第23話 合法化された猛毒
マクファーレン公爵邸の最奥。絶望する愛しい神様を残し、フォルビアは一介の『公爵家の三男坊』として、王都の魔法省へと足を運んでいた。
魔法省の受付や廊下ですれ違う役人たちの視線には、マクファーレンの家紋に対する畏怖と、その三男であるフォルビア個人に対する『無能な放蕩息子』という侮蔑が混ざり合っている。だが、今の彼にとって、そんな視線は心地よい賛辞にすら聞こえた。
魔法省長官室。
フォルビアは、公爵家の権威を盾に強引に取った面会時間の中で、分厚い羊皮紙の束を長官のデスクに静かに置いた。
「……マクファーレン卿。これは一体?」
「僕個人が進めていた研究の、論文と特許の申請書です。長官に、直々に目を通していただきたくて」
白髪の長官は、形式的な笑みを浮かべながら書類を手に取った。内心では「無能と名高い三男坊が、公爵家の金を使って何を書いたのか」と鼻で笑っていたことだろう。
『高濃度マナ中毒および魔力暴走の緩和における、魔力受容体の安全な抑制メカニズムの解明』。
しかし、タイトルを読み上げた長官の目が、数ページをめくるうちに驚愕に見開かれ、やがて指先が小刻みに震え始めた。
「こ、これは……ッ!魔力受容体そのものを破壊せず、高濃度のマナを安全に、かつ段階的に抑制する薬……!?これほどの複雑な処方を、魔力の乏しい貴殿が錬金術の配合だけで……?」
「ええ。桁外れの魔力を持つ者が、その力に耐えきれず暴走してしまう悲劇を、どうにかして食い止めたかったんです」
フォルビアは少しだけ気弱そうに、それでいて完璧な社交用の微笑を浮かべて答えた。
「素晴らしい……!いや、恐ろしいほどの傑作だ!マクファーレン卿、貴殿は魔法の才こそ無かったかもしれぬが、これは魔法界の歴史を塗り替える発明ですぞ!」
長官が興奮のあまり立ち上がり、フォルビアの手を固く握りしめる。魔法の天才たちから『無能』と影で嘲笑われていた男が、魔法使いの根源を完全にコントロールする劇薬を、その執念だけで完成させたのだ。長官の目には、彼が『日の目を見なかった異能の天才』として映っている。
「しかし卿……これほど繊細な薬、一体どのようにして実証データを集められたのですかな?」
「ああ、それなら心配ありません。……僕の婚約者は、最高ランクの魔力保持者です。彼女が魔力の過負荷による衰弱で苦しんでいたため、数年がかりで慎重に、段階的な投与による反応を観測し続けました。おかげで彼女の暴走は完全に治まりました。完璧な実証済みですよ」
フォルビアの紫の瞳が、悲劇の婚約者を演じるように伏せられ、やがて三日月のように細められる。
長官は知る由もない。彼が絶賛しているこの『愛と救済の発明』が、この国が誇る最高の太陽、ジークリット・プラタナスの人生を数年かけて静かに削り取り、彼女を永遠に飛べない鳥へと作り変えた『猛毒』そのものであるということを。
本当に、滑稽な連中だ。
フォルビアは内心で、目の前の長官と、この国の魔法界全体を腹の底から嘲笑っていた。彼らは今、自分たちの手で、英雄の牙を抜いた凶器に『特許』を与え、合法的なものとして賞賛しようとしているのだ。
「素晴らしい偉業ですぞ、フォルビア卿!愛する者を救うためにこれほどの研究を……。すぐに審査を通し、魔法省公認の特許として発表しましょう。これまでの貴殿に対する不当な評価も、これで一変するはずだ!」
「ありがとうございます。……ああ、それから」
フォルビアは立ち上がり、帰り際思い出したように振り返った。
「そのポーションの製造権と管理権ですが、僕個人が独占する、という条項を忘れずに。……この薬は、僕の大切な神様を繋ぎ止めるための、とても特別なものですから」
「ははっ、承知いたしました!療養中の奥方様のためにも、早急に手続きを進めましょう。本当に、卿は素晴らしいご夫君だ」
