第22話 甘やかな絶望の底
ガチャリ、と。重厚な扉の向こうで、幾重にもかけられた魔法錠が外れる音がした。ビクッ、とジークリットの肩が跳ねる。ゆっくりと開いた扉の向こうに立っていたのは、卒業式の豪奢な礼装に身を包んだフォルビアだった。胸元には、学園を卒業した証である百合の紋章が誇らしげに輝いている。
「ただいま、ジーク。いい子でお留守番できたかな?」
部屋に散乱したクッションや、彼女が暴れた痕跡を一瞥しても、彼は怒るどころか、愛らしい悪戯を見つけたようにふわりと微笑んだ。そして、ふかふかの絨毯の上にへたり込んでいる彼女の元へゆっくりと歩み寄り、片膝をつく。
「……来ないで」
ジークリットは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、掠れた声で威嚇した。
憎い。この男が憎い。そして何より、この男の足音を聞いて、一瞬でも『誰かが来てくれた』と安堵しそうになった己の弱さが、死ぬほど憎かった。
「そんなに睨まないでよ。せっかく、君に卒業の報告をしてあげようと思って、急いで帰ってきたのに」
「触るな……っ!」
手を伸ばしてきたフォルビアを拒絶しようと、ジークリットは残された力で彼の腕を叩き落とそうとした。しかし、フォルビアはそれを避けることもせず、彼女の弱々しい抵抗をいとも容易く絡め取り、そのまま彼女の左手首を優しく、けれど絶対に逃げられない力で握りしめた。
「ッ……!」
「君が暴れても怪我をしないように、この部屋の家具は全部特注にしたんだ。気に入ってくれた?」
フォルビアは、彼女の薬指にはめられた銀の指輪を愛おしそうに撫でながら、甘く囁いた。
「式典、君がいなくて羽虫どもが騒いでいたよ。でもね、僕がちゃんと教えてあげたんだ。ジークはもう僕の妻になって、公爵家で静養しているから、二度と君たちの前には現れないって」
「……やめ、て……」
「皆、君が魔力を失って没落したと信じ込んでいたよ。……君の輝かしい未来は、今日、完全に終わったんだ」
淡々と告げられる残酷な事実に、ジークリットは絶望に顔を歪め、再びポロポロと涙をこぼした。そんな彼女の頬を、フォルビアのもう片方の手が優しく包み込む。彼のサラサラとした緑色の前髪が揺れ、紫の瞳が彼女の涙を舐め取るように細められた。
「泣いているの?僕に騙されたことが悔しい?……それとも、僕なんかに心を許しちゃった自分自身が、許せない?」
ビクリ、とジークリットの身体が震えた。
図星だった。この男は、自分が今何に対して一番絶望しているのかを、完全に理解した上で言葉の刃を突き立てているのだ。
「そんなに自分を責めないでよ、ジーク。……君が温室で僕に見せてくれたあの笑顔も、僕の服を掴んで泣いたあの温もりも、全部君の『本心』だったじゃないか」
「違う……私はただ、お前を利用しようと……!」
「ううん、違わないよ。君は確かに、僕に安らぎを求めた。僕を頼ってくれた」
フォルビアは、彼女の反論を甘い声で塗り潰すように、自身の額を彼女の額にコツンとすり寄せた。
「だから、君は何も間違っていないんだよ。……ただ、僕の愛が、君の計算よりもほんの少しだけ深くて、重かっただけだ」
優しい声。優しい体温。
それが余計に、ジークリットの自尊心をズタズタに引き裂いていく。
この男の愛という名の猛毒に、自分は自ら口をつけてしまったのだという事実から、もう逃げることはできなかった。
「……さて。君をこうして安全な場所にお迎えできたことだし、僕もいよいよ、次の『仕事』に取り掛からないとね」
ひとしきり彼女の絶望を堪能したフォルビアは、名残惜しそうに身体を離すと、冷徹な支配者の顔へと表情を切り替えた。
「仕事……?」
「うん。僕が君のために作った、この『弱体化ポーション』の特許と論文を、魔法省に提出してくるんだ」
その言葉に、ジークリットは息を呑んだ。この男がどれほど恐ろしいものを生み出したのか、自分の身体で嫌というほど味わっている彼女には、それが世界にどれほどの激震をもたらすか容易に想像がついた。
「この薬が正式に認められれば、世界中の魔法薬の常識が覆る。医療、軍事、捕縛……ありとあらゆる分野から、莫大な富と権力が僕の元へ転がり込んでくる」
フォルビアは立ち上がり、彼女を見下ろしながら、紫の瞳に暗い野心の炎を燃やした。
「そうすれば、優秀なお兄様も、僕を無能だと見下していたお父様も、僕の前に平伏すしかなくなる。……僕は、マクファーレン公爵家の当主になるんだ」
「……どう、して……そんなこと……」
「決まっているじゃないか」
フォルビアは、狂おしいほど純粋な笑顔を浮かべた。
「君を、一生誰にも奪われないようにするためだよ。公爵家の絶対的な権力と財力があれば、僕たちの邪魔をするものはこの世界から完全にいなくなる。……そうすれば、二人きりで誰にも脅かされることなく、ずっと一緒に生きていけるだろう?」
飼い慣らして、従順な人形にしたいわけではない。彼女の気高さも、誇り高さも、自分を憎むように睨みつけるその美しい瞳も、フォルビアはそのまま愛していた。ただ、そのすべてを自分だけのものにしたかっただけなのだ。
彼女が『ジークリット・プラタナス』という誇り高い天才のままで、己の手の中だけで生きていく。それこそが、彼の望むただ一つの未来だった。
「僕たちの愛の巣が完成するまで、あともう少しだよ。待っていてね、ジーク」
フォルビアは彼女の髪にふわりと口付けると、とろけるような甘い声で囁いた。
「……愛してる」
フォルビアは踵を返し、再び重厚な扉の向こうへと姿を消した。ガチャリ、ガチャリと、無情な施錠の音が響く。完全な静寂に取り残された綿雪の部屋。ジークリットは、自分がどれほど恐ろしく、純粋な男の愛の底に落ちてしまったのかを悟り……ただ、己の薬指にはめられた外せない銀の輪を握り締め、声を殺して泣き咽ぶことしかできなかった。
つづく




