第28話 涙の終着点
フォルビアに向けて「大嫌いよ」と泣き叫び、感情のままに暴れ疲れた、その翌朝。
ジークリットは、ふかふかのベッドの上で、鉛のように重い身体を起こした。泣き腫らした目は熱を持ち、喉はカラカラに乾いている。指輪に魔力を吸われ続けているせいで、ただ起き上がるだけでもひどい倦怠感が付き纏った。
「……最低ね」
窓から差し込む朝日に照らされた自身の情けない姿を、部屋の鏡で一瞥し、彼女は自嘲気味に呟いた。
昨夜の自分は、まるで駄々をこねる子供だった。全てを失った絶望感に耐えきれず、わめき散らし、フォルビアを力任せに突き飛ばそうとした。しかし、そんな感情的な抵抗は、あの男にとっては何の痛手にもならないどころか、むしろ『自分に依存して泣き叫ぶ可愛い妻』という極上のエンターテインメントを与えただけだったのだ。
あんな男の腕の中で泣き疲れて眠るなんて……。私はいつから、こんなにも弱く、愚かになってしまったの。
ジークリットは、左手の薬指にはめられた冷たい銀の輪を力強く握りしめた。
魔力はない。体力もない。頼れる家族も、助けに来てくれる味方もいない。圧倒的な『持たざる者』へと転落させられた事実が、重くのしかかる。ここでこのまま泣き続け、彼を罵倒し、食事を拒み続ければ、やがて衰弱して死ぬだろう。だが、それはあの男に対する『復讐』にはならない。ただの『敗北』であり『逃亡』だ。
私が死ねば、あいつは少し悲しむかもしれない。でも、それだけよ。あいつは勝利者として、私がいないこの世界を悠々と生きていく。そんなこと、絶対に許せるはずがない。
私は、ジークリット・プラタナスだ。王立学園の歴史上、最も優れた頭脳と才能を持つと謳われた『太陽』だ。無能な三男坊の、姑息な毒と呪いの罠にハマったのは私の油断だ。だが、このまま何もせずに鳥籠の底で朽ち果てるなど、私の魂が絶対に許さない。
「……武器が、必要だわ」
ジークリットは、洗面台に向かい、冷たい水で顔を洗った。熱を持っていた瞳が冷え、鏡の中に映る自分の顔から、悲壮感と涙の痕がスッと消え去っていく。
私には、まだ残されているものがある。この指輪は魔力と体力を奪うが、『記憶』や『思考力』まで奪うことはできない。五歳の時に王立図書館の魔導書を暗記し、十歳で独自の魔法陣を構築した、この世界で最も優秀な『私の頭脳』。これこそが、私に残された最後で最強の武器だ。
「……泣いて、怒って、暴れて……頭に栄養が足りなくなっていたわね」
ジークリットは、備え付けられた純銀のくしで、乱れた橙色の髪を美しく、完璧に梳かし直した。
もう、二度と泣かない。無意味な感情論で彼にぶつかるのはやめだ。あの男を殺すためには、冷静な計算と、緻密な罠と、そして何よりも『機会』を待つ忍耐力が必要だ。そのためには、脳をフル回転させなければならない。頭脳を動かすためには、糖分と栄養が不可欠だ。
食事を拒むなんて、愚の骨頂。……あいつが用意した極上の食事を余さず食らい、あいつが用意したベッドで最高の休息を取り、私のこの最強の武器を、常に万全の状態に研ぎ澄ませておくのよ。
感情を殺し、理性を研ぎ澄ます。それは、彼女がかつて特級探索者を目指した際に身につけた、極限状態におけるハンターの思考そのものだった。
ガチャリ、と。
その時、部屋の重厚な扉が開き、フォルビアが朝食のトレイを持って姿を現した。昨夜の彼女の取り乱し方を見て、今日もまた泣いて拒絶されることを期待し、うっとりとした顔をしている。
「おはよう、ジーク。……ごめんね、昨日は少し意地悪を言いすぎたよ。今日は君の好きな……」
フォルビアの言葉は、途中でピタリと止まった。ベッドの上で泣き崩れているはずの彼女が、完璧に身なりを整え、窓辺の椅子に優雅に腰掛けていたからだ。
「……遅いわね。朝食なら、そこに置いてちょうだい」
ジークリットはフォルビアを見ることなく、ただ冷徹な声で命じた。そこに、昨夜の泣きじゃくる子供の姿はない。あるのは、絶対的な誇りを取り戻した、氷のように冷たく気高い女王の姿だった。
「え……あ、うん……」
予想外の反応に毒気を抜かれたフォルビアが、テーブルにトレイを置く。
ジークリットは、迷うことなくナイフとフォークを手に取り、彼が作った料理を、極めて優雅な所作で一口、口に運んだ。
美味しい。腹立たしいほどに。だが、この屈辱的な美味しさこそが、『エネルギー』となる。私の血肉となり、あの扉の術式を解き明かし、いつかあいつの首を掻き切るための『力』となるのだ。
さあ、観察を始めましょう。まずはあの扉の結界の構造、食事の配膳のタイミング、あいつの視線の動き……全てを計算して、必ずあいつを出し抜いてやる。
食事をしながら、ジークリットの金色の瞳は、ゆっくりと部屋の出口である『扉』へと向けられた。
涙はもう、完全に枯れ果てた。
代わりにその瞳の奥で燃え上がり始めたのは、静かで、冷酷で、決して消えることのない反逆の黄金の炎だった。
つづく
天才ならば、監禁されても打破しようとするだろうなと考えました。
これから、どのようにジークリットが反撃しようとするのかを楽しんでいただけたらと思います。