感動すら覚えている長官に、いつもの『気の弱い三男坊』らしい一礼を残し、フォルビアは魔法省を後にした。
外に出ると、初春の暖かな太陽が王都を照らしていた。あの鬱陶しい有象無象に囲まれていた学園時代とは違う。彼は今、公爵家の後ろ盾を使いながら、この国中から称賛される『天才錬金術師』としての名声をもその手に収めようとしていた。
だが、そんな名誉すらもフォルビアにとっては『ジークリットを保護し、管理する正当な理由』に過ぎない。彼の最大の勝利は、自分の狂気が社会的に『救済』として認められたことだ。これで、彼女の体内に残る毒の痕跡を誰かに咎められることは永遠に無くなった。
「……早く帰ろう」
馬車に乗り込み、フォルビアは愛おしそうに自身の唇に触れた。出かける前に、ジークリットの髪に口付けをした己の唇。彼女を感じられて、フォルビアは頬を緩める。
早く帰って、あの薄暗い箱庭の底で、不安に震えている可愛い小鳥を抱きしめてやらなくては。
公爵家の三男坊を乗せた馬車は、白日の王都を抜け、絶対的な絶望と甘やかしが待つ終着点へと、軽やかに走り出していった。
マクファーレン公爵邸の最奥。魔法省から帰還したフォルビアが、音を立てずに重厚な扉を開けると、部屋の中はしんと静まり返っていた。
「……ジーク」
薄暗い室内の床で、ジークリットは今日も丸くなるようにして倒れ伏していた。頬には乾いた涙の痕が張り付き、目元は痛々しいほどに赤く腫れ上がっている。彼が不在の間、自分がもう二度と外の世界へ出られないという事実と向き合い、一人でどれほど泣き叫び、絶望に暮れていたのだろうか。フォルビアはゆっくりと近づき、冷たい床から彼女の身体をそっと横抱きにした。
かつて学園の誰もが畏怖し、高ランクの魔物すら容易く屠ってみせた気高き太陽は、今や恐ろしいほどに軽く、彼の腕の中にすっぽりと収まってしまっている。
「……泣き疲れて、寝ちゃったんだね。可哀想に」
眠りに落ちてなお、微かに震える彼女の背中を優しく撫でながら、フォルビアは彼女をふかふかのベッドへと横たえた。絹の掛け布団を首元まで引き上げ、その白く美しい頬を愛おしそうに指先でなぞる。
明日もまた早朝から、魔法省へ出向かなければならない。あのポーションを市場に流通させ、その特許を公爵家の絶対的な権利として盤石なものにするための、煩雑な手続きが残っているからだ。
……せっかく、君を僕の鳥籠に閉じ込めることができたのに。
フォルビアは眠る彼女を見つめながら、ひどく寂しそうに目を伏せた。彼女が完全に壊れ、自分に縋るようになったこの至福の時を、一秒たりとも無駄にしたくはない。ずっとこの薄暗い部屋で彼女を抱きしめ、その涙を舐めとり、甘い毒を与え続けていたい。彼女の側を離れるのは、フォルビアにとっても身が裂かれるような苦痛だった。けれど、彼は自身の内に渦巻くその狂おしいまでの未練を、ぐっと押さえ込んだ。
これも全部、君のためなんだよ、ジーク。
自分にそう言い聞かせる。
あの薬が社会的に『偉大な発明』として認知されれば、彼女をこの部屋に閉じ込めている状況は、誰の目から見ても『献身的な夫による療養』として完璧に保護される。外の世界の有象無象が、彼女という太陽を再び空へ連れ出そうとする可能性を法と権力で完全にへし折るための、最後にして最大の仕上げなのだ。彼女の美しさを永遠に守るためには、どうしても必要な期間だった。
「……もう少しだけ、待っていてね。そうしたら、もう二度と君の側を離れないから」
フォルビアは、微かに寝息を立てるジークリットの額に、慈しむように深く、長いキスを落とした。そして、彼女が目覚めた時にまた一人で泣いてしまわないよう、枕元に自身の残り香を纏わせた上着をそっと置くと、名残惜しそうに部屋を後にする。重厚な扉が閉まり、カチャリ、と冷たい鍵の音が響いた。
つづく




