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凡人婚約者は天才令嬢を逃がさない  作者: 柊原 ゆず


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第27話 一つの嘘


 抵抗しても腕から逃れることができず、ジークリットはついに彼の腕の中で意識を手放した。

 ごめんね、ジーク。

 フォルビアはジークリットの頬を伝う涙を指の腹で拭う。彼がジークリットに告げた言葉。


 『彼、お義父様と一緒に、新しい領地開発の援助金の話で持ちきりだったよ』


 あれは、『嘘』だ。君の兄だけは、君を本気で心配し、僕を怪しんで、君を取り戻そうとしていた。






 夜会で、義兄であるクロード・プラタナスは金に眩んだ父親の言葉を遮って言った。


「――義弟殿。資金の件は感謝する。だが、私が今日ここへ来たのは、金の話をするためではない」


 彼の鋭い眼光は、フォルビアの被った『人の良い仮面』を射抜くように真っ直ぐに注がれていた。


「お義兄様。何かご不満でも?」

「……ジークリットのことだ」


 周囲に人がいないことを確認し、兄は声を潜めて切り出した。


「卒業式にも出ず、公爵家へ嫁いだあの日から、ジークとは一度も面会できていない。手紙の返事すらない。いくら『体調不良の静養』とはいえ、実の家族にまで一切姿を見せないのは、あまりにも不自然ではないか?」

「クロード、よさないか!公爵閣下を疑うような真似を……!」

「父上は黙っていてください!」


 金に目が眩む父を制し、クロードはフォルビアに一歩詰め寄った。


「彼女は、誇り高き天才だ。突然魔力を失い、塞ぎ込むようなやわな精神はしていない。……義弟殿。貴方、ジークに何をした?」


 一触即発の空気。鋭い直感で真実に肉薄する兄を前にして、フォルビアの表情からスッと笑みが消えた。

 そして。


「……何をした、とは心外ですね。僕はただ、愛する妻を『保護』しているだけですよ」


 フォルビアは、全く悪びれることなく、むしろどこか楽しげに目を細めた。


「ジークは今、心身ともにひどく疲弊しています。学園での噂や、周囲の期待……それに、魔力を失ったという現実。彼女は今、僕以外の人間と会うことを極端に恐れているんです」

「嘘だ。あのジークが、そんな……」

「嘘ではありません。……それに」


 フォルビアの紫の瞳が、蛇のように冷たく、絶対的な支配者の色を帯びた。


「今のプラタナス家は、僕の資金援助がなければ立ち行かないはずですよね?愛する妻の平穏な静養を妨げるというのであれば……僕にも、考えがありますよ」


 明確な脅しだった。公爵家の圧倒的な権力と財力。それに逆らえば、プラタナス家は一瞬で崩壊する。クロードはギリッと奥歯を噛み締め、悔しげに拳を握り込んだが……当主としての責任が、彼からそれ以上踏み込む力を奪っていた。


「……ッ、ジークを、泣かせたら……承知しないからな」

「ええ。ご安心を。僕が一生、誰よりも彼女を愛し、幸せにしますから」


 敗北感に打ちひしがれながら去っていくクロードの背中を見送り、フォルビアは再びシャンパングラスを優雅に傾けた。

 この真実を君に教えるわけにはいかない。少しでも『外の世界に味方がいる』という希望を持ってしまえば、君はあの鳥籠から逃げ出そうと足掻いてしまうから。だから、君には絶望だけを教えよう。君の家族は誰も君を愛していなかったと、世界中が君を見捨てたのだと。大丈夫。外の世界が全部君の敵になっても、僕だけはずっと君の味方でいてあげるからね。

 ただ一つ、フォルビアがジークリットについた残酷な嘘。それは、彼女の逃げ道を完全に塞ぎ、自分という存在だけに依存させるための、最も甘く、最も恐ろしい『呪い』だった。






 プラタナス伯爵邸、当主の執務室。

 新たな伯爵としてこの部屋の主となったクロード・プラタナスは、机に積まれた書類の山を見つめながら、深く、重いため息を吐き出した。

 書類の束の一番上には、マクファーレン公爵家からの莫大な資金援助の確約書が置かれている。これさえあれば、プラタナス家の財政は盤石だ。だが、その羊皮紙にサインされた『フォルビア・マクファーレン』という流麗な文字を見るたび、クロードの胸の奥は、鉛を飲んだような罪悪感と後悔に苛まれた。


