと帰っていくだろう。
「行かせない……。どこにも、行かせない……」
フォルビアは作業台の上に広げられた古びた魔導書と、最高級の、しかしひどく不吉な輝きを放つ薬草の山を睨みつけた。彼には、ジークリットのような天性の魔力はない。彼女が瞬時に導き出す数式の美しさに追いつく才能もない。自分にあるのは、公爵家の権力で買い集めたアーティファクトと、この煮え滾るような執着だけだ。ならば、その執着を物理的な力に変えるしかない。
フォルビアは慎重に、自身の静脈から抜き取った鮮血をフラスコに滴らせた。シュッ、と不快な音を立てて液体が泡立ち、部屋の中に腐った花のような、甘ったるく悍ましい臭いが立ち込める。
それは、禁忌の錬金術によって生成される魔薬『灰の対価』。使用者の魔力回路を強引に数倍に拡張し、一時的に『特級』をも凌駕する出力を可能にする。その代償として心臓を、内臓を、そして寿命そのものを修復不可能なほどに焼き尽くす『自傷の極致』とも言える薬。
「……ははっ」
出来上がった液体をグラスに移し、フォルビアは狂ったように笑った。普通なら、飲むことを躊躇うだろう。死の恐怖が足を止めるだろう。だが、今の彼にとって、死よりも恐ろしいのは『ジークリットという光』を失うことだった。彼女を閉じ込めるための鳥籠が壊れるくらいなら、自分の身体が内側から崩壊したほうが数千倍もマシだった。フォルビアは迷うことなくその毒液を一気に飲み干した。
「ッ、――ァ、が……っ!!」
直後、喉から胃、そして全身の血管に、焼けた鉛を直接流し込まれたような激痛が走った。あまりの苦痛に、フォルビアは床に倒れ込み、激しくのたうち回った。パキパキ、と骨が軋み、鼻からじわりと血が滲み出す。視界は真っ赤に染まり、心臓が爆発しそうなほど早鐘を打つ。
熱い、熱い、熱い……っ!!
しかし、その地獄のような苦痛と引き換えに。今まで彼の中ではチョロチョロとした小川のようにしか流れていなかった魔力が、突如として激流と化し、全身の回路を無理やり突き破って荒れ狂い始めた。自身の命を薪にし、寿命という燃料を注ぎ込んで燃え上がらせた、偽りの魔力。
「……はぁっ、……っ、あははは……っ!!」
フォルビアは、口から血を溢しながら、フラフラと立ち上がった。全身の神経が焼き切れるような熱を帯びている。だが、その指先からは、以前とは比べ物にならないほど濃密な、凶悪なまでの魔力の奔流が渦巻いていた。
これなら。
これだけの命を燃やせば。あの気高い太陽をさらに深く、強固な檻の中に閉じ込められる。フォルビアは、自身の胸を強く握りしめた。内臓が悲鳴を上げ、寿命が数年単位で削り取られていく感覚。しかし、彼の瞳は、かつてないほどの歓喜と独占欲でギラギラと輝いていた。
「待っていて、ジーク。……もう一度、君が絶対に壊せない『究極の鳥籠』を編み上げてあげるから」
彼は、血に汚れた唇を拭い、ふらつく足取りで再び魔法陣の記述に取り掛かった。
才能のない者が、天才に追いつくためのたった一つの方法。それは、自分という存在そのものを灰にしてでも、相手の足首に絡みつく『鎖』になること。
地獄の業火に身を投じた狂気の公爵は、自身の崩壊を代償に、愛する神様を繋ぎ止めるための『最悪の呪い』を、一文字ずつ魔法陣に刻んでいくのだった。
翌日の、昼食の時間。
フォルビアが宣言通りに持ち込んできたのは、先端が丸く削られた木製のフォークとスプーン、そして、あらかじめ一口サイズに切り分けられた肉料理だった。
「はい。あーんして、ジーク」
ベッドに腰掛けるジークリットの口元へ、フォルビアが木製のフォークに刺した肉を差し出す。自分で食べると言っても、彼は決して食器を渡そうとはしなかった。武器になるものを彼女の手に触れさせないという警戒でもあるが、何より『彼女の食事のペースすら自分が支配する』という執着の表れだった。
ジークリットは、忌々しげに彼を睨みつけながらも、反抗して体力を落とすような愚かな真似はしない。ゆっくりと口を開き、彼が差し出す肉を迎え入れる。
――その、瞬間だった。
「んっ……!」
「……ッ!?」
ジークリットは、肉をフォークから咥え取ると同時に、肉を差し出していたフォルビアの『人差し指と中指』にまで深く噛み付いた。容赦など一切ない。獣が獲物の喉笛を食いちぎるかのような、全力の噛咬。