「……すまない、ジークリット」


 誰もいない執務室に、懺悔の呟きが落ちる。しかし、その謝罪が妹の耳に届くことは、もう二度とないのだ。

 クロードは、妹であるジークリットが嫌いだった。幼い頃から圧倒的な魔法の才能を開花させ、美しく、気高く成長していく『完璧な太陽』。次期当主としてどれほど努力を重ねようと、周囲の称賛は常に妹へと向かった。兄として優しく愛でてやらねばならないと頭では分かっていても、どうしても彼女の輝きに嫉妬してしまう己の矮小さが憎かった。

 だから。妹の婚約者が、マクファーレン公爵家の『魔法も使えない無能な三男坊』に決まった時。クロードの胸の奥には、確かな安堵と、醜い喜悦が湧き上がっていたのだ。

 あの完璧なジークリットにも、ついに汚点ができた。無能な夫を抱え、一生その重荷を背負って生きるのだ。

 そんな浅ましい優越感を抱き、彼女から目を逸らしていた。だが、あの時。少しでも兄として彼女を思いやり、あの男を注意深く観察していれば、気づけたはずの『違和感』は確かにあったのだ。

 一つ目は、ふとした瞬間に見えた『作法』。ある日、廊下ですれ違った際、フォルビアが落とした本を拾い上げる動作を見た。その身のこなし、指先の角度、立ち上がる際の重心の移動。それは、王族の側近すら凌駕するほどの、完璧で無駄のない洗練された所作だった。だが、彼がクロードの視線に気づいた瞬間、その完璧な動作はひどくぎこちない『凡人の挙動』へとすり替わった。

 ただの偶然だったのか?いや、偶然などではなかった。無能を演じるために被っていた仮面が、一瞬だけズレた瞬間だったのだ。

 二つ目は、あの男の『眼差し』。周囲から無能だと揶揄され、妹からも冷たくあしらわれていたフォルビア。しかし、クロードは一度だけ、遠くから妹を見つめる彼の横顔を見たことがあった。その紫の瞳に宿っていたのは、虐げられる者の怯えでも、婚約者に対する穏やかな愛情でもなかった。獲物をねっとりと舐め回すような、純黒の執着。世界中の全てを焼き尽くしても構わないとでも言うような、異常なほどの熱量を持った狂気。あんな目をする人間が、ただの無害な青年であるはずがなかったのだ。

 そして極め付けは、あの夏休みのことだ。ジークリットが部屋にこもりきりになっていたあの時期。フォルビアは巧みな言葉遣いと、ひどく人の良さそうな笑顔で、父や使用人達、そしてクロードを、ジークリットの周囲から完全に遠ざけていた。


『ジークは勉強に集中したいそうです』

『僕が付きっきりでフォローしますから』


 今思えば。あの時すでに、彼女は何らかの手段で彼に絡め取られ、逃げ場を失っていたのだ。

 何故、あの時ドアを蹴り破ってでも中に入らなかった。何故、あの男を屋敷から追い出さなかった……!

 彼女が塞ぎ込んでいるのをいいことに、厄介払いができたと放置してしまった。その結果が、あの男による『完全な支配』だ。夜会の時、フォルビアが見せたあの底知れぬ冷たい瞳と、明確な脅迫。


『愛する妻の平穏な静養を妨げるというのであれば……僕にも、考えがありますよ』


 あれは、ジークリットの才能に嫉妬していた矮小な兄に対する、冷酷な答え合わせだった。『お前が見て見ぬふりをしたから、彼女は僕のものになったのだ』と。


「……くそっ……!」


 クロードは両手で顔を覆い、ギリッと奥歯を噛み締めた。後悔で胸が張り裂けそうだった。ジークリットを取り戻すために、今すぐ公爵家に乗り込み、あの男の胸ぐらを掴んでやりたかった。

 だが、今のクロードには何の手段もない。プラタナス家はすでに、フォルビアの資金援助なしでは生きていけない。ここで彼に逆らえば、一族は路頭に迷い、結局ジークリットを救い出すことなどできはしないのだ。

 圧倒的な権力。抗うことの許されない絶対的な力。かつてのジークリットのように、いや、それ以上に強大で恐ろしい化け物を、自分たちの手で育て、妹をその生贄として差し出してしまった。


「……すまない、ジーク。愚かな兄を……どうか、許してくれ……」


 夕闇が迫る執務室。

 かつて嫉妬した美しく気高い妹の姿を思い浮かべながら、敗北した当主はただ、決して届くことのない謝罪を、虚空に向かって繰り返すことしかできなかった。


つづく

一人だけ味方はいたんだよという話でした。

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