木製のフォークが床に転がり落ちる。ジークリットの鋭い歯がフォルビアの皮膚を突き破り、生々しい血の味が彼女の口内に広がった。ポタ、ポタと、彼の指から流れた赤い血が、純白のシーツに染みを作っていく。ジークリットは、彼の指を深く噛み締めたまま、下から射殺さんばかりの金色の瞳で彼を睨み上げた。痛みに顔を歪め、悲鳴を上げて手を引っ込めるだろう。そう思っていた。
しかし。
「……あ、ぁ……っ」
フォルビアは、指を噛みちぎられんばかりの激痛に襲われているはずなのに、その手を全く引こうとしなかった。それどころか、彼の顔は上気し、紫の瞳はとろけるような熱を帯びて、恍惚とした吐息を漏らしていたのだ。
「ジーク……すごい。君の口の中、すごく熱くて……僕の血を、君が飲んでくれている……っ」
「……ッ!」
あまりの気色悪さに、ジークリットの方がたまらず顎の力を緩め、彼の指を吐き出した。
「ペッ……!最悪ね。血まで泥水みたいに不味いわ」
「ごめんね。でも、君の牙の痕が、僕の身体に直接刻まれたことが……たまらなく嬉しいんだ」
フォルビアは、血を流す自身の指先をうっとりと見つめ、その傷口に自らの舌を這わせた。
彼女が明確な『殺意』と『暴力』を持って自分を傷つけた。その事実が、彼の歪んだ承認欲求をこの上なく満たしていた。
「狂人が……。次はその首の動脈を噛み千切ってあげるわ」
「ふふ、期待しているよ。……でもね、ジーク。君のその美しい牙だけじゃ、僕の喉笛には届かない」
フォルビアは、血の滲む手でパチン、と指を鳴らした。すると、部屋の隅の空間が歪み、空間収納魔法の中から『あるもの』がドサリと絨毯の上に吐き出された。
「なっ……」
それを見たジークリットは、思わず目を見開いた。無造作に積み上げられていたのは、分厚い本の山。表紙に刻まれた紋章を見れば、それが何であるか、天才である彼女には一瞬で理解できた。
「『深淵の魔導書』に、『古代封印機構の解体新書』……それに、王家が管理しているはずの『禁忌呪術の原典』!?どうしてこんなものが……」
「僕が公爵家の権力を使って、王宮の書庫や闇市場から全部かき集めてきたんだ。……全部、君へのプレゼントだよ」
フォルビアは、血に濡れた指先で、積み上げられた禁書の一番上をトントンと叩いた。
「昨日の君を見て、気が付いたんだ。銀の食器やランプなんかの『日用品』で君の才能を縛り付けるのは、あまりにも勿体無いって」
「……何が言いたいの?」
「僕を殺したいんでしょう?この鳥籠を壊したいんでしょう?」
フォルビアは、彼女の口元に残っていた自身の血を、親指で優しく拭い取りながら狂気的な笑みを浮かべた。
「だったら、正々堂々と最高の武器を使ってよ。君のその素晴らしい頭脳に、世界中の禁忌と魔法の全てを詰め込んで……僕が死ぬ気で組み上げる最強の結界を、本気で殺しにきてほしい」
それは、もはや監禁ではない。愛する神様を飼い殺すためだけに用意された、世界で最も危険で、最も贅沢な『殺戮のための実験室』の提供だった。
「……ふん」
ジークリットはしばらくその禁書の山を見つめていたが、やがて鼻で笑い、不敵に口の端を吊り上げた。
「お前、本当に後悔するわよ。そんなものを私に与えれば、三日後には結界ごとこの屋敷を消し飛ばせる術式を脳内で完成させられるわ」
「うん、やってみてよ! 僕はその術式を無力化する防御陣を、二日で組み上げてみせるから」
「……上等ね」
ジークリットは木製のフォークを奪い取ると、残っていた肉を自ら口に運び、飲み込んだ。
もう、絶望している暇などない。彼女の目の前には、世界中の魔術師が喉から手が出るほど欲しがる叡智の山と、それを解き明かして『フォルビアを殺す』という最高難度の命題が用意されたのだから。
「そのふざけた顔を絶望に染め上げて、血祭りにあげてやるわ。……覚悟しておきなさい、フォルビア」
「あははっ、愛してるよ、僕の気高い太陽!」
血の匂いと、インクの匂いが混ざり合う黄金の鳥籠。
一人の天才とイカれた努力家による、魔法と頭脳、そして殺意と愛執が複雑に絡み合う『デスゲーム』が今、本格的に幕を開けたのだった。
つづく